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退去リフォームと「消えた」見積もり

スムーズな退去立会いを済ませ、補助収益になる大規模リフォームを提案することになる麻耶。

果たして家主との交渉は上手くいくが、依頼した業者が予想外の事態に、奔走する麻耶は・・・。


第十五話:退去リフォームと「消えた」見積もり

1. 完璧な退去と、古き部屋の現実

「よし、立会いに行ってきまーす」

幸栄不動産の賃貸課長、進藤麻耶は、手に馴染んだバインダーと室内チェックリストを小脇に抱え、社用車のエンジンを掛けた。五月の爽やかな風がフロントガラスを通り抜けていく。五月晴れの空は青く澄み渡っていたが、麻耶の頭の中はこれから始まる「もう一つの戦い」のシミュレーションで占められていた。

今日は、一ヶ月前に退去予告を出していた加藤君の退去日である。彼はこの春、無事に都内のIT企業への就職を決め、めでたく社会人となった。これからは会社の用意してくれた奇麗な独身寮に移るのだという。

「入居期間は丸四年、か……」

車を走らせながら、麻耶は頭の中で物件のスペックを思い浮かべる。 物件名は「コーポみどり」。緑豊かな住宅街に佇む木造二階建てのアパートだ。立地は悪くない。しかし、問題はその年齢だった。

「築三十八年。……うーん、なかなかの大物よね」

昭和の終わりに建てられたそのアパートは、外観こそ定期的な塗装で保たれているものの、内部の構造や設備にはどうしても時代遅れの影が付きまとっていた。

物件に到着し、二階の角部屋へと階段を上る。チャイムを鳴らすと、すでに荷物をすべて運び出し、すっきりとした部屋の中で加藤君が待っていた。

「あ、進藤さん。お世話になります」

「加藤君、就職おめでとう。荷出しは無事に終わったみたいね」

「はい、昨日のうちに引っ越し業者が全部持っていってくれました」

麻耶は微笑みながら室内へと一歩を踏み出し、チェックリストを広げた。まずは水回りからだ。浴室、トイレ、そしてキッチンへと視線を走らせる。

(……あら?)

麻耶は心の中で小さく声を漏らした。 四年もの間、男子大学生が一人暮らしをしていた部屋だ。ある程度の汚れや、換気不足によるカビ、油汚れは覚悟していた。しかし、目の前の設備はどれも驚くほど磨き上げられていた。

「綺麗に使ってくれたのね。キッチンもピカピカじゃない」

「あはは、母に『出る時は入った時より綺麗にしなさい』って耳にタコができるほど言われていたので。それに、僕、あまり部屋に物を置かないタコ足生活というか、ミニマリスト気味だったんです」

室内を点検していくが、壁紙を見ても画鋲の跡すらない。カレンダーやポスターはすべて粘着タブや突っ張り棒を使って工夫して飾っていたらしい。

「素晴らしいわ。これなら清掃費用だけで、お預かりしている敷金から精算しても、十分にお返しできる分が出ますよ」

「本当ですか? よかった」

「ええ。ちなみに、うちの管理物件では一Kサイズの退去清掃費用は一律二万五千円に消費税と決まっているの。これだけ綺麗なら、追加の補修費用は一切発生しません」

麻耶はバインダーから書類を取り出し、ボールペンと一緒に手渡した。

「じゃあ、こちらの書類に引っ越し先の新しい連絡先と、確認のサインをお願いします」

加藤君は素直にペンを走らせ、サインを終えると、ポケットから部屋の鍵を取り出して麻耶に手渡した。

「四年間、本当にありがとうございました。何かトラブルがあっても、幸栄不動産さんがいつもすぐ対応してくれたので、安心して学生生活を送れました」

「そう言ってもらえると、頑張った甲斐があるわ。社会人になっても体に気をつけて、お仕事頑張ってね」

「はい! 失礼します!」

何事も起きず、信じられないほどスムーズな立会いは終わった。加藤君は爽やかな笑顔を残し、新しい未来へと歩き去っていった。

だが――。 一人残された部屋で、麻耶は誰もいなくなった空間を見回し、深くため息をついた。 管理会社の人間として、ここからが本当の力量を試される本番だった。

________________________________________

2. 三つの選択肢と、伝説のシステム

「綺麗だけど……やっぱり、古いものは古い、よね」

麻耶はユニットバスの、薄暗いアイボリー色の壁を見つめた。 築三十八年。加藤君がいくら綺麗に掃除してくれたとはいえ、FRP製の浴槽は経年劣化で黄ばみ、蛇口は二ハンドル式の古めかしいタイプだ。便器も洗浄水量が無駄に多い旧式で、もちろん温水洗浄便座などついていない。キッチンの流し台も、ステンレスのシンクこそ磨かれているが、下の収納扉のベニヤ板が湿気でわずかに歪んでいた。

今時の若者が部屋探しをする際、スマホの画面で「バストイレ別」「温水洗浄便座」「独立洗面台」といった条件にチェックを入れた瞬間、この部屋は検索結果から完全に消え去ってしまう。

「次の入居者を決めるなら、ただの清掃じゃ無理。総交換の大改装が必要だわ」

ユニットバスと便器、システムキッチンの交換。照明をレトロな蛍光灯から今風のダウンライトやLEDシーリングライトへ変更。防犯のためのカメラ付きドアフォンの設置。そして、効きの悪くなったエアコンの交換。 玄関ドアは電子キーに交換。ざっと見積もっても、家主にとっては「大出費」となる。果たして、あの保守的な家主がこの提案を受け入れてくれるだろうか。

「大規模なリフォームになるなら、まずは相見積もりね」

麻耶は会社に戻ると、さっそく三つのリフォーム業者に連絡を入れ、現地調査と見積もりの作成を依頼した。彼女の頭の中には、すでに三社それぞれの特性と役割が冷徹に計算されていた。

•一社目:大手リフォーム会社「トータル・ホーム」 全国展開している大手。営業マンの対応は早く、保証もしっかりしているが、中間マージンが高いため見積もり額は一番高くなる。しかし、この会社の最大の強みは、家主が手元資金を出せない場合に、提携の「リフォームローン」をスムーズに組める点にあった。

•二社目:中堅リフォーム会社「大和やまと工務店」 地元を中心に展開する中堅業者。自社施工の割合が高く、ローンこそ組めないものの、常に良心的な価格と質の高い職人を揃えてくれる。麻耶が信頼を置いているビジネスパートナーの一つだった。

•三社目:地元の職人組織「岩谷インテリア」 頑固一徹な岩谷社長が率いる個人事務所。ここは「最低限のコストで見た目を良くする」職人技が売りだ。ユニットバスとエアコンの交換といった主要設備だけを替え、あとは塗装と、壁の一面だけをオシャレな色にする「アクセントクロス」で雰囲気を誤魔化す手法を得意とする。

「私としては、今後の物件価値を考えて、一社目か二社目の『フルリフォーム』で決めてもらいたい。でも、家主さんがどうしてもお金を出したくないと言えば、三社目の『最低限プラン』で行くしかないわね……」

麻耶がこれほど真剣にリフォーム提案に執念を燃やすのには、理由があった。 この交渉が成立すれば、幸栄不動産にも元請け、あるいは紹介料としていくらかの手数料が入る。これは不動産管理会社にとって、非常に大事な「補助収益」なのだ。

通常、賃貸管理の収益は、入居時の仲介手数料や、二年に一度の更新料がメインとなる。しかし、それだけでは人口減少時代の経営は安定しない。そこで、退去時のリフォームや日常のメンテナンスを自社で請け負うことで、第二、第三の収益の柱とする。 特に、今回のような設備入れ替えや建物全体の塗装といった「大規模修繕」を定期的に受注できれば、会社の売上は飛躍的に伸びる。

「この補助収益をきっちりとシステム化して、誰もが取りこぼさないように仕組みを作ったのが……あの人なんだもんね」

麻耶は、自社の古いファイルに眠る「リフォーム提案マニュアル」をめくった。 そのマニュアルの巻末には、色褪せた文字で作成者の名前がクレジットされている。

『管理部・龍崎 猛』

今から四十年前、幸栄不動産に彗星のごとく現れ、数々の伝説的な業績を残して去っていったという若者。現在は、街の片隅でクラシックな高級外車が停まる不思議な喫茶店「Ayuzoroyアユゾロイ」のオーナーとして、優雅に珈琲を淹れている老人だ。 彼が若き日に作ったこのシステムがあるからこそ、現在の幸栄不動産は地域密着の優良企業として持ちこたえていると言っても過言ではなかった。

「龍崎さんの作った土台を、私が汚すわけにはいかないわ。よし、気合を入れてアプローチを考えよう」

麻耶は机の上に並んだ三社からの見積書を睨みつけた。

トータル・ホーム(大手)は、総額二百二十万円。 大和工務店(中堅)は、総額百六十万円。 岩谷インテリア(格安)は、総額九十五万円。

問題は、コーポみどりの家主である。 地元の地主である大河内おおこうちオーナーは、資産家でお金は持っているはずだった。しかし、高齢ということもあり、最近はアパート経営に対して非常に消極的だ。おそらく、今回の大規模修繕の必要性についても、まだ頭の片隅にもないだろう。

「ただ『古くなったから直してください』じゃ、絶対に首を縦に振らない。大河内さんが今後、あのアパートを子供に継がせたいのか、それとも自分の代で更地にして売りたいのか……その『意向』をまず引き出さないとダメね」

麻耶は受話器を取り、大河内オーナーの自宅へとダイヤルした。

________________________________________

3. 家主の苦悩と、中堅業者の「おかしな異変」

翌日、麻耶は大河内オーナーの自宅の応接間に座っていた。 手元には、三社の見積書と、現在の賃貸市場における「築三十八年・リフォーム未施工」と「リフォーム済み」の成約率のデータをまとめた資料が綺麗にファイリングされている。

「大河内さん、203号加藤さんの退去立会いは非常にスムーズに終わりました。部屋をとても綺麗に使ってくれていたんですよ」

「ほう、そうかね。それは良かった。あそこの部屋は、彼が長く住んでくれて助かっていたんだがねえ……」

大河内は湯呑みをすするが、その表情はどこか冴えない。麻耶はその空気を見逃さなかった。

「大河内さん。実は、お部屋の設備についてご相談があるんです。確かに綺麗に使われてはいたのですが、ユニットバスもキッチンも、新築当時の昭和の設備のままなんです。次の入居者を募集するにあたって、このままでは正直、家賃を二万円下げても苦しいのが現状です」

「二万円も下げるのかね!?」 大河内は目を見開いた。

「ええ。今の若い方は、スマートフォンで検索して部屋を探します。バストイレが一緒だったり、エアコンが古かったりすると、最初の検索条件ではじかれてしまい、存在すら知ってもらえないんです。ですから、私は今回、思い切った設備の総入れ替えをご提案したいと思っています」

麻耶はすかさず、大和工務店の「百六十万円」の見積書を提示した。

「こちらは私どもが信頼している中堅の大和工務店さんのプランです。配管からすべてやり直し、最新の独立洗面台風とユニットバス、LED照明、カメラ付きドアフォンを設置します。これなら、家賃を下げるどころか、逆に五千円アップして募集をかけることが可能です」

「百六十万……」 大河内は見積書の数字を凝視し、深くため息をついた。

「進藤さん。実はな……私ももう七十後半だ。あのアパートをどうすべきか悩んどるんだよ。息子は東京でサラリーマンをしていて、地元に戻る気はないと言う。私が死んだら、あのアパートは重荷になるだけかもしれん。そんな先に投資をして、元が取れるのかね?」

麻耶はそっと頷いた。家主の本音がようやく引き出せた。

「そのお気持ち、よく分かります。ですが、だからこそ今、価値を上げておくべきなんです。もし数年後にアパートを売却されるとしても、満室で家賃収入がしっかりある『優良物件』として売るのと、空室だらけの『老朽化物件』として売るのでは、売却価格が数千万円単位で変わってきます。今、百六十万を投資することは、将来の資産価値を守ることになるんです」

大河内の目が動いた。麻耶の言葉には、ただリフォームを勧める営業マンとは違う、経営的な説得力があった。

「……なるほど。ただの贅沢品への交換ではなく、資産価値の維持か。進藤さんがそこまで言うなら、その大和工務店というところに頼もうかね。幸栄不動産さんを信頼して任せるよ」

「ありがとうございます! 責任を持って、素晴らしいお部屋に仕上げます!」

麻耶は胸の中でガッツポーズを掲げた。 幸栄不動産への手数料も、前金として大和工務店への発注費用に含まれる形で、大河内からすでに振り込まれる手続きが取られた。すべては順調。完璧なビジネスの成果だった。

――しかし、奇妙な違和感が始まったのは、工事が始まってからの一週間後だった。

大和工務店の担当者であるベテランの営業マン、佐藤からの連絡が、パタリと途絶えたのだ。 現場には解体業者や内装業者が入り、ユニットバスの撤去などは進んでいた。しかし、次のステップである「新しい設備の搬入」の日に、現場に誰も現れなかった。

「もしもし、佐藤さん? 進藤ですが。今日、コーポみどりのキッチン搬入日ですよね? 現場の大工さんから、誰も来ないって連絡があったんですけど」

麻耶が佐藤の携帯電話に鳴らすと、電波の状態が悪いのか、酷く雑音の混じった声が返ってきた。

『あ、ああ……進藤さん。すいません、ちょっと……手配に手違いがありまして。今、確認してますから……』

「手違いって、どういうことですか? スケジュールが遅れると、次の入居募集に響きます」

『大丈夫です、なんとかしますから。また、掛け直します……』

プツリ、と通話が切れた。 その佐藤の声は、いつもの快活な彼のものではなかった。まるで何かに怯え、疲れ果てたような、ひどく掠れた声。

麻耶の背筋に、冷たいものが走った。

「何か、おかしい……」

________________________________________

4. 奇妙なミステリーと、夜逃げの現場

翌日、事態は最悪の形で急展開を迎えた。 大和工務店に電話をかけても、「現在使われておりません」という無機質なアナウンスが流れるだけ。驚いた麻耶が、車を飛ばして大和工務店の事務所へと向かうと、そこにはすでに数人の男たちが集まっていた。

「おい! どういうことだ!」 「社長はどこへ行った!」

事務所のシャッターは固く閉ざされ、そこには一本の張り紙がされてあった。 『諸般の事情により、当法人は破産手続きに移行することとなりました――』

「倒産……!? 嘘でしょ?」

麻耶は息を呑んだ。大和工務店は地元でも評判が良く、資金繰りが悪化している噂など微塵もなかった。しかし、現実として会社は破綻し、経営陣は完全に姿を消していた。

「そんな……大河内さんから預かったリフォーム費用はどうなるの? 工事は途中で止まったままだし、このままじゃ部屋は廃墟同然じゃない!」

麻耶の頭が真っ白になりかけた、その時だった。 背後から、がさごそと怪しい音が聞こえた。事務所の裏口の方だ。 麻耶が不審に思い、そっと裏手に回り込むと、そこにはワンボックスカーに荷物を詰め込んでいる一人の男の姿があった。大和工務店の営業担当、佐藤だった。

「佐藤さん!?」 麻耶が声をかけると、佐藤はビクゥッ!と肩を震わせ、手に持っていた書類カバンを地面に落とした。その顔は青白く、目の下には深い隈ができている。

「し、進藤さん……」

「これ、どういうことですか! 倒産って……工事はどうなるんですか! 大河内さんのお金は!?」

佐藤はがっくりと膝を突き、頭を抱えた。

「申し訳ありません……。実は、社長が裏で悪質な投資話に引っかかって、会社の運転資金をすべて使い込んでしまったんです。私たちが知ったのは三日前。もうどうにもならない状態で……。社長は夜逃げしました。私も、下請けの職人たちから責め立てられて、こうして個人の荷物をまとめて逃げるしか……」

ミステリーのピースが繋がっていく。会社の業績不振ではなく、社長の突発的な「犯罪的投資失敗」による自滅。それが、この突然の倒産の真相だった。

「逃げるって……そんな無責任な! 現場に残された職人さんたちはどうなるんですか! うちの物件の工事は!?」

「もう、どうしようもないんです。新しいユニットバスやキッチンの部材は、すでにうちの倉庫に届いてはいますが、メーカーへの支払いが焦げ付いているから、差し押さえられるか……あるいは……」

佐藤はそこまで言うと、消え入るような声で言った。 「……もし、下請けの職人たちに、直接『現金』を少しでも払ってくれる人がいれば、彼らは動くかもしれません。彼らも被害者なんです。材料は倉庫にある。職人の手も空いている。でも、会社からは一円も払われないから、みんな怒ってボイコットしているんです」

麻耶の脳細胞が、猛烈なスピードで回転を始めた。

「佐藤さん。その倉庫にある部材、元々はうちの物件のために大河内さんが発注した原資で仕入れたものよね?」

「え、ええ。台帳には進藤さんの物件用として名前が入っています」

「その部材を今すぐ私に引き渡して。そして、現場に入っていた大工の棟梁と、内装屋さんの連絡先を教えて。夜逃げの手伝いはしないけど、あなたが今ここで私に協力すれば、少なくとも一つの現場の職人たちには、正当な手間賃が支払われるわ」

佐藤は麻耶の強い眼差しに圧されるように、コクコクと首を振った。

________________________________________

5. 逆転の算段と、ラッキーな結末

麻耶の行動は迅速だった。 彼女はまず、大和工務店の下請けに入っていた大工の棟梁、木村に直接電話をかけた。

「木村さん! 幸栄不動産の進藤です。大和工務店の件は聞きました。大変なことになりましたね」

『おう、進藤さんか! 最悪だよ、俺たちの今月分の手間賃、お釈迦さまだ! もうあそこの現場からは引き上げるからな!』

「待ってください、木村さん。大和の社長は逃げましたが、私は逃げていません。部材は私が確保しました。大和工務店を通さず、私ども幸栄不動産が、木村さんたち職人チームと『直接』個人契約を結び直します。もちろん、手間賃は全額、私が責任を持って現金でお支払いします」

『なに……? 本当か?』

「本当です。その代わり、予定通りのスケジュールで最高のお仕事をしてください。お願いします!」

木村は電話の向こうで少し黙り込んだが、やがて太い声で笑った。 『……大和のクソ社長には腹が立つが、進藤さんの心意気は買った。材料があるなら、俺たちも遊んでるよりはマシだ。格安でやってやるよ!』

麻耶はすぐに大河内オーナーのもとへと向かった。 最悪の報告をしなければならない。麻耶の心臓は高鳴っていたが、彼女の手には新しい「逆転の計算書」が握られていた。

「大河内さん、大変申し訳ありません。実は、発注していた大和工務店が本日、倒産いたしました」

「な、なんだって!?」 大河内は立ち上がった。「じゃあ、私の百六十万はどうなるんだ!」

「ご安心ください」 麻耶は静かに大河内を制した。

「前金分で部材は調達済んで私が差し押さえ、確保してあります。そして、大和工務店に支払われるはずだった残りの『百十万円』の決済ですが……会社が消滅したため、支払う必要がなくなりました」 「え……? 支払わなくていい?」

「はい。私が直接、下請けの職人さんたちと交渉し、彼らに直接『手間賃』を支払う契約を結び直しました。大和工務店の中間マージンが完全にカットされた結果、職人さんたちへの支払いは、総額でわずか『五十万円』で済むことになりました。」

大河内は狐につままれたような顔を整えた。 「ということは……私は当初、百六十万円払う予定だったのが?」

「ええ。前金と職人さんへの直接支払いを合わせても、総額で百万円ちょっと。当初の予算より安い費用で、予定通りのフルリフォームが完成いたします」

「なんと……!」 大河内は呆然とした後、破顔一笑した。 「進藤さん、君はとんでもない敏腕マネージャーだな! 倒産と聞いて心臓が止まるかと思ったが、結果的に大儲け……いや、大助かりじゃないか!」

「大和工務店の佐藤さんが、夜逃げ直前に部材の台帳を私に渡してくれたお陰です。本当に、奇妙なほど運が味方してくれました」

麻耶はホッと胸を撫で下ろした。 もし佐藤を見つけられなければ、部材は管財人に差し押さえられ、工事は長期中断、大河内は大損害を被るところだった。まさに、あの瞬間に裏口へ向かった麻耶の直感と、奇妙なタイミングが生んだ「ラッキー」だった。

数週間後、コーポみどりの二階角部屋は、見違えるような変貌を遂げていた。 最新の白いユニットバス、ピカピカのシステムキッチン、天井をスタイリッシュに照らすダウンライト。木村棟梁たちのプライドが詰まった仕事は、完璧以上の仕上がりだった。

募集を開始してわずか三日後、内見に訪れた若い女性会社員が、一目で気に入ってその場で入居を申し込んできた。家賃は予定通り、以前より五千円アップでの成約だ。

全ての処理を終えた土曜日の夕方、麻耶は足を伸ばして、喫茶店「Ayuzoroy」のドアをくぐった。 カランカラン、と静かな鈴の音が響く。

カウンターの奥では、白髪を綺麗に整えたオーナーの龍崎が、静かにサイフォンを見つめていた。

「いらっしゃい、進藤さん。少し疲れた顔をしているね。何か大きな山を越えたのかい?」 龍崎は、麻耶が席に座る前に、彼女の好みの深煎り珈琲を準備し始めた。

「聞いてくださいよ、龍崎さん。本当に大変なミステリーに巻き込まれちゃって……でも、結果的には大成功でした」 麻耶はカウンターに突っ伏しながら、今回の「退去リフォーム狂騒曲」の一部始終を語って聞かせた。大和工務店の突然の倒産、佐藤との遭遇、そして職人たちとの直契約による「費用三分の二」の大逆転劇。

龍崎は黙って珈琲をカップに注ぎ、麻耶の前に置いた。温かい湯気と共に、芳醇な香りが広がる。

「ふふ、なるほど。それは災難だったが、最高の結末だ。君が日頃から現場の職人たちや、家主さんと誠実に向き合っていたからこそ、運の女神が最後に微笑んだんだよ。不動産の仕事っていうのはね、時々そういう『奇妙なラッキー』が起きるものさ」

龍崎は遠い目をして、四十年前の自分の現役時代を思い出すように、優しく微笑んだ。

「君がしっかり幸栄不動産の手数料(補助収益)を前金で確保していたのも偉い。管理会社が損をせず、家主を救い、職人を救った。進藤麻耶課長、満点の仕事だよ」

「龍崎さんの作ったマニュアルのおかげですよ」 麻耶は珈琲を一口すすり、その深いコクに体中の緊張が解けていくのを感じた。

築三十八年の古いアパートは、新しい命を吹き込まれてまた次の時代へと歩み出す。自分の仕掛けたシステムが、今もこうして若い世代の力で回り、誰かを幸せにしている。

夕暮れ時の喫茶店に、二人の心地よい笑い声が響いていた。


賃貸管理の収益は多岐にわたる。

昔は何でも紹介手数料という形で異業種と業務提携をした。その詳細は龍崎猛の回想で出すことにする。

次の第十六話では予想外の理不尽なクレームに対応する麻耶を予定です。


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