よくある漏水事故対応と葛城裕太の予想外退去
入居者クレームでよくある漏水事故に対応する麻耶。
手際よく処理していくが経験が多くないとスムーズにはいかない。
そして葛城裕太の突然の退去予告。
第十話〈漏水事故と予想外退去〉
幸栄不動産の電話が鳴った。
受付が応対し、すぐに麻耶へと回される。
「水漏れのクレームです」
その一言で、空気が切り替わる。
「はい、進藤です」
「◯◯ハイツ103号の丹羽さんですね、どんな状況ですか?」
「ロフトの天井全体から水が垂れてきてます。どうしたらいいですか?」
ただ事ではない。
「何時頃からですか?量はどのくらいですか?」
「十五分前からで、かなりジャーって感じで垂れてます」
即座に判断する。
「わかりました。恐らく階上の方です。とりあえず器などで受けて凌いでください。こちらで確認して折り返します」
電話を切ると同時に、麻耶はファイルを開いた。
◯◯ハイツ、203号。
入居者の連絡先を探し、すぐに電話をかける。
コール一回で繋がった。
「もしもし、何か水漏れを起こしていませんか?」
相手はフィリピン人の女性。
返ってきた言葉は、途切れ途切れだった。
「えっと……みず……でた……いっぱい……」
「大丈夫、落ち着いてください。ゆっくりでいいので説明してください」
麻耶は声のトーンを落とす。
焦りは伝染する。まずは相手を落ち着かせること。
断片的な言葉を繋ぎ合わせる。
原因は、洗濯機の排水パイプだった。
勢いで排水口から外れ、水がそのまま流れ出した。
現在はパイプを戻したが、床に水が溜まっている状態。
「わかりました。雑巾やタオルで水を拭いてください。それと、排水パイプが外れないようにしっかり固定してください」
短く、的確に指示を出す。
続けて、保険の話に移る。
「今回の件は火災保険で対応できます。個人賠償と借家人賠償責任保険を使う形になりますが、よろしいですか?」
「はい……」
承諾を取り付ける。
次に階下の丹羽へ連絡。
「原因は上階の排水パイプ外れです。現在は止まっていますので、床に溜まった分が落ちきれば止まります」
「荷物が濡れてるんですけど……それは?」
「損害になります。濡れた箇所、荷物の写真を撮ってメールで送ってください。上階の方の保険で対応します」
冷静に説明する。
今回の被害の優先順位は明確だった。
最も大きいのは階下の入居者の家財。
次に建物。
クロスやボードは乾けば大きな問題にはならない。
退去時に張替えればいい。
つまり、貸主のダメージは最小限で抑えられる。
麻耶はすぐに保険会社へ連絡し、損害状況を報告。
必要事項を整理し、書類に記入していく。
ここまで、約三十分。
対応は完了した。
「……ふぅ」
椅子にもたれ、コーヒーを一口飲む。
頭の中に、ふと浮かんだ。
――メンテナンス主任者。
あのテキストに、水漏れの一次対応が載っていた。
「なるほどね……」
龍崎が勧めた理由が、ようやく実感として理解できた。
その余韻に浸る間もなく、再び電話が鳴る。
「はい、進藤です」
「✖✖マンションなんですけど、流しの排水が逆流してきて流れないんです」
次のトラブル。
「何か詰まらせましたか?」
「いえ、何もしてないです」
「わかりました。今から伺います」
受話器を置いた直後、別の電話が鳴る。
同じマンション。
別の部屋。
内容は――同じ。
逆流。
麻耶は確信した。
「……一階か」
原因は、ほぼ特定できた。
現地に到着。
一階のラーメン店へ直行する。
「オイルトラップ、見せてもらえますか?」
店主が面倒くさそうに答える。
「この前清掃したばっかりだよ。そんな詰まってないはずだけどな」
蓋を開ける。
確かに、ひどい状態ではない。
「……おかしいな」
麻耶は眉をひそめた。
次にクレームの部屋へ。
流しを確認。
水は、確かに逆流している。
地下の点検マスを開ける。
流れを見る。
――遅い。
完全に詰まっているわけではない。
だが、流れが著しく悪い。
「仕方ないか」
麻耶は倉庫へ向かい、工具を取り出した。
ワイヤー。
先端が尖った排水管用の道具。
これで、詰まりを押し出す。
作業開始。
管の中へ、ゆっくりと差し込む。
手応え。
何かに当たる。
押す。
引く。
回す。
単純だが、根気のいる作業。
時間だけが過ぎていく。
額に汗が滲む。
そして――
ぐっと、感触が変わった。
「……抜けた」
水の流れる音が変わる。
確認。
正常に流れている。
詰まりは解消された。
約三十分の格闘だった。
原因は、おそらく異物。
ボトルキャップのような固形物。
それに加えて、脂や髪の毛が絡みついた。
典型的な詰まり方だ。
「すごいな……」
後ろから声がする。
ラーメン店主だった。
「不動産屋って、下水まで直すのか?」
麻耶は苦笑した。
「普通は設備業者に頼みますよ」
「じゃあ何でやってるんだ?」
「……マニュアルがあるんです」
そう答えながら、ふと思う。
幸栄不動産には、こうしたトラブル対応の蓄積がある。
水漏れ。
排水詰まり。
クレーム処理。
すべてが、体系化されている。
それは偶然ではない。
かつて、この会社にいた“ある人物”が作り上げたもの。
効率と実務を突き詰めた結果の産物。
――龍崎。
彼が残したもの。
いわば、遺産。
麻耶は、工具を片付けながら思った。
会社は変わろうとしている。
だが、こうした“積み重ね”は簡単には消えない。
むしろ、それをどう活かすかが問われる。
ふと、頭をよぎる。
――この先、自分はどうなるのか。
会社。
仕事。
人間関係。
すべてが動き出している
その中で――
麻耶は、静かに次の現場へ向かう準備をしていた。
店に戻ろうとしていた時だった。
通りの向こうから、見覚えのある男が歩いてくる。
――葛城裕太。
一瞬、胸の奥がざわついた。
向こうもすぐに気づいたらしく、軽く手を挙げる。
「あ、進藤さん。今、お店に行こうかと思ってたんですよ」
いつもの調子。だがどこか、勢いがない。
「何かご用ですか?」
麻耶は仕事の顔で応じた。
「実は……年内で退去しようかと……」
その言葉に、思わず足が止まる。
「えっ、こないだ入居したばかりなのに、どうしたんですか?」
当然の疑問だった。
葛城は少し視線を逸らす。
「実は、遠くに行くかも……」
「お仕事ですか?」
「んー……まー、そうですね」
曖昧な返答。
歯切れが悪い。
これまで見てきた葛城とは違う。
妙に落ち着いているというか、覇気がないというか。
――何かある。
そう思ったが、踏み込むべきではないと判断した。
「では、一ヶ月前予告ということでよろしいですか?」
「はい、それで」
事務的に話を進める。
「わかりました。次の入居者募集をかけますので、申込が入った場合、退去日の延長はできませんのでご注意ください」
「はい」
「立会いの時間はどうされますか?」
「時間は……後日で。引越しの段取り、これからなんで」
「承知しました。ご連絡お待ちしております」
短い会話だった。
それ以上、言葉は続かなかった。
葛城は軽く会釈をして、そのまま歩き去っていく。
振り返ることはなかった。
麻耶は、その背中をしばらく見ていた。
――あの人が、自分から退去するなんて。
前回はトラブルによる契約解除。
転居先でも騒ぎを起こし、同業者の間では“要注意人物”として知られていた。
サバゲー業界でも同様に、良くも悪くも目立つ存在だった。
そんな葛城裕太が、今回は何も起こさず、静かに退去する。
それが、逆に不気味だった。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。
仕事としては、問題なく終わる方がいい。
それが一番だ。
だが――
胸の奥に、言いようのない違和感だけが残った。
その後、葛城からの連絡は簡潔だった。
退去日、立会い時間。
すべて事務的に決まっていく。
そして、年内。
葛城裕太は、静かにその部屋を去った。
トラブルもなく。
騒ぎもなく。
まるで最初から、そこにいなかったかのように。
その後。
彼の姿を見たという話は、ほとんど聞かれなくなった。
不動産業界でも。
サバゲー業界でも。
そして――
日本からも。
どこへ行ったのか。
何をしているのか。
それを知る者は、ほとんどいなかった。
ただ一つ確かなのは。
あの男は、またどこかで何かを起こしているかもしれない、ということ。
あるいは――
何も起こさず、静かに消えていったのかもしれない。
麻耶の賃管士試験や会社の変革の行く末はどうなっていくのか。
毎日の業務以外のよくあるクレーム対応をスムーズに処理する麻耶を描いたが、現実はもっと時間がかかったり一次対応では済まなかったりする。火災保険対応までとなると損保保険事務処理まで行うこともあり、日数がかかる。筆者が知る限りでは対応が早い管理会社は意外と少ないと思う。
麻耶の奮戦記はどこまで続くのか、彼女のRagdollへの復帰も近い。




