第110話 真夜中のノック。鼓動を聴く甘美な時間
コンドル王立監獄コロニーでの、地獄の釜の底をぶち抜くような救出劇が終わった夜。
俺たちの船『スターダスト・レクイエム号』は、嵐の後のような疲労と安堵が入り混じった、嘘のように穏やかな静寂に包まれていた。
俺はメディカルポッドでの集中治療を終え、自室のベッドに深く重い身体を預けていた。
薄暗い天井を見つめていると、気を抜けば色々なものが脳裏をよぎる。
アルベルトのあの狂気に満ちた瞳。
死の淵で見た、リリーナの優しく悲しい幻影。
ミューのあの痛いくらいに真っ直ぐな涙。
そして、ローズマリーの……あの、魂の底から絞り出すような情熱的な告白と、理性を焼き尽くすような口づけ。
……まいったな。どう落とし前をつければいい。
思い出すだけで、まだ血の巡りがおかしくなる。
女心なんてものは、ミサイルの弾道を予測するより遥かに難解で厄介だ。
ミューは俺にとって、守るべき危なっかしいガキだったはずだ。
だが、いつの間にか一人の女として、俺の隣に立とうと背伸びをしている。
ローズマリーは、打算と計算で動く女海賊だと思っていた。
それがどうだ。
なりふり構わず、全てを投げ打って俺という泥にまみれに来た。
どちらの想いも、俺みたいな半端者には眩しすぎて、重すぎる。
だが、逃げ出す気は、もう微塵もなかった。
アイツらが俺のために命を張ってくれた以上、俺もこの命の全部を懸けて、アイツらの想いに応えなきゃならねえ。
それが、最低限の仁義ってやつだ。
部屋の空気は、俺のそんなまとまらない葛藤を映すかのように、静かで、濃密だった。
――コン、コン、コン。
控えめで、規則正しいノックの音が静寂を破った。
「誰だ? こんな時間に」
警戒しながらも、気だるげに声をかけた。
「マスター。私です。ナビィです」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、微かな躊躇いを含んだ、澄んだ声。
ナビィか。相変わらず、律儀なヤツだ。
だが、俺のバイタルチェックなら遠隔でもできるはずだが。
「ナビィ? どうしたんだ? 入れよ」
俺がベッドから身を起こし、ドアを開けるボタンを押す。
そこに立っていたのは……俺の予想を、そしてなけなしの理性を、根本から揺さぶる姿だった。
……おいおい、嘘だろ。
いつもの、機能的で少しお堅いメイド服じゃない。
彼女は、月の光をそのまま溶かし込んだかのような、純白で滑らかなシルクのネグリジェを、その神が創りたもうたかのような完璧なアンドロイドの肢体に纏っていたのだ。
普段は硬質なインターフェイスと論理回路に隠されている女性的な曲線美が、薄い生地を通して仄かに浮かび上がっている。
常闇の銀河を宿したかのような艶やかな黒髪が肩から滑り落ち、白磁のように白い肌を妖しく縁取っていた。
そして何よりも俺の目を奪ったのは、その琥珀色の瞳だった。
いつもは冷静で感情の揺らぎを見せないはずのその瞳が、今はまるで溶けた蜂蜜のように潤み、熱を帯び、言葉にならない深い感情を訴えかけているかのようだった。
「な、ナビィ……、お前……その格好……」
俺は思わず言葉を失い、彼女のあまりにも人間的で、そして危険なほどに美しい姿から目が離せなくなった。
アンドロイド相手にドキマギするなんて、俺も相当焼きが回ったか……?
いや、今のコイツは、どう見てもただの『女』だ。
「マスター」
ナビィは潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見上げ、か細く震える声で、しかしはっきりと告げた。
「今宵は……できることなら、ずっとあなたの傍に、いさせてはいただけませんか……?」
俺は小さく息を呑み、ただ黙って彼女を部屋の中へと招き入れた。
ナビィは部屋に入ると、まるで初めて主人の寝室に入る忠実な仔犬のように少しだけ戸惑いながら、俺のベッドの端にちょこんと行儀良く腰掛けた。
シルクのネグリジェの裾が、滑らかな音を立てて揺れる。
彼女から漂う、清潔な石鹸のような、心を落ち着かせる独特の香りが俺の鼻腔をくすぐった。
しばし、重く、しかしどこか甘美な沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、俺だった。
「ナビィ。本当に、すまなかったな。俺があんな無茶をしたせいで」
俺はベッドに腰を下ろし、隣に座る彼女を見つめながら不器用に言葉を紡いだ。
「俺がいねえ間、この船とみんなを守ってくれて、ありがとう。お前の的確な判断がなけりゃ、あの無鉄砲な女どもは今頃どうなってたか分からねえ。本当に、感謝してる」
「……いいえ」
ナビィは、静かに首を横に振った。
その動きに合わせて、黒髪がさらりと揺れる。
「ミューさんも、ローズマリーさんも、ユウキさんも。皆さんそれぞれの力で懸命にマスターの帰還を信じ、支え合っていました。私はただ、ナビゲーターとして最低限の義務を果たしたに過ぎません」
彼女はそう言うと、ゆっくりと俺の方へと身体を寄せ、少しだけ冷たくて柔らかな身体を、俺の胸へとそっと預けてきた。
「……っ」
俺は驚きながらも、静かにナビィのそのか細く、確かな重みを持つ身体を受け止めた。
ひんやりとしたシルクの感触と、その下に感じる、アンドロイド特有の滑らかな肌の感触。
そして、彼女から伝わってくる……電子回路の悲鳴のような、確かな震え。
この小さな身体で、自分がいなかった間、どれほどの重圧に耐えていたのだろうか。
俺は改めて、ナビィという存在の自分にとってのかけがえのなさを痛感した。
あの打ち捨てられた遺跡で、眠っていた彼女を叩き起こしてから、ずっと一緒だった。
この広大で残酷な宇宙で、たった二人きりで互いを支え合い、幾度となく死線を乗り越えてきた。
だが今回、初めて彼女を置いて、完全に一人にしてしまった。
そのことへの深い罪悪感が、俺の胸をギリギリと締め付ける。
二人の間に言葉はない。
ただ、互いの存在を感じ合う、特別な、静かな時間が流れた。
「ナビィ」
俺はそっとナビィの肩に腕を回し、その驚くほど滑らかな黒髪を指で梳くように、優しく手繰り寄せた。
「お前は、何度も何度も俺に忠告してくれてたのによ。俺が馬鹿で、意地っ張りで、過去の幻影ばっかり追っかけてたせいで……本当にお前にまで、寂しい思いをさせちまった。悪かった」
「マスター……」
ナビィは俺の胸の中で、その貌をさらに深くうずめた。
そして、彼女の手が俺の背中に回され、ぎゅっと強く俺の服を掴んだ。
「……マスター……」
彼女の声は、くぐもって、ひどく震えていた。
ただのプログラムなら、こんな声は出さない。
「私はあの時、何もできませんでした。あなたを直接お守りすることも、その手で助け出すことも。ただモニターの向こうで、あなたのバイタルサインが消えていくのを……ただ、冷たい数字がゼロになっていくのを、見ていることしかできませんでした。……私は、あなたをサポートするために存在するAIとして、失格です」
ぽろり、と。
ナビィの琥珀色の瞳から、透明で熱を持った雫が零れ落ち、俺のシャツに小さな染みを作った。
「……ナビィ、お前、泣いてるのか……?」
「私は、マスターがいなければ、ただの有機物と電子の塊。無力で、無価値な存在なのです。あなたがいなければ……この広すぎる宇宙で、私が存在する意味など、どこにもないのです」
ナビィは俺の服を、さらに強く、きゅっと掴んだ。
本物の『涙』を流しながら。
「ですから、どうか! どうか、もう二度と、私を一人にしないでください! お願いです、マスター……!」
彼女の、電子プログラムという枠組みを超えた、魂からの悲痛な懇願。
「……ナビィ」
震える彼女の身体を、さらに強く、優しく抱きしめた。
俺はなんて大馬鹿野郎だ。
「馬鹿野郎。お前が無価値なわけあるか。……もう絶対に、お前を一人にはしない」
俺は、彼女の耳元ではっきりと告げた。
「お前は俺にとって、ただのAIなんかじゃない。唯一無二の、最高の『相棒』だ。……いや、それ以上だ、ナビィ。お前と出会えていなかったら、今の俺はここにはいねえ。宇宙海賊ベレット・クレイは、ナビィ……お前が隣にいてくれてこそなんだ」
「マスター……っ!」
ナビィは俺の胸の中で、ついに声を上げて泣きじゃくった。
俺は、傷だらけの大きな手で、彼女の華奢な背中を何度も、何度も撫でてやった。
やがて、泣き疲れたナビィを促し、俺たちはどちらからともなくベッドへと身体を横たえた。
添い寝をする形で、ナビィは俺の胸にぴったりと身を寄せ、俺の心臓の鼓動を子守唄のように聞きながら、静かに目を閉じていた。
離れていた空白の時間を埋めるかのように、ただ静かに、互いの存在を感じ合う。
俺は何も言わず、ただ黙って彼女の小さな身体を優しく抱き寄せていた。
シルクのように滑らかな黒髪を撫でるたび、彼女から漂う不思議と心が安らぐ香りに、俺自身のすり減った魂も静かに癒されていくのを感じていた。
……ミューの真っ直ぐな想いも、ローズマリーの重い愛も、ユウキの不器用な好意も……そして、コイツの絶対的な信頼も。
どれもこれも、俺には眩しすぎる。
だが、もう逃げない。
過去の亡霊を断ち切り、コイツら全員ひっくるめて、俺が守り抜いてやる。
二人の間の、言葉を超えた、静かで深く、そしてプラトニックな絆が再確認される。
そんな、聖なる夜の時間が流れていくのだった。




