32-1話「双月の少女」
「――うわあぁああああ!!!!」
――たかい! さむい! おちる! 死ぬ!!
レオンは、天空から見放されたかのように地に落ちる中で、死を確信していた。
翼を持つ者にしか許されない大空。そこに留まる資格は無いとでも言われるような勢いで、彼らは徐々に速度を上げて地面へと向かう。
極寒の天空。にも関わらず、背後から抱きしめるモルガンの豊かな肢体は灼熱を帯びたかのように熱い。まるで、その情念の深さを表すように。
「ふふふ⋯⋯。天空での逢瀬も、雅なものですわね。夜空の星々や双月も、私たちを祝福しているようですわ」
「あぁああ!! は、離して!! 君も死ぬんだぞ!!」
「あら。望むところですわ。あなた様と一緒なら、私はどこへだって共に参りますわ」
二人は、地上に頭を向けて落下している。
レオンは、口を開けた瞬間に風船を膨らませるような尋常では無い空気が身体へと侵入し、破裂するような恐怖を感じていた。
にも関わらず、モルガンは空気さえも避けているように、全く様子が変わらない。
話す事すら満足にできないレオンに、モルガンは静かに告げた。
「――さあ、選んでくださいまし。先ほどお伝えした通り、私はどちらでも構いませんわ」
「――!!」
彼は、自分の傷だらけの左手に、何かがあるように感じた。
――片手で、手の中を指で弄るように確かめると、小さく、硬い、“輪っか“のようなものを握っていたのだ。
「――ゆび、わ⋯⋯!?」
「ええ、ええ! さあ、どうぞそれを嵌めてくださいまし。勿論、“左手の薬指“へ⋯⋯!!」
「⋯⋯!!」
「それを嵌めるか、このまま落ちるか。どちらにしても、昂りますわ。どの道、私たちは、“最期“まで一緒にいられるのですもの⋯⋯!!」
「“契約“、か⋯⋯!!」
「よく、ご存知で。でも、不安がる事なんて何もありませんわ。さあ、“あなた様ご自身“で、その指輪を嵌めてくださいまし!!」
――“契約“。本来であれば、使い魔や騎士が主君に“永遠の忠誠“を誓う呪いの一つ。
“決して破ってはならない“という誓約と引き換えに、契約者の潜在能力を限界以上に引き出すことが出来る、古来ではよく使われていた魔法の一つ。
だが、今では“禁忌“とされていた。なぜなら、“決して破ってはならない“という契約は、“奴隷“である事でもあるからだ。
――“忠誠“と“奴隷“。言葉の定義は正反対なのに、意味はそれほど変わらない。契約を行う者が“主人“か“従者“か。それだけで大きく変わるこの魔法は、悪用される事が無いように現代では禁じられているのだ。
それを“主人“は、“騎士“の意思で契約するよう、迫っていたのだ。
「⋯⋯! 冗談じゃ、無い⋯⋯!!」
「あら。悲しいですわね。⋯⋯それでは、このまま二人で堕ちましょうか。――きっと、大丈夫。来世でも、必ずあなた様の元へと参りますわ」
「⋯⋯それも、お断りだよ!!」
レオンは、激しく抵抗する。――が、傷だらけで魔力も無く、体内の損傷も激しい少年の身体は、魔女の熱い抱擁を引き剥がすことは出来なかった。
「ああ、素敵。あなた様が動くたびに、甘美な香りが溢れ出しますわ。あなた様の汗と鉄の香り。安らぐようなミルクの匂い。にも関わらず、焼けた砂糖のような、焦げついた情欲があなた様の絶望と交わって、甘さをどんどんと増していく。⋯⋯ああ! 早くご決断を! 早く、あなた様の“魔性“に、溺れたいですわ!!」
「くっ⋯⋯! はな、して⋯⋯!」
少年が腕の中で踠く事すら、魔女は喜んでいる。レオンがその華奢な身体を震わせるたび、モルガンは理性を失っていくようであった。
(⋯⋯だめだ、引き剥がせない⋯⋯! 気を抜いたら、気絶しそうだ⋯⋯!!)
レオンは、もう限界だった。その動きは徐々に弱まり、その耳には硝子が割れるような音が徐々に近付くようにも聞こえていたのだ。
(⋯⋯だめだ⋯⋯! あきらめるな⋯⋯! やっと⋯⋯、やっと、みんなと話せたのに⋯⋯!!)
(⋯⋯おわりたく、ない。⋯⋯こんな、ところで⋯⋯!! ぼくは⋯⋯、ぼくは!!)
「――みんな⋯⋯。⋯⋯たすけて⋯⋯!」
レオンは、小さく零す。誰にも聞こえないような、か細い声で。
「さあ、レオン様! お答えを!! 私たちの幸せを!! 永久の誓約を!!」
「――今際の言葉は、それでよろしいですか」
「――!!」
ガキン、と。剣と剣が交錯する音が響く。
不意を突かれた魔女は、その両腕に抱えていた“宝物“を掴む力を、緩めてしまった。
――その隙を見逃さず、“黒い疾風“は愛する少年を取り返す。
双月に輝く、濡れ羽色の長い髪を靡かせながら。
「――!! 貴様あぁああ!!」
魔女は叫んだ。――彼女は、そのまま剣を薙ぎ払おうとして、
「――レオンに、触らないで!!!!」
――暗い黄金の刀身は、白金の剣によって止められた。
「――みん、な⋯⋯?」
抱き抱えられたレオンは、小さく零す。
その鼻腔には、月光を溶かしたような、ひんやりとした儚い、されど確かに甘い芳香が届いていた。
「お待たせしました、レオン。もう離しませんよ」
「レオンには、もう指一本触れさせないからね!!」
二人はレオンにそう告げると、魔女を鋭く睨む。
――ルナとノエル。レオンの所に舞い戻った二人の女神は、双月に照らされて、静かに輝いていた。




