31話「魔女と呼ばれる少女」
(!! 動かない⋯⋯!!)
レオンは、正気に戻ったように凍りついた貌を溶かし、驚愕していた。魔神の力は先ほど見たばかりなのだ。
――圧倒的な破壊、殲滅力。人の形を保つ事を許さない、最強の魔法のつもりだった。
それが、彼の眼前にいる細腕の少女に片手で止められていたのだ。
それどころか、魔神の持つ大剣は、構え直すことも許されないように、強大な力で掴まれている。
右目に柘榴石、左目に黝簾石を嵌め込んだ艶麗な少女は、焔の刀身を掴んだまま、レオンに向けて呟いた。
「――ああ。お待ちしておりました。お待ちしておりましたわ。この時を。この瞬間を」
媚を含んだ甘ったるい声。されど、悲しいほどに美しく、妖しく、艶麗な。まるでこの世の全ての淫美を込めたかのような、明らかな狂気を含んだ声。
――その声には、まるで“数百年間“待ち焦がれ、恋焦がれ、醸成されたような凄まじい激情が込められていた。
「ああ。ああ⋯⋯!! なんて、お美しい。なんと、儚い。何度夢見たことか。何度思い描いたことか⋯⋯! なのに、目の前の“あなた様“の魅力には敵わない。本物の持つ輝きには、到底及ばない!!」
「⋯⋯!!」
徐々に声の熱を強める双色瞳の少女。――レオンは感じていた。本能が叫んでいたのだ。
――この少女は危険だ。早く離れろ、と。
先程の万能感はもう無い。その代わりに少年に訪れたのは目の前に映る少女。その背後にある、絶対の恐怖――死よりも悍ましい狂気そのものであった。
「――ヒルダとシルフは、エリザたちを。ルナ、ノエル、クロラ。援護、お願い――!」
レオンは、独り言のように囁く。――彼の髪に隠れた精霊が彼女たちに届けてくれるのを祈るように。
彼の背中のざわつきが収まらない。その腕には鳥肌が立ち、冷や汗が滝のように噴き出す。
にも関わらず、レオンの瞳は少女を捉えて離さない。
「あなた様のこの“大剣“。とっても熱くて、大きくて、重いものですけど。⋯⋯やっぱり、私は、あなた様の“生身“がいいですわ」
そう言って、双色瞳の少女は、その細腕に僅かに力を込める。
――瞬間、大剣にヒビが入ったかと思えば、粉々に砕け散ったのだ。
そのヒビは止まる事なく“魔神“の全身へと至り、そして硝子のように砕け散っていく。
「――!! ぐあぁああああ!!!!」
――そして、その“ヒビ“は、レオンの右腕にも及んだ。ひび割れた腕からは内側から裂けたように血が吹き出し、そのあまりの痛みに彼は絶叫し、倒れ込む。
そんな様子の彼を、その少女は恍惚に歪んだ貌で見つめていた。
「ああ! やっと。やっと、あなた様の“声“が聞けました。⋯⋯素敵。なんと、甘美な響きでしょう。どんな素晴らしい楽器であろうと、あなた様の声にはかないませんわ」
倒れ込むレオンの姿を見たのか、あちこちから粗野な声が響いた。
「⋯⋯おお! やったぞ!! 魔女がやってくれた!!」
「いいぞ! やっちまえ!!」
「生かしておけ!! 俺たちが、そいつで“遊んで“やるよ!!」
逃げ出していた賊達は、彼らを囲むように戻ってきたのだ。
――勝機を見つけたかのように、その賊達は口々に叫びながら少年へと近付いていく。
「⋯⋯っ! く、くるな⋯⋯!!」
「へへ、いい“ツラ構え“じゃねえか!」
「覚悟しておけ。今日一日じゃ、終わらねえぞ!!」
「ああ! 俺たち全員で、三回は回してや――」
そして、粗野な言葉は途切れた。
「――黙れ、下郎」
双色瞳の少女は、ただ、右腕を力無く振るっただけ。
にも関わらず、レオンを囲もうとしていた賊達は、全員胴から上が無くなったのだ。
「⋯⋯お、おい! 何してんだ! 俺たちは、みかた――」
声を上げた賊は、赤い噴水へと化す。声を上げない賊達も、また物言わぬオブジェと化した。
「ご心配なさらぬよう。全員まとめて、生かしては返しませんわ」
そう言って、少女はその細腕を振り続けた。悲鳴は徐々に消えていき、後に残るのは木が焼けるパチパチ、という焚き火のようなものだけであった。
目の前に起こった、異常な状況に、レオンは思わず口を開く。
「ぐうう⋯⋯!! な、何を、しているんだ⋯⋯!」
「――あら? あらあら? もしかして、私に聞きました? 私に、声をかけてくれたのですか!?」
まるで、無数の剃刀を腕の中に入れられ、かき混ぜられたような痛み。
その痛みに悶え続けるレオンの問いに、その少女は瞳を輝かせ、彼の眼前へと身を乗り出しながら続ける。
「ああ! 今日はなんと素晴らしき日でしょうか!! あなた様の姿を見れただけでなく。声が聞けただけでなく、この私に声までかけてくださるとは!!」
少女は、蹲るレオンの目の前へと辿り着くと、膝を突いて彼に目線を合わせ、俯く顔の顎を持って、真っ直ぐに目を合わせた。
「⋯⋯申し遅れました。私の名は“モルガン“。あなた様の守り手。あなた様の騎士。あなた様の下僕にして、あなた様の“花嫁“ですわ」
「くっ、うう⋯⋯! は、花嫁⋯⋯だって?」
「ええ、ええ。この日を、私はずっと心待ちにしておりました。あなた様と一つになる。⋯⋯その夢が、ようやく叶うと」
「⋯⋯はな、れろ!!」
レオンはそう言うと、両手で持った魔剣を薙ぎ払う。――右手の激痛によって、全く力の入らない剣閃は、波打ちながら空を斬る。
そこに、モルガンはいなかった。そして、彼の後ろから届く甘い声。
「⋯⋯突然の事で動揺するのも、無理はありませんわ」
「⋯⋯! いつの、間に⋯⋯!」
「でも、信じて欲しいですの。私の、この想いは本物であると」
「どう、して⋯⋯、僕なんだ⋯⋯! 僕に、何をした⋯⋯!!」
「変な事を仰いますのね。愛に理由なんて無いではありませんか。⋯⋯それに、あなた様の、その“右腕は私の所為ではありませんわ。ただの――」
「――魔力の、使い過ぎ。⋯⋯ですわよ?」
「⋯⋯!!」
モルガンの言葉が早いか、少年の小さな身体。その全身から、ぶちぶち、と嫌な音がする。
――レオンの魔導管が、焼き切れ、弾けたのだ。
無理もない。この少年の元々の魔力は微々たるもので、そもそもが細く、大量の魔力が流れる事が想定されていない。
山の中にポツンとある、ささやかな湧き水の清流。そこに、突如土石流のような魔力が駆け巡ったのだ。無事でいる事の方がおかしい話だった。
「――がっ! あぁああああ!!」
レオンの全身に、内側から爆ぜたような激しい痛みが暴れ回る。
――体内で収まらないそれは、彼の両腕を焼き、肉と皮膚を内側から貫き、全身から血が吹き出す。
少年の視界の端に、白い火花がパチパチと散り始めた。身体の末端が凍り付けされたかのように冷たい。心臓が不規則に鼓動を放つ。
――彼は、この時初めて気がついた。自身の右眼から流れる血涙と、鼻から垂れていた血に。
後頭部を鈍器で何度も殴打されたような、鈍い痛みが響く。視界は酔っているかのように揺らぎ始めた。
(調子に乗った⋯⋯! まりょくを、つかい、すぎた⋯⋯!!)
レオンの限界を超えていた力は、彼の脳まで焼き切った。思考は霞がかり、先ほどのような冴えは無く、全く考えがまとまらない。
彼の体の魔力は、この戦いの前にヒルダから貰った魔力であったのだ。借り物の力ですら満足に戦えない自分の身体を、レオンは酷く恨む。
そんな彼を――モルガンは、受け止めるように抱きしめた。彼女は、レオンを嘆くように、慈しむように見つめながら、彼に告げていく。
「でも、もう心配いりませんわ。私が、あなた様をお守りしますから。あなた様をお助けしますから。二度と危ない事はさせませんわ。二人で一緒に、一生幸せな暮らしをしましょう?」
「足はいりませんね。私が、その代わりになります。あなた様の足となり、あなた様の行きたい所へ参りましょう」
「手は⋯⋯必要ですわね。指輪は付けて欲しいですもの。その瞳も、私を見て欲しいですし。口も、耳も。五感全てを、私で満たして差し上げますわ」
「⋯⋯! じょう、だんじゃ、ない!!」
レオンは、再度、力の込もらない斬撃を繰り出す。空を斬る、波打つ剣閃。
呂律の回らないまま魔剣を振り切った彼に訪れたのは、今度は背後からの熱い抱擁。汗と砂糖が混じり合ったような、甘く、執拗なまでに粘着質な芳香が彼の華奢な身を包みこむ。
――それと同時に、天幕を薙ぎ払いながら、ルナとノエルがレオンへと飛んできた。
「――! 不届き!!」
「レオンを、はなして!!」
――だが、モルガンは意にも返さない。
まるでモルガンはレオンと二人だけの世界にいるかのように、彼女は少年に囁いた。
「――では、選ばせて差し上げますわ」
「――っ!!」
瞬間、レオンの景色が変わる。
彼が作り出した、燃え上がる地獄は姿を消し、周囲が暗闇に包まれる。
そして、消え去った足元――地面の、感触。
一瞬の遅れの後。身体の内側――内臓が浮き上がるような、強烈な浮遊感。
背後から抱擁を受ける中、耳元で囁かれる、媚びるような甘い声。
「――さあ、選んでくださいまし。私と共に生きるか、共に死ぬか。⋯⋯勿論、私は、どちらでも構いませんわ」
「――!! う、うわあぁああああ!!!!」
二つの月がやけに近い。夜空に瞬く星々も、掴めるようにそこにある。
横を向けば、“雲“。酷く冷たい風が、華奢な少年の全身を襲う。
――地上の明かりは、遥か遠く。二人は、雲より高い夜空から、地上へと墜ちようとしていた。




