1章:閑話2「策士の手の平」
三十分ほど、黙々と浴室を磨いていたレオン。さすがに疲れが溜まってしまったのか、広い浴槽の縁に立って壁を磨いていた彼は足がふらつき、バランスを崩してしまう。
「⋯⋯あっ!」
「――キャッチ!!」
「むぎゅ!」
浴槽に頭から落ちる少年に訪れたのは、冷たく硬い衝撃ではなく、柔らかく暖かい感触だった。
「ふぅー! 危なかったー!!」
「⋯⋯ぷは! の、ノエル⋯⋯!?」
よろけて倒れる寸前の彼を受け止めたのは、ノエルだった。彼女は、その大きな胸に少年を抱き留めながら、安心したように息を吐く。
「もう! レオン! 疲れてるなら無理しちゃダメ!!」
「う、⋯⋯ご、ごめん、ノエル」
「本当に、気をつけてください。レオン一人の体ではないのですから」
「⋯⋯ルナ」
浴場の入り口から鈴の音のような声。ルナが、中へと入ってきたのだ。
「二階はシルフとヒルダが掃除をしてくれるそうです。なので、ルナとノエルはレオンを手伝います」
「ベッド、すっごく大きかったよ!! カーテンが付いてて、お姫さまが使うみたいに、とってもおっきかったの!!」
「そ、そうなんだ。⋯⋯それなら、五人で眠れそうだね」
「れ、レオン様!? ナチュラルにクロラを省かないでください〜!!」
ルナ、ノエル、レオンが三人で話していると、浴場の窓から逆さまの状態のクロラが顔を覗かせていた。
「わっ! クロラ! そんなところにいたら危ないよ!」
「そんな事はいいんですぅ〜!! クロラだってみんなと寝たいですぅ〜!!」
クロラはその窓に頭から入り、猫のように空中で身を翻して華麗に着地した。
――見惚れるほど優雅なその姿も束の間、彼女は蜘蛛のように四つん這いで高速で地上を這い、レオンの両足に縋った。
「うわぁ!」
「レオンさまぁ〜! 取り消してください〜!! クロラ、放置プレイは大好きだけど、仲間外れは嫌ですぅ〜!!」
「な! 何を言っているの!? うわ!!」
「⋯⋯!」
両足を封じられているレオンは、またもやバランスを崩す。――が、また柔らかい感触に受け止められた。
ルナが、後ろに倒れそうなレオンを抱きしめてくれたのだ。
「⋯⋯! ルナ! ご、ごめん⋯⋯」
「悪いのはクロラです。クロラ。離してください」
「いやぁ〜!! やだぁ〜!! クロラも一緒に寝るぅ〜!!」
駄々をこねるように、クロラはレオンに縋って離さない。そんな彼女に、レオンは呆れたように告げたのだ。
「勘違いさせたら申し訳ないけど、五人、ていうのは君たちの事だよ⋯⋯?」
「「「⋯⋯??」」」
レオンの言葉に、はてなを浮かべる三人。その様子に、さらに首を傾げる彼。
「レオンさまは、どこで寝るの?」
「⋯⋯ダイニングに、ソファがあったでしょ?」
「何故、です?」
「⋯⋯なぜって、それは、そうでしょ⋯⋯?」
「えー! ヤダ! レオンも一緒じゃなきゃ、ヤダ!!」
「や、やだって言っても⋯⋯。ダメ」
「――聞き捨て、なりませんね?」
レオンが三人と問答をしていると、またもや入り口から穏やかな、優しい声が響く。
「⋯⋯シルフ?」
「レオン様。少し、確認をさせて頂いても、よろしいでしょうか?」
シルフの声は穏やかだ。――だが、言葉の節々にとても冷たいものを感じる。彼女を覆う雰囲気はいつもの包容力ではなかった。
――レオンの“眼“には、彼女の背後にある、巨大な百足か蜘蛛のような影が揺らめくのが見えた気がした。
「レオン様のお言葉通りなら、私たち女性はベッドで眠り、レオン様は一階のダイニングで眠られると。それも、ソファで。お間違いありませんか?」
「そ、そうだよ? さすがに、僕がみんなと一緒に寝るのはダメだよ⋯⋯」
「えー!! 昨日一緒に寝たのに!?」
「⋯⋯あれは一緒に寝てない。君たちが潜り込んできたんだ」
シルフの“圧“に押されるも、必死に返していくレオン。
横から追撃してくるノエルは上手くいなせたレオンだったが、シルフの追求はさらに続く。
「なるほど。ところで、この屋敷の主人は、今は誰でしょうか?」
「⋯⋯一応、借りてるのは僕だね」
「そうですよね。ここの主人はレオン様です。その主人がソファで寝ると言うのなら、私たちは床で寝なければなりませんね」
「⋯⋯!? そ、そうはならないでしょ?」
「なります。主人をソファで寝かせて、私たちはふかふかのベッドで快適に眠るなんて⋯⋯。そんな事は許されません。絶対に」
「⋯⋯いや、でも⋯⋯」
「でも、じゃありません。少なくとも、レオン様がソファで寝るなら、私は床で寝ます」
「⋯⋯じゃあ、僕がベッドで寝たら⋯⋯?」
「――とっても、か弱い私たちを。⋯⋯まさかソファで寝かせる、なんて非道なことは、きっとレオン様はしませんよね♡」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
レオンは口を噤んでしまった。何も言い返せなくなってしまったのだ。
レオンがソファで寝れば、彼女たちは床で寝る。少年にとって、それは許されざる事だった。
――しかし、彼がベッドで寝るなら、彼女たちをソファで寝させるわけにはいかない。
「あっ、そうだ! ほ、他にベッドは無かったの!? これだけ広い屋敷なら――」
「ありません♡」
レオンの言葉を両断するようにシルフは切り捨てる。
――こうなる事を予見してか、シルフは他の部屋にあったシングルベッドの破壊をクロラに命じ、その残骸はルナが壊した玄関の扉と転生していたのだ。
「ベッド、とっても“やらしかった“よぉ〜? 肌が触れるところは、全部シルクになっててぇ〜、とっても触り心地がいいのぉ〜♡」
「天蓋も付いていました。レオンは小さいから、六人でも並んで眠れるでしょう」
クロラとルナに追い打ちをかけられるレオン。
――その度に、少年はどんどん小さくなっていく。
「レオン。ノエルたちと寝るの、嫌なの?」
「ノエル⋯⋯。そんな顔、しないで⋯⋯」
明らかにしゅん、と悲しげな雰囲気で、上目遣いをうるうると滲ませながらノエルは言う。
そんな彼女の様子に、レオンは居た堪れなくなってしまった。そんな少年にとどめを刺すように、さらに気怠く、されど妖艶な声が響いた。
「観念なさい。どの道、貴方がどこで寝ようと、貴方は私の側に持ってくるわ。“糸“、見ていたでしょう?」
そう言って、ヒルダが浴室へ入ってきた。――淫靡な指先から、赤い糸を伸ばしながら。
いつの間にかレオンは、五つの大きな影に覆われていた。――その様子は、彼をもう逃さないようにするための“檻“の様相である。
自身に逃げ場などない事を悟ったレオンは、諦めたように溢したのだ。
「――わかったよ。その代わり! はしたない事は禁止だからね!! 約束だよ!!」
五人の女神の形をした悪魔たちに告げるレオン。
――だが、彼女たちは妖艶に微笑むだけで、彼に返事をするものはいないのであった。




