三枚目
11
波山の記憶には虫食いがある。それは現在では埋められない瑕であった。生まれてこの方、この虫食いに何の疑問も感じたことはなかった。しかしある日突然、その瑕は大きな亀裂となって、波山の目の前に現れたのだった。
文字通り目の前に、その少年は立っていた。おとぎ話に出てくる踊り子のような恰好をした、波山にそっくりな十歳前後の少年が。少年は波山に向かって罵詈雑言を投げかけた。
「生きている意味がない」
「何をしても空回り」
「おまえがいるだけで空気が汚れる」
「全くあなたという人はつまらなくて、一緒にしゃべっていて疲れる」
彼は波山の前に現れては叱責をつづけた。ある時は講義の最中に、またある時は廊下で誰かとすれ違う時。食事の時にも背後に立たれては、波山にとって聞くに堪えない言葉を投げかけれらる。一方的に放たれた言葉の数々は、少年自身の言葉としてではなく、最初は幻聴として聞こえていた。謂れのない言葉の数々に波山が気を病んでも、誰もがその言葉を否定した。そんな声は聞こえない、と。精神の病気を疑い始めて、それはやっと姿を現したのだ。
その少年は、まぎれもなく波山そのものだった。波山が押さえ込んできた瑕の数々が集合し、肥大化し、少年――トーデストリープという妖怪を生み出したのだった。
波山は典型的な良い子という病だった。周囲から要求されることを悉く受け取り、期待されるがまま自分を演じていた。趣味も持たずにただ人々の声を聴いていた。大学に出て一人暮らしを始め、初めて自分一人の世界を持った時、その限界は訪れた。それなりに自分は上手くやれていると思っていた。日々を楽しく将来に向かって邁進しているものだと信じて疑わなかった。しかし一人になって、誰の声も聞こえなくなってはじめて、波山は自分が本当に求めていたものを知る。
「トリーはだから、僕の悲鳴なんだよ」
話を切ると、波山は後部座席を振り向いた。渋滞を抜け、車は白川のアパートの駐車場にあった。
「僕はそういうものを知っている。だからあなたのことも信じるよ」
化粧の施された顔貌には、真摯な表情が浮かんでいる。
「でも、それってやっぱり、おれのとは違うんじゃないか。それこそ、幻覚じゃないか」
「そうかもね」
遠慮がちに放たれたラルゴの言葉に、波山はラルゴの隣に目を向けた。ラルゴは助手席の後ろに座っているので、ちょうど一人分空いたスペースだ。視線の意味を探りたくて、ラルゴもそちらに目を向ける。
小さな少年が、足をぶらつかせてつまらなそうに座っていた。顔は長い前髪に隠れてよく見えない。
少年は波山に気づくと、微笑みを浮かべてこう言った。
「つまらない話ばっかしやがって、不幸自慢かよ」
「そうだね。じゃあどんな話をすれば面白くなるか、考えてみようか」
波山は教師の様になめらかに、その少年を諭したのであった。
12
その日は全くの空振りだった。近場のトンネルを虱潰しに探してみたが、結果は惨敗である。
「もしかして、車に乗ってるから駄目なんじゃないの」
帰りに寄ったファミリーレストランの席で波山が溜息を吐いた。
確かに遺跡にあったトンネルは小さく、人が通るくらいでちょうど良さそうな広さだった。あの狭さでは、車は通れない。もし元の世界に通じるものだったとしても、今度は白川たちが異世界に来ることになってしまう。
「おれ、歩いてた。小さなトンネルだから、こことは違うかもしれない」
ラルゴの言葉に、白川は首をひねった。
「トンネルへのアプローチは間違いだったのかなあ」
「そんなことない。白川、よくやった。ありがたい」
礼を伝えると、素直に照れるのが白川である。
「はっはー。ぼくって人の役に立ってるなあ」
「現状なにも進展してないけどな」
波山の冷静な指摘に、白川は崩れ落ちた。
トンネルを当たるだけでは、確かに不十分だろう。ラルゴは波山に借りているオカルトについての事典を読みつつ、会話に耳を傾けていた。ちなみにその事典に載っている魔法が、これまた童話や神話に出てくるような魔法ばかりで参考になりそうなものは無かった。唯一気になったのが、悪魔についての記述である。この世界の魔法使いは、悪魔と契約することによって力を借りる事があるという。悪魔を異世界からの住人に置き換えれば、この記述は自分の状況に被るのではないだろうか。その場合、喚び出した魔術師は白川ということになるのだが。
「そっちも収穫なしみたいだね」
波山が無表情に言う。
「悪魔についての記述、興味がある」
「ああ。サマナー関係は確かに異世界を踏み台にしてる……。それ関係を漁って見ようか」
「宇宙人関係。も、たのむ」
「うん、たくさんあるから好きなだけ持って行って」
濫読家であり読書家――積年の反動で部屋を埋め尽くすほどに増えたのだという――である波山の書籍は頼りになる。図書館は敷居が高くとも、波山になら気軽にお願いすることができた。
あれこれとやり取りをしていると、白川がこちらを見て考え込んでいた。これまで過ごしていてわかったことだが、白川はじっくり考え込むという作業が苦手らしく、感覚のままに生きているきらいがあった。こうして神妙な顔をしていると、理知的に見えるのだから不思議である。
「どうしてラルゴはこっちに来たんだろうねえ」
顎に右手を当て、やはり神妙に呟いた白川の問いは、単純な問題ではなかった。それは確かに重要な問題であった。
脈絡もなくラルゴはこの世界にやってきた。散歩のついでにトンネルに入るだけで世界を跨げるだなんて前代未聞の惨事である。そこに理由があるかどうかも怪しいものだ。
「でも、何か意味があるはずだよ」
白川の鋭い視線がラルゴをまっすぐに見据える。
「物事には理由がある。それは魔法の国も同じだろ」
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白川がスケッチブックに向かい、絵を描いている。その光景がひどく懐かしく感じるのは、ここ最近の間、ずっと外へ繰り出してラルゴのトンネル探しをしていたからだろうか。絵が描けねば死ぬという白川の唯一の楽しみを、ラルゴの所為で奪ってしまったのではと罪悪感がのしかかる。
そして今日もまた、ううむという呻きと共に、白川はベッドへ倒れ込むのだった。
「気分は最高なんだけどなあ」
ベッドの上で死にかけのセミの真似、と手足を振るわせて硬直する白川を、ラルゴは複雑な心境で見つめた。
スケッチブックの中には女性の絵が描かれていた。切り髪のたおやかな面持ちの着物を着た娘である。デッサン調に描かれたその女性は、白川が最近繰り返し描いている人物だった。
「この人、誰だ」
「『振り返る嬢』。江淵廻祐の美人画の一枚だよ」
聞けば一四〇年ほど前に画家をしていた人物の絵を、白川なりにアレンジして描いたものらしい。独学を標榜する白川にも、目標にする人物がいるのかと目を瞠る。
「迷ったときはこれを描くんだ。兎に角描く。描いて描いて描きまくって、その時を待つんだよ」
紙面をなでる指先はどこか愛おしげに見えた。この『振り返る嬢』という絵には、それだけ大切な意味を持たせているのだろう。
「そもそもどうして悩むんだろう」
白川が一人ごとのように呟いた。答えを求めていない風だったので、ラルゴは静かに次の言葉を待った。
「人間、何かしら考えて生きてる。それは尊いことだと思う。結果的に答えは自分の中にあって、それを見つけるまで悩む時間が大切なんだ。波山はそう言う。でも、答えが自分の中にあるんだったら、どうしてまずそれが見えないんだろう。自分のことなら、誰よりも自分がわかっているはずなのにさ」
ラルゴは不思議と自分のことのように感じた。直面している課題は全く別のことなのに、心境はどこか通じるものがある。
ラルゴは何故この世界に来たのか。それについての答えは出ない。しかし、この問いについての答えが導き出せれば、何かが動く気がしていた。そしてそれは、ラルゴの生き方の根本に根差しているような気もしていた。
そのヒントが、白川の悩みにもありそうだという事も。
白川は悩みや迷いがあることは打ち明けるが、内容について自分から話すことはなかった。それは傷を抱えて押しつぶされそうになってしまった波山にも似ている気がするし、ただ単に深入りされたくないだけなのかもしれない。たかだか数週間、寝食を共にしたというだけの間柄である。関係は極々最近に始まり、非常に浅いものかもしれない。
それでも、目の前でこれでもかと言うほど悩んでいる様子をちらつかされては、厭でも気になってしまう。
「シラカワ、何に悩んでいる」
「そりゃ、絵に描けないことさ」
今はそれだけしかわからないんだよ、と。白川は渋面をこちらに向けた。そもそもスタート地点からして、分かっていない。白川の闇は、そこはかとなく深い。
14
コンクリートで舗装された道を、波山と歩く。左手には目にもとまらぬ速さで車が走り、右手には田圃や家屋が入り混じった風景が広がっている。左手はともかく、右手の風景は、どことなく故郷を感じさせた。
今日はトンネルの捜索ではなく、単なる散歩である。ラルゴは、研究でも思索でも、行き詰ったときには散歩を嗜む様にしていた。足を動かし、視界に入る景色の中から何かを感じ取る。それは白川に言わせたところの、インスピレーションなのだろう。
今やラルゴはこの国の風俗を表面的には理解し、一人で出歩くにも苦労しなくなっていた。最初こそ白川の補助なしに歩き回るのは大きなな不安を伴ったが、慣れてしまえば地理の把握は容易かった。文字の読み書きができるようになったことが大きいのだろう。店の看板や標識に描いてある文字や記号の意味が分かれば、買い物もできるし、車に轢かれる心配もなかった。
そうして商店街に差し掛かった時、福屋から見知った顔が出てきた。紙袋を片手に下げ、華やかな衣裳を身にまとった彼は波山曲理その人だった。
「なんだかすっかりこの世界に慣れたみたいだね」
波山がさも安心したと言わんばかりにそう言った。
「ああ。あんたと白川のおかげだ」
「そりゃどうも」
波山とふたりきりなので、ラルゴは故郷の言葉を使う。この国の言葉に慣れていくにつれて、元の言葉を忘れそうな気がしていた。このままこちらに溶け込んで、新しい生活を始める。それはそれでいいのではないかとふと思いつき、ラルゴはぞっとしたのだ。
元の世界をあきらめる。それはとても甘美な響きに聞こえていた。
「こっちに来られたんだ。あっちに行く方法はどこかにあるはずだよ」
そうやって波山は励ましてくれるが、一体どうアプローチすればいいものか。
「案外そういうのって、最初の地点とか、元々見えているのに見逃しているものだったりするんだよ」
波山が山の向こうを見透かすように顔を上げた。白川がいたら「また始まったよ。波山お得意の精神理論」と言い出すところだが、生憎白川は家でアイディア不足に苦しんでいた。
「見えているのに見逃しているもの」
「そう。僕の持論なんだけれどね、悩みは疑問っていうのは、悩み始めた時点で半分くらい答えが見えているものだと思うんだ」
「でも、それは飽く迄精神的な悩みだろ。こういう現実的な問題には無意味なんじゃねえのか」
「でも、解決策を考えるのは当事者の脳味噌だぜ」
言いえて妙だったので、ラルゴは黙ってしまった。暫く波山も何も言わずに、並んで歩いた。ラルゴはちらりと波山の右手に下げられている紙袋を見た。御洒落好きな一面もある波山のことだから、そこには大量の洋服が詰め込まれているだろうことは想像に容易かった。かつて幼馴染と歩いた道で、何故魔法を学ぶのかと聞かれたことを思い出す。あの時は荷物を請け負う形でお茶を濁したのだ。
「なんだか考えなしだ、おれ」
「人は誰しもそうさ」
波山は袋を持ち直すと、ラルゴの肩を軽くたたいた。
15
白川の部屋にはアトリエ用の部屋がある。もともと両親に不動産会社の知り合いがいて、安くて部屋数の多いアパートを紹介してもらったのだ。そこには油絵の具や、キャンバスや、筆の類が所狭しと並んでいた。
「うーん」
と、白川は呻く。部屋の中心で椅子に座り、窓を背にしていた。西日に照らされた己の影が真っ新な壁に貼り付けられている。
ラルゴが来てから一ヶ月ほどが経とうとしている。あの唐突な出会いなので忘れそうになるが、彼が現れたのは、白川が悩んでいた時だった。あの時、良い題材が現れやしないかと妄想していたから、ラルゴはこちらの世界にやってきた。
「かわいい女の子じゃなかったのは残念だけど」
決めつけるのは早計なのかもしれない。けれども、その場に居合わせた自分が無関係だとは思えなかった。しかし、如何せん現状に決定打が欠けていた。それは、ラルゴが何故この世界に来たのか、そして、何故この世界に来られたのか。ラルゴの言うところのトンネルは、いったい何なのだろうか。
トンネルと言えば「あちらとこちら」をつなぐ暗喩として、しばしばフィクション作品に使われるものである。こちらは現世、そしてあちらはあの世――異世界に繋がるものだという象徴。そしてトンネルを抜けてどちらかの世界に行ったものは、何かを得て、成長を伴って帰ってくる。昔話や神話の世界にも似たような構造の話は幾千と存在する。
では、ラルゴが迷い込んだトンネルの先の世界には、彼を成長させる何かがあるのだろうか。この世界とあちらの世界を比較すると、時代の古めかしさは感じるが然程違いがあるわけではなさそうだ。人が住み、栄え、さまざまな問題を起こしては収束し、日々を漫然と生きている。
魔法があることを考えると、こちらよりあちらの方が便利な世界なのかもしれない。ラルゴに言わせるところの魔法は学問だそうだから、そこまで万能ではないにしろ、科学技術と同等に発達した別の技術があるというのは、白川たちにとっては未知の世界である。
白川はそこまで考えて馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。フィクションは飽く迄夢物語だ。現実に起きていることが、フィクションの世界に沿うことはないだろう。事実は小説よりも奇なり。バイロンは良いことを言う。
けれども、白川は言ってしまったのだ。思ってしまったのだ。何か意味があるのだろう、と。
「ああ、なんか頭痛くなってきた。だから考え事は苦手なんだよなー。こう、ばばーっと手が勝手に動いてなにかできたらなあ」
それこそ魔法だなあ、とアトリエを出た白川が手に取ったのは、ある絵師の画集であった。江淵廻祐。天保の時代に破戒的な絵を描き、当時はそこまで認められていなかったものの、現在になってやっと注目された稀代の画家。太い線で流れるように描かれた彼の作品の数々は躍動感に溢れ、生きて動き出すとさえ言われた。そんな廻祐の作品を、白川は尊敬し、愛していた。
この本を持ち出したのは何か糸口がつかめると思ったわけではなく、悩んでいる時の白川の癖のようなものだった。あるページに描かれた、まるでヨーロッパのような街並みの絵を見るまでは。
淡い彩色で描かれた、石造りの家が並ぶ風景が、其処にはあった。




