二枚目
06
波山のアパートに着くと、彼はすでにエントランスで待っていた。ゆるくウェーブの掛かった長い黒髪は丁寧に整えられ、裾にフリルのついたワンピースを着こなし、顔にはナチュラルメイクを施している。
「相変わらず着飾ってるよねえ」
白川が挨拶もそこそこにそういうと、波山は失敬なと返した。
「これが僕のふつうなんだよ。可愛い服を着たいから着てるだけ」
波山はぶっきらぼうにそういうと、白川の後ろにいたラルゴに目を向けた。
「あなたが外国人さんですか」
「ラルゴっていうんだよ」
波山が流暢な英語で話しかけた。すかさず白川がフォローを入れる。ラルゴは驚いた顔をしたが、差し出された波山の手を遠慮がちに握った。
「言葉がわかるのですか」
ラルゴが訊くと、波山は頷いた。
「白川の友人の波山です。迷子……だと聞いたのですが。ちょっと失礼」
波山は白川の肩をつかむと、エントランスの隅に詰め、小声で話す。
「お前な、ほんとに外国人じゃないか。言葉通じないのに何を考えてるのさ」
「いやあ、だってあの人、何もない空間から現れたんだよ。放っておけないよねえ」
「放っておきなよ、珍しもの好きなのはお前のいいところだけど欠点でもある」
こそこそと話をしている姿をラルゴが不安そうに見つめている。白川は大丈夫、とジェスチャーを送った。意味が通じたかはわからない。
「とにかくさ、話を聞いてやってよ。なんで何もないところから出てきたのか気になるし。それにあの人被写体にちょうどいいんだ、棚から牡丹餅なんだ」
「え? 被写体が牡丹餅って何だよ。お前また描けないでいたの」
波山は振り返って蒼い顔のラルゴに同情の視線を送った。つまりはこのラルゴという男、白川のおもちゃにされつつあるのだ。
「わかりました、とりあえず話してみてください。僕で良ければ相談相手になります」
波山はそういうと、自らの部屋に彼らを案内した。
話を聞いてみたときの波山の考えは、精神病院を紹介すべきか否かであった。なんでもラルゴは魔法が使えるのだという。トンネルを歩いていたらいきなり見知らぬ土地に足を踏み入れており、今に至るという。荒唐無稽と言われれば、それはそうだと頷かざるを得ない証言だった。つまり、ラルゴはアメリカでも日本でもなく、全く別の次元の世界から来たことになる。
ただ、白川の、「何もないところからいきなり現れた」という話や、通常英語圏では考えられない発音や、波山にさえわからない単語の使い方をしているラルゴの言語を考えると、信憑性がないと一概には言えなかった。彼の語る世界や、魔法の成り立ちもなかなかに興味のある話であったし、何より波山は知っている。思い知っている。
不思議は存在するのだということを。
07
言葉を覚えていくにつれて少しずつコミュニケーションも取れるようになってきた。ラルゴが驚いたのは、白川と波山の年齢である。
聞いた所、彼らはラルゴより三つも年上なのだと言う。昼間は大学に通い、夜は簡単な仕事をこなして生活をやりくりしているのだそうだ。初めて白川と出会ったときは少年だと思っていた。彼らの外見は年齢に反して幼く見える。
白川の部屋でそれを口にすると、彼は頷いた。
「人種の違いってやつだよねぇ。東洋人って西洋人からしたらかなり若作りしてるように見えるんだってね」
「せいようじん」
「海の向こうに住んでいる人たちのことだよ。東洋人っていうのがぼくらのこと。まあ、そこからまたどこどこの国の人ーって細かく分かれるんだけどね。でも最終的には個人と個人さ。面白いねえ」
言いながら、白川はスケッチブックに何事かを描き込んでいる。どうやら白川は絵を描くことに対し並々ならぬ執着があるようで、いつでもノートと筆記用具は手元に置いて居る。白川が手を動かすと、真っ新な紙面に様々な世界が描き出される。科学でも魔法でもたどり着けない空想と幻想の世界だ。
デフォルメされた人の絵がいくつも描かれていく。丸いフォルムに細長い胴体に手足。それらに着せられていく服は白川や自分の着ている洋服から、着物と呼ばれるこの国の民族衣装や、布一枚を器用に巻きつけるものなど、つらつらと描いていった。所謂民族衣装と呼ばれるもので、ラルゴの世界にあるものとも似ているものがいくつか見受けられた。
「むむう」
ラフをいくつか描いた所で、白川はぽいとスケッチブックと鉛筆を放った。胡坐をかいたまま、白川は後ろに倒れた。続いて、地の底から漏れ出した水蒸気のような溜息を吐くのだった。
「どうした」
ラルゴは仰向けになった白川をのぞき込んだ。
「どうしたもこうしたも、描けないんだよ」
がばりと起き上がると、白川はスケッチブックを指さした。ラルゴは首を傾げる。
「描けている。何故」
「違うんだよ。これはただ説明のために図に起こしただけでしょう。信念とアイディアから絞り出された線と色。それが絵画だ。これはイラスト」
今度は前屈するように上体をだらりと床に落とした。描けないことについてぶつぶつと呪詛が聞こえてくる。
「シラカワ、描けない。どうなる」
「死ぬ」
地の底を這うような返答だった。白川は画家ではない。仕事で描いているわけではない。それでも描けねば死ぬという。
自分は今、魔法が使えない。自分なりに情熱を持って研究に臨んでいる心算だったが、いざ使えないとなっても不自由しない。それについて、悔しくないわけではない。それでも生きていることの方がラルゴにとっては重要で、この地に適応しようと全力を尽くしている。それでも、白川は好きなことができないだけで死ぬという。
ラルゴは何と声をかければ最善なのかわからず、借りている英和辞典に所在なさげな視線を送った。
08
ラルゴの故郷は山間にある小さな村だった。厳しい冬を超えてしまえば豊かな実りと爽やかな風に恵まれた場所である。大きな町に比べれば研究施設など乏しいものがあったが、神殿の遺跡を見るに、古代には大きな文明があったことが考察されている。ラルゴは幼い時分からその遺跡にはよく訪れ、友だちとごっご遊びに興じたものだった。
母は幼いころにはやり病であっという間に逝ってしまった。当時から感情の起伏の薄かった父が、珍しく涙をこぼしていたのをよく憶えている。ぬいぐるみを抱きしめ、動かなくなってしまった母をラルゴは不思議そうに眺めていただけだったが、その涙を見て得も言われぬ不安が駆け抜けた覚えがあった。頭に乗せられた父、ロバートの大きな手がそれを一層助長させた。それからというもの、父一人子一人の生活だ。
いつからだろう、魔法に興味を持ったのは。村の魔女たちの薬を飲んで、感冒がすっかり癒えてからだろうか。大嵐で傷んでしまった鶏小屋が一瞬で組み上げられる瞬間を見てからだろうか。ラルゴは魔法に関する記憶を一通り掘り起こしてみた。どれも決定打には欠ける気がする。ただ茫洋と、世界の仕組みを紐解いていくかのような感覚が楽しかったのだと言うほかない。それに加えて、魔法使いとして村で働く父の役にも立ちたかったのかもしれない。なにせよ弱冠一七にして研究という名目で森の近くに引きこもっていられるのは、ひとえに魔法に対する探究心が強かったからであろう。
「ラルゴは、どうしてそんなに魔法のことを勉強しているの?」
幼馴染のエミリアにそう聞かれて、言葉に詰まった。それは二人で散歩道を楽しんでいる時だった。趣味である散歩の途中、買い物帰りのエミリアと遭遇したのだ。
長い金の髪を風に靡かせている彼女は快活な性格をしており、いつでもラルゴの一歩先を歩いていた。エミリアの家は魔女の家系であり、特に医療方面の魔法について興味を持っていた。近々大きな町の学校に通い、本格的に医者を目指すのだそうだ。明確な目標を持って日々を生きる彼女を、ラルゴは常々羨ましく思っていた。
「どうしても話さなきゃだめか?」
気まずくなってそれだけを絞り出す。
「んん。まあちょっと気になっただけだから、話したくないんなら別にいいけれど」
エミリアはそう言って抱えていた買い物袋を持ち直した。薬の瓶やら乾燥させる前の薬草やらで膨らんでいる布袋を見て、ラルゴはそれを自分の腕の中へと移動させる。
「あっ。別にいいのに」
エミリアが驚いて目を瞠る。
「いや、なんとなく……」
胸の前で抱きしめた布袋はずっしりと重かった。自分にはない重みだ。ラルゴは虚しくなっていく心を見たくなくて、手持無沙汰にならないように、荷物を請け負ったのだ。それを言葉にするには、歩きながらというこの状態は相応しくない様に思えた。
「あんたってば、なんとなくばっかりだね。ありがと」
エミリアがあきれ気味に礼を言うのを聞きながら、ラルゴは歩く。
魔法を学ぶ意味。幼いころから単純な興味だけで形成されてきた魔法への没頭。ラルゴはそこに、いったい何を見出せば良いのだろう。歩調に合わせて揺れる世界で、ラルゴは悩む。
09
「きみの国を探そう」
白川が大学から帰ってくると、部屋で辞書を片手に読み書きの練習をしていたラルゴに向けてそう言った。その姿は、創作に詰まったと意気消沈しているいつもの姿とは打って変わっていた。生き生きとした科白に、ラルゴは自分を指さした。
「おれの国?」
「そう。ずっとぼくの家に住んでいるわけにもいかないだろ。だから帰り道を探そう」
確かにラルゴは故郷に帰りたいと思っていた。その為にこの世界の書物の文字と言葉を覚え、手がかりを探そうと考えていたのである。
「きみは何もないところから突然現れた。でもきみ自身はトンネルを通ってきたと言う。なら、こっちからあっちに行くときもトンネルを通れば帰れるんじゃないかと思うんだ。面白いよね。まさか異世界なんてものが本当にあるなんてさ。それだけで、何枚も絵が描ける気がするんだ」
だからその世界を探させてくれ。瞳を輝かせてそう語る白川。ラルゴにとっては願ってもない申し出だった。異邦人であるラルゴにとって、何の予備知識もなしに町に繰り出すのは危険だった。
「是非、是非お願いする!」
ラルゴは立ち上がって白川の手を取った。白川は握り返すと、ぶんぶんと上下に振った。そしてスマートフォンを取り出すと、波山に電話をかけ始めた。てきぱきと状況を説明すると、波山はあきれ気味にも――「また唐突なこと言い出して」――了承してくれたようだった。
「さあ、行くぞラルゴ! 無限の彼方へ」
そう叫んでアパートの部屋を飛び出した白川は、やはりスケッチブックを抱えていた。
「何しに行くのかわかってるのかコイツ」
波山が彼の車に乗り込んだ白川を小突く。
「わかってるよ。でもただ行くんじゃ詰まらないじゃないか」
「絵を描く暇も場所も無いぞ、たぶん」
「いつインスピレーションが来るかわからないからね」
「あっそ。いつも絵ばっかり描いてる奴はいいな、気楽で」
「そっちこそ書痴だろうが」
軽口を投げ合いつつ、白川はラルゴに振り向いた。助手席から後部席を指す。
「ラルゴも乗ってよ。今日は束原まで行くよ」
ラルゴは戸惑い気味に座席を見つめたが、おとなしく乗り込んだ。どうやらこの乗り物はラルゴの世界にもあった自動車と同等のものらしい。この世界に来た当初はあまりの速度に驚いたものだったが、もしかするとあちらの世界も、時を経ればこちらの世界と似たような機構になるのかもしれない。そう思えるくらいには、あちらの世界とこちらの世界は似たようなものばかりがある。魔法が無い代わりに、機械技術が発達した世界。それはラルゴの価値観に少々の衝撃を与えた。けれども、魔法を使うものは誰しも口にするのだ。『魔法は万能ではない。故にそれに頼り切りになってはいけない』。だからラルゴの世界でも蒸気機関車は走り、電話はつながるのである。
いずれ、魔法使いが要らなくなる時代が来るのだろうか。ラルゴは目を伏せ、車の揺れに身を任せた。
10
束原という町は、山近くの住宅街である。不可思議街道から連なる一本のバイパスに沿って家屋が並び、時折本屋や飲食店が姿を見せる。そのバイパスを丘陵が隔てており、トンネルが一本通っていた。このトンネルを抜けると植原という地域に繋がれる。
「近場だとここがまず一番だね」
運転しながら波山が言う。白川が提案したのは、この地域のトンネルを一通り回ることだった。午後も暮れに差し掛かったところで、車の通りは一層多くなり、彼らの車もまた、その渋滞に飲まれてしまった。
「あらら、全然動かないねえ」
「お前がこんな時間に言い出すからだぞ」
半眼で波山がハンドルを握っている。アイドリングの振動が心地よいのか、白川は若干眠そうである。
「ラルゴ、何か感じる?」
波山が正面から目を離さずにラルゴに話しかける。
「何も」
まだトンネルの中には入っていない。窓から見えるトンネルの市口は逆光で猶更に昏く、両側の壁に着いたランプが煌々と輝いているのが見えるだけだった。ラルゴが吸い寄せられたトンネルの様な古めかしい様子も見られなかったし、何よりこのトンネルは煉瓦造りではなかった。
「そっか。まあ、いきなりアタリだとか、ありえないとは思っていたけれど」
まあトンネルを抜けたらどっかで回ろう、と波山が呟いた科白を最後に、車内には沈黙が訪れた。十分ほど経ったところで、車の行列がぞろりと動く。波山の車はトンネルの中に入り、そのまま列は再び静止した。
白川はすっかり眠気に負けてしまったらしく、船を漕いでいる。付き合いの長さか慣れているらしく、波山は特に白川を咎める様子は見せなかった。
ラルゴは座席越しに波山を不思議そうに眺めていた。思えば自分の体験は異常だ。今に至る前は混乱が大きく目の前の問題に対処するのが精いっぱいだった。けれど、言葉もそこそこ通じるようになり、この世界の仕組みも多少わかってきたところで落ち着きが出たのか、ラルゴは白川と波山に対する疑問が湧き上がってきた。
「波山、おまえはどうしておれを助けてくれるんだ?」
ラルゴは自国の言葉――この世界で言う、英語で話しかけた。波山はすかさず言葉を返す。こちらも英語である。
「『どうして』って?」
「どう考えてもおれは異常だ。ふつうは気が触れたと思うだろ。異世界から来た、なんて。どうして信じてくれるんだ。こんな風に、帰り道を一緒に探してくれたりして」
あまりにとんとん拍子に進むものだから、気になっていたのだ。目の前でラルゴの出現を見た白川はまだラルゴの存在に疑問を持たない。初対面の食いつきの良さから言って、彼がラルゴを――異世界の存在を信じているのは判った。けれど、こうして車まで出してくれる波山は、一体何を考えているのだろう。
「確かに、心療科に連れていくべきかと最初は思ったけれどね」
波山はそこで言葉を切ると、こう続けた。
「僕だって、似たような目にあったことがあるんだよ」




