Ⅷ.重なる二つの影。
「はい、撮るよー!」
魅波くんと2人で撮った後、DIM-TAMの3人と撮ることになった。
悠奈が私のスマホを片手に声をかける。
魅波くんが変顔をして、
「お前、ちゃんとしろよ」
と、柳くんが笑う。
「今日の亜紀ちゃん、ほんと可愛いね。」
魅波くんはいつも通りの眩しい笑顔。
「ありがと。」
照れ笑いをしながら応えると、
「剣斗も見たかっただろうな。」
翼がそう呟いた。
シャッターが切られる。
その写真の中で、
私はちゃんと笑っていた。
卒業式が終わって、
翼の車に乗って自宅に戻ることになった。
みんなと別れた帰り道。
さっきまで賑やかだった分、
静かになった瞬間が少しだけ寂しい。
「亜紀、シートの位置変えていいからな。」
「ありがとう。」
その時、
スマホが震えた。
『終わった。今から向かっても、もう遅いよな。』
賢からのメッセージ。
亜紀は助手席で、
しばらく画面を見つめる。
それから、
ふっと笑った。
泣きそうな顔で。
『ううん。お仕事お疲れ様。待ってる。』
送信して、
なんとなく写真フォルダを開く。
そこには、
さっきみんなで撮った写真。
楽しそうに笑う自分。
変顔してる魅波くん。
呆れた顔の柳くん。
優しく笑う翼(玲架)。
みんながいる。
でも——
その写真の“隣にいてほしかった人”だけがいなかった。
「翼、もう少し賢のこと待っててもいい?」
『食堂で待ってる。』
と、メッセージを送った後、翼と2人で食堂へ向かった。
静かになった食堂は、昼の喧騒が嘘みたいだった。
さっきまで聞こえていた笑い声も、食器の音ももうない。
一番奥の席に座ったまま、テーブルに置いたスマホの画面は何度も点いては消えて、結局それ以上は何も来ない。
窓の外だけが、少しずつ夕方の色に変わっていく。
(ここで待ってるって言ったの、私のほうなのに)
そう思うたびに、胸の奥が静かに沈んだ。
「……まだ、来ないよね。」
小さく呟いても、返事はない。
食堂の入口が開く音がして、反射的に顔を上げる。
でも入ってきたのは、職員らしき人と、片付けの道具だけだった。
期待が落ちる感覚に、ゆっくり息を吐く。
その時、スマホが震えた。
指が一瞬だけ止まる。
けれど画面に出た名前は、賢じゃない。
『終わった。今から向かっても、もう遅いよな。』
さっき送られてきた短いメッセージ。
それだけで、今日一日分の距離が一気に思い出される。
私が送ったメッセージは、
通知も、既読も、何も返ってこない。
ただ時間だけが、少しずつ進んでいく。
ふと顔を上げて、誰もいない食堂を見回した。
机の並びも、窓の光も、いつもと同じはずなのに、今日はやけに遠い。
(ここに何回も、迎えに来てくれたのに)
思い出だけが、静かに重なっていく。
そのとき、背後から椅子が小さく鳴った。
「……亜紀。」
呼ばれて振り返ると、そこに翼が立っていた。
「そろそろ、出るか?」
いつも通りの声。
でも、急かすわけでもなく、ただそこにいるだけの声。
亜紀は少しだけ間を置いてから、ゆっくり首を振った。
「もう少しだけ……ここにいていい?」
翼は一瞬だけ黙る。
それから小さく息を吐いて、視線を外した。
「……好きにしろ。」
そう言って、入口のほうに歩いていく。
でも途中で止まって、振り返らずに言った。
「ただ、閉まる時間だけは守れよ。」
亜紀は小さく頷いた。
翼の足音が遠ざかる。
食堂にはまた、自分ひとりだけが残る。
窓の外は、もう夕方の終わりに近づいていた。
テーブルに肘をついたまま、窓の外を見ている。
夕方の光が、少しずつ薄くなっていく。
そのときだった。
「……っ、は……」
乱れた息の音が、入口のほうから聞こえた。
反射的に顔を上がった。
ガラス越しに見えたのは、息を切らしながら立っている賢だった。
髪は少し乱れて、肩で大きく呼吸をしている。
一瞬、時間が止まる。
賢は食堂の中に入ると、そのまま視線だけを探すように動かして──亜紀を見つけた。
「……ごめん」
それだけ言って、もう一度息を吸う。
「間に合わないと思った」
声は少し掠れている。
走ってきたのが、そのまま分かる声だった。
私はすぐに立てなかった。
立とうとして、でも体が遅れてついてくる。
「なんで……」
やっと出た声は、小さかった。
賢は一歩だけ近づいて、少しだけ視線を落とす。
「終わってから、すぐ向かったんだけど……電車も間に合わなくて」
言い訳みたいな説明を途中でやめて、息を吐く。
「でも、来た」
それだけ言って、また亜紀を見る。
食堂の中は相変わらず静かで、
その「来た」という一言だけが、やけに大きく響いた。
少しだけ唇を噛んでから、ゆっくり言った。
「遅いよ」
賢は一瞬だけ止まって、苦笑する。
「うん」
否定しない。
そのまま、もう一歩だけ近づいた。
「でも、来た」
もう一度、同じ言葉。
今度は少しだけ弱くて、でも逃げていない声だった。
食堂を出たあと、廊下はもう薄暗くなっていた。
窓の外の夕方だけが、かろうじて色を残している。
賢と並んで歩き出そうとした、そのとき。
「……ちょっと待て」
後ろから声がした。
振り返ると、翼がスマホを手に立っていた。
「写真、一枚だけ撮る」
「今?」
「今」
短く言って、翼は二人の距離を見た。
「そこ、並べ」
賢と私は一瞬だけ顔を見合わせてから、廊下の明かりの下に並ぶ。
翼はスマホを構えながら、少しだけ間を置いた。
いつもなら冗談の一つでも挟む男が、その時だけは何も言わない。
シャッターを切る前に、翼が口を開いた。
「……お前さ」
賢が視線だけ向ける。
翼は画面ではなく、二人そのものを見ている。
「お前のこと待ってるって、亜紀が。」
空気が一瞬止まる。
翼の声に私の指先が、小さく動く。
賢は何も言わないまま、私を見た。
翼はそれ以上、何も付け足さない。
助けるでもなく、責めるでもなく。
ただ事実だけを置くように言っただけだった。
そして、
「はい」
カシャッ。
シャッター音が、廊下に落ちる。
もう一枚。
カシャッ。
翼はスマホを下ろして画面を確認し、少しだけ息を吐いた。
「……ま、いいんじゃね」
誰に向けた言葉でもないまま、それだけ言う。
それから一度だけ二人を見て、背中を向けた。
「じゃ」
足音が遠ざかる。
賢はしばらくその背中を見ていたあと、私に視線を戻した。
賢は少しだけ息を整えてから、私を見た。
「亜紀、待っててくれてありがとう。」
一瞬だけ視線を逸らして、それから小さく首を振った。
「袴姿、見せたかったし。それに……ここに来るのも最後だなって」
その言葉に、賢の表情がわずかに動く。
「色々あったよな」
静かな声だった。
思い出して少し笑う。
「うん。何回も送ってくれたよね。迎えも。」
その一言で、賢は目を伏せる。
「当たり前のことしかしてないよ」
「当たり前じゃないよ」
少しだけ沈黙。
廊下の奥で、翼の足音が遠ざかっていく音だけが響く。
賢は小さく息を吐いてから、もう一度私を見る。
「なぁ」
「ん?」
「今日、間に合わなかったのは事実だけど」
言葉を選ぶように、一度止まる。
「でも、それで終わりにはしたくなかった」
賢は続ける。
「ちゃんと、見たかった。今日の亜紀。」
「もう見たじゃん」
「写真じゃなくて」
賢は短く言って、それ以上は続けない。
また沈黙。
でも今度は、さっきより少しだけ柔らかい。
私は視線を落としてから、ゆっくり言う。
「……遅かったけどね」
賢は一瞬止まって、それから小さく笑う。
「うん」
否定しない。
そのまま一歩だけ近づく。
「それでも、来た」
さっきと同じ言葉。
今度はもう、言い訳じゃなくて、ただの事実として落ちた。
私は何も返さないまま、賢を見上げていた。
夕日の光が、廊下いっぱいに差し込んでいた。
オレンジ色の影が、床の上でゆっくり重なっていく。
賢は、もう一度だけ私を見た。
何かを言いかけて、やめる。
代わりに、静かに息を吐いた。
「……卒業、おめでとう」
その言葉は、さっきまでのどの言葉よりも静かだった。
少しだけ目を見開いて、それから小さく笑う。
泣きそうな顔のまま。
「遅いよ」
でも、責める声じゃなかった。
賢はわずかに目を伏せて、それでも一歩、近づく。
もう距離はほとんど残っていなかった。
夕日の光が二人の間に差し込んで、影の境目を曖昧にする。
どちらが先に動いたのかは分からないまま、
ただ一瞬、世界の音が遠くなる。
廊下の静けさの中で、時間だけが止まっていた。
そして次の瞬間、
言葉では追いつけない距離が、そっと消えた。
少し間を置いてから、私はゆっくり息を吐く。
賢は何も言わないまま、ただそこにいる。
夕日はもう、窓の向こうに沈みかけていた。
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