Ⅸ.はじまりの春
校庭の桜は、もうほとんど散りかけていた。
風が吹くたびに、薄い花びらがゆっくり空を舞う。
その中を、亜紀は新しいスーツのまま歩いていた。
「……ここが、今日からの場所か。」
校門をくぐる瞬間、胸の奥が少しだけ引き締まる。
異動してきた先生の横に並び、挨拶することになった。
「今日からお世話になります、新規採用の谷沢亜紀です。よろしくお願いします。」
職員室に響く声。言い終わると大きな拍手があった。
「谷沢先生の席はここよ。」
職員室で名前を呼ばれるたびに「先生」という言葉が少しだけ重い。
「ありがとうございます。」
「学年主任の川上由美子です。1年間よろしくね。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
規模は小さく、学年が1〜2クラスの学校だった。
都内では珍しくないらしい。
担当するクラスは、2年2組。
校舎の匂いと空気にまだ慣れていない。
名簿をもらい、25人という少ない数の子供たちの名前が並ぶ。
川上先生は、一年生から持ち上がりで担任するので、子供たちのことをよく知っている。
「明日は初任者研修だから、ちょっと今日できること進めていこう。」
と、とても頼もしい先生だと感じた。
川上先生から、学年の子どもたちの情報を聞き、名簿にメモをしていく。
発達障害、モンスターペアレント、子どもたち同士のトラブルの有無など、理解しようとしても追いつかなかった。
分掌や教科部会の会議があり、学級事務に辿り着かずに定時を迎えた。
「あら、もう時間ね。初日で疲れたと思うから、先に帰って。また明日の午後に学年のことを進めましょう。」
そう言って、川上先生はお菓子を食べ始めた。きっとこれから仕事をするのだろう。
「では、お先に失礼します。」
そうして、初日の学校を出た。
帰り道、スマホを見る。
賢からの連絡はない。
既読をつけていないメッセージが一つだけ残っている。
「和哉からか。」
そう呟いて、亜紀は一度だけ画面を開いた。
【明日の初任研で会えるの楽しみにしてる!】
短い文なのに、妙に明るい。
亜紀は少しだけ息を吐いてから、スマホをポケットに戻した。
⸻翌日
大きなホールに、区内の全校の初任者が集まっていた。
まだ少し緊張の残る空気が、ざわざわと揺れている。
指定された座席に座ると、思っていたよりも遠くまで人がいることに気づく。
(こんなにいるんだ……)
同じ“先生一年目”というだけで集められた人たち。
その中に、自分もいる。
そのときだった。
視線の先で、誰かが大きく手を振っている。
「亜紀ー!」
和哉だった。
隣の席の人に軽く頭を下げながら、こちらに向かって手を振っている。
わたしは一瞬だけ驚いて、それから小さく手を上げた。
控えめに。
でも和哉はそれだけで満足したように、少しだけ笑った。
「近くじゃないんだね」
休憩時間、和哉が隣に来て言う。
「うん、たまたまだね」
わたしは資料を見ながら答える。
和哉は少しだけ肩をすくめた。
「まあでも、同じ区だしさ」
その言葉に、一瞬だけ顔を上げる。
「そうだね」
それ以上は続けない。
講義が始まると、ホールは静かになる。
スライドの光が前方に映し出されていく。
「初任者としての一年は——」
説明の声が遠く感じるほど、情報量が多い。
必死にメモを取る。
でもふとした瞬間、手が止まる。
(賢、今何してるんだろう)
一瞬だけ浮かんで、すぐに消える。
休憩時間。
和哉がまた近づいてくる。
「めっちゃ眠くならない?」
「ちょっとね」
「でもさ、こういうの一緒に受けてるのちょっと面白いよね」
和哉は軽く笑う。
私も少しだけ笑う。
でもその笑いは、すぐに講義の静けさに戻される。
ふと、ホールの外を見ると、窓の向こうに曇り空が広がっていた。
誰かの未来みたいに、まだはっきりしない色。
私は視線を戻して、ペンを握り直す。
(始まったんだ)
静かに、そう思った。
⸻ 同じ頃、
スタジオの中は、朝からずっと照明が落ち着かない熱を持っていた。
モニターの前にはスタッフが並び、誰もが同じ方向を見ている。
「はい、次シーンいきます!」
声が飛ぶ。
カメラの前に立つ剣斗は、もう“剣斗”というより役名である“高瀬 ヒロ”そのものだった。
一瞬で表情を切り替え、セリフに入る。
「……っ、OKです!」
カットがかかると同時に、空気が緩む。
でも完全には戻らない。
控室に戻る途中、スタッフが資料を差し出す。
「明日、番宣入ってます。朝の情報番組から回ります」
「了解です」
短く返す。
そのままスマホを取り出すが、通知は増えていない。
画面を一度見て、すぐに閉じる。
「剣斗くん、最近ほんと忙しいですね」
ヘアメイクのスタッフが笑いながら言う。
「そうですね」
鏡を見ながら軽く返す。
鏡の中の自分は、もうどこか遠い。
移動車の中で、窓の外を見ていた。
流れていく光の中で、時間だけが淡々と進んでいく。
ふとスマホが震える。
画面には通知。
【初任研、終わったよ!】
亜紀からのメッセージだった。
一瞬だけ画面を見るが、返信はできなかった。
何て返そうか?
⸻お疲れ様。
それだけでいいと思うんだが、今の自分に余裕がない。
それ以降、通知は増えない。
亜紀からも、自分からも。
どちらからも、何もない。
まるで最初から、繋がる線が細すぎて見えなくなっていくように。
窓の外には、ビルの光が途切れず続いていた。
そのどこにも、今の自分を止める場所はない。
それでも車は止まらない。
次の現場へ、ただ向かっていく。
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