Ⅵ.クランクイン
演技指導を終え、ついにクランクインの日を迎えた。
二月下旬の早朝。
スタジオ前には、冬の冷たい空気がまだ残っていた。
白い息を吐きながら、スタッフたちが慌ただしく出入りしていく。
大型機材を運ぶ音。
飛び交う指示。
その中心に、剣斗は立っていた。
「……早すぎだろ、これ」
時計はまだ朝六時台。
普段なら絶対に起きていない時間だ。
眠気より先に、緊張が勝っている。
「おはようございます!」
明るい声に振り向く。
ダウンジャケット姿のゆずが、小走りで近づいてきた。
「早いね」
「そっちもね」
吐く息が白く重なる。
まだ少しぎこちない会話。
けれど、現場特有の緊張感がそれ以上言葉を続かせなかった。
「じゃあみんな揃ったねー!」
監督の声が飛ぶ。
「いきましょうか。クランクインです!」
一気に空気が変わった。
スタッフたちの表情が締まる。
「本日一発目、第1話の病院シーンからいきます!」
剣斗は無意識に指を握りしめた。
——始まる。
「剣斗さん、立ち位置確認お願いしまーす」
カメラマンに呼ばれ、床の白いテープの位置へ向かう。
ふと周囲を見渡す。
モニター前のスタッフ。
音声。
照明。
メイク。
想像していたより、ずっと人が多い。
「……多くない?」
思わず漏れた小声に、隣のゆずが吹き出した。
「初日はこんなもんだよ」
「さすが、慣れてる人は違うね」
「まあ、私も最初はそう思ったかも」
冗談っぽく笑う。
その“慣れている側”の余裕が、少し遠く感じた。
「じゃあ軽くリハいきます!」
監督の声。
「剣斗くん、最初のセリフから」
剣斗は小さく息を吸った。
台本を持つ手が、ほんの少し汗ばむ。
(レッスンの時みたいに……)
ふと、亜紀の顔が浮かぶ。
卒業式の袴、どれにするか悩んでいた姿。
『え、紺と緑どっちがいいと思う?』
そんな何気ない会話まで蘇る。
胸の奥が、少しだけ柔らかくなる。
そして、口を開いた。
「……どうして、ここにいるんだよ」
声が出た瞬間。
スタジオの空気が、わずかに変わった。
監督がモニターを見つめる。
「……いいね」
小さく頷く。
「もう一回いこうか。その感じ」
隣で、ゆずがほんの少し目を細めた。
「……今の、ちょっと分かったかも」
「何が?」
ゆずはすぐには答えなかった。
ただ、剣斗の横顔を見たまま、小さく笑う。
「なんでもない」
剣斗は意味が分からないまま、小さく息を吐いた。
でも確かに。
さっきまでとは違う感覚があった。
“現場の外”から見ていた世界の中に、
少しだけ、自分が入れた気がした。
「本番いきまーす!」
助監督の声が響く。
さっきまで動き回っていたスタッフたちが、一斉に持ち場へ散っていく。
スタジオの空気が張り詰めた。
「——よーい」
カチン、とカチンコの音。
病室のドアの前に立つ。
白い壁。
静かな照明。
作り物のはずなのに、消毒液の匂いまで本物みたいで妙に現実感があった。
ドアノブに手をかける。
一瞬だけ、息を止める。
そして、開けた。
ベッドに座るゆずと目が合う。
その瞬間。
さっきまで談笑していた“ゆず”が消えた。
そこにいたのは、役として存在している別人。
その空気に、一瞬飲まれそうになる。
——セリフ。
頭が白くなりかけた、その時。
『賢って、不器用なくらい感情で動くよね』
演技レッスン帰りの夜。
コンビニ前で亜紀に言われた言葉が、不意に蘇る。
『だったら、無理に演じようとしなくていいんじゃない?』
指先に力が入った。
剣斗は、目の前の彼女を見る。
「……どうして、ここにいるんだよ」
今度は、自然に言葉が出た。
ゆずの目がわずかに揺れる。
「会いたかったから」
静かな返し。
その声が、思ったより胸に落ちてくる。
剣斗の喉が小さく動いた。
「……今さら、何しに来たんだよ」
モニター前の監督が、じっと画面を見つめている。
誰も止めない。
空気が切れない。
ゆずがゆっくり笑う。
でも、その笑顔はどこか泣きそうで。
「相変わらず、怒ると怖いね」
——そこで。
「カット!!」
一気に現実へ引き戻される。
「いいねぇ……!」
監督がモニターから顔を上げた。
「剣斗くん、今の良かった。リハより全然いい」
「……ありがとうございます」
まだ鼓動が速い。
手のひらが熱かった。
スタッフたちも小声で話している。
「初日でこれすごいな」
「空気できてたよね」
剣斗は渡されたペットボトルを受け取り、小さく息を吐いた。
その時。
隣に来たゆずが、ぽつりと言った。
「……ねえ」
「ん?」
「今、誰か思い出してた?」
自分の動きが、一瞬止まる。
ゆずは笑っていた。
でも、その目だけ妙に鋭い。
「なんか、“好きな人いる芝居”だった」
「……は?」
思わず変な声が出る。
ゆずはくすっと笑った。
「図星?」
「違うし」
即答したものの、ゆずは完全に信じていない顔だった。
「ふーん」
そのまま隣に座り、ペットボトルの水を一口飲む。
「でも、ちょっと安心した」
「何が?」
「剣斗って、“演技してます!”って感じじゃないから」
ゆずは膝に肘をつきながら続ける。
「初主演って、もっと力入る人多いんだよね。カメラ意識しすぎたり」
「……そんな余裕ないだけ」
「それがいいのかも」
さらっと言うその声が、不思議と自然だった。
その時。
「ゆずちゃーん!取材入りまーす!」
マネージャーが手を振る。
「あ、はーい!」
ゆずは立ち上がり、数歩歩いたあと、不意に振り返った。
「ねえ剣斗」
「ん?」
「その“好きな人”、大事にしなよ」
一瞬だけ、目が合う。
意味深とも、本心とも取れる笑顔。
そしてそのまま去っていった。
剣斗はしばらくその背中を見つめる。
(……なんなんだよ)
ポケットのスマホが震えた。
画面を見る。
『亜紀』
その名前だけで、張っていた緊張が少しほどける。
【初日どうー?】
短いメッセージ。
なのに、妙に嬉しかった。
剣斗は小さく笑いながら返信を打つ。
【緊張で死にそう】
数秒後。
【珍しく素直じゃん笑】
思わず吹き出しかけた、その時。
「——お、いい顔」
背後から監督の声。
剣斗が振り返る。
監督は缶コーヒーを片手にニヤニヤしていた。
「今の顔、めちゃくちゃ自然だったなぁ」
「……え?」
「恋してる顔」
剣斗の表情が固まる。
「いや、違っ——」
「隠さなくていいって。そういうの芝居に出るタイプだねぇ」
楽しそうに笑いながら去っていく監督。
剣斗はスマホを握ったまま、天井を見上げた。
(……そんな分かりやすい?)
遠くから助監督の声が飛ぶ。
「剣斗さん、次のシーン準備お願いしまーす!」
剣斗は小さく頬を叩き、立ち上がった。
——切り替えろ。
そう思うのに。
頭のどこかには、ずっと亜紀がいた。
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