第四話「記憶の欠片と、空白の賢者」
朝、目が覚めて最初にしたことは、クラスメートの名前を数えることだった。
転移してきた日、教室には三十二人いた。零はそれを覚えている。三十二という数字は残っている。しかし名前が、顔が、半分以上出てこなかった。
堂本、という名前は残っていた。眼鏡をかけた地味な男、という印象も。しかし堂本の下の名前が思い出せなかった。転移前、同じクラスで一年以上過ごしたはずなのに。
天堂冬馬は覚えていた。昨日、南門で向き合ったから。新しい記憶は消えていない。消えているのは、臨界点より前の古い層だ。
(臨界が来るたびに、古い記憶から削れていく)
零は天井を見ながら、その仕組みを整理した。
スタックは積み上がるほど容量を圧迫する。圧迫が限界に達して臨界が起きると、ステータスが再編成される代わりに、古い記憶が「領域を空けるために」消去される。
だとすれば——臨界を繰り返すほど、零は過去を失っていく。
現実世界の記憶も、すでに曖昧な部分がある。家族の顔が思い出せなかった。父親か母親か、どちらかと最後に話した会話の内容が、霧がかかったようにぼやけていた。
(いつか、全部忘れる)
その事実は、恐怖というより静かな諦観として着地した。
感傷に浸る時間は、今の零には贅沢品だった。
起き上がり、水で顔を洗い、詰め所の窓から外を見た。朝の王都が動き始めていた。昨日のバジリスク騒動の後片付けをする騎士たちの姿が遠くに見えた。
「起きてたの」
詰め所の入り口から、フェリアが顔を出した。手に焼きたてのパンを二つ持っていた。「昨日から気になってたんだけど」と彼女は入ってきながら言った。
「あんた、最近ちゃんと食べてる?」
「食べている」
「本当に? 雑務班の食堂、あんたの席が空のことが多いって聞いたんだけど」
「夜は樹海にいることが多い」
フェリアはパンを零の膝の上に置いた。
「食べて。命令」
零は素直にパンを手に取った。固くて素朴な、王都の下層向けの食事だった。
悪くはなかった。「昨日のこと」とフェリアが向かいに座りながら言った。
「バジリスクを抑えたこと、騎士団の間で話題になってる」
「そうか」
「そうか、じゃなくて。王国から話を聞きたいって連絡が来るかもしれない。雑務班のあんたが目立ったから、宰相府が動く可能性があるって騎士団の人が言ってた」
零はパンを噛みながら考えた。
宰相府。第一話の記憶で、転移直後に宰相が零のことを
「嗅ぎつけていた」という感触があった。
もともと向こうから興味を持たれていたとしたら、今回の件で接触が早まる可能性がある。
「分かった。来たら話す」
「警戒しなくていいの?」
「警戒はする。ただ、情報は欲しい」
フェリアはしばらく零の顔を見てから「……あんたと話してると、頭の構造が違う生き物と話してる気分になる」と言った。
「俺も同じことを思う」
「え、私が?」
「いや、自分が」
フェリアは少し意表を突かれた顔をしてから
「それはそれで、大丈夫じゃないやつの発言だよ」と言った。
零はパンを食べ終えた。
「今日、剣を教えてくれると言っていた」
「言った。覚えてたんだ」
「それは忘れない」
フェリアは何か言いかけてやめた。
それから立ち上がり「じゃあ訓練場の端、空いてる時間に行こう」と言った。
訓練場の隅で、フェリアの剣術指導が始まった。
「まず握り方から」とフェリアは木剣を構えながら言った。
「剣は握るんじゃなくて、添える感じ。力を入れすぎると手首が死ぬ」
零は言われた通りに木剣を持った。
フェリアが零の手の位置を直した。指の一本一本の位置、親指の角度、手首の向き。騎士見習いとしての訓練が、細部に宿っていた。
「素振り十回。ゆっくり、型通りに」
「速くない。でも綺麗」とフェリアが言った。
「型の吸収が異常に早い。一回見ただけで再現してる」
「動きを見た瞬間に、身体が覚えていく感じがある」
「それ、スキルじゃないの」
「【残響模倣】、かもしれない」
「名前だけ分かっている。蓄積の一部で、見た動きを再現する機能らしい」
フェリアは少し目を丸くした。
「そのスキル、かなりやばくない?」
「今はまだ、不完全だ。見た動きを再現できても、身体のスペックが追いつかない部分がある」
「でも追いつけば、見た動きを全部使えるってこと?」
「理屈ではそうなる」
フェリアはしばらく零を見てから「……私の剣技、全部盗まれるじゃん」と言った。
「盗む、ではなく学ぶ」
「言い方の問題じゃないんだよなあ」
それでも彼女は指導を続けた。基礎の踏み込み、重心の移動、間合いの取り方。
零は全てを一度か二度見ただけで再現していった。フェリアの表情が、途中から指導者のものではなく、何か別のものに変わっていった。
「……ねえ、零」と彼女は言った。
「あんたって、強くなることに迷いがない?」零は木剣を止めた。
「どういう意味だ」
「なんか、がむしゃらとも違うし、楽しんでるわけでもないし。ただ、淡々と積み上げてる感じ。それが時々、怖くて」
「怖い、というのは正確か」
「正確じゃないかもしれない」
「怖いというより……心配、かも」
零はその言葉の重さを、少しの間持て余した。
心配される、ということの意味が、うまく処理できなかった。感傷的な意味ではなく、純粋に——誰かに心配される経験が、記憶の中に薄かった。
「強くなる理由を、まだ見つけていない」
「だから迷いもない。理由があれば、迷う」
「理由がない方が、迷いがないって、逆説的だよ」
「そうかもしれない」
フェリアはそれ以上は言わなかった。
代わりに「もう一度、踏み込みの型やって」と言って、指導に戻った。
午後、宰相府からの使者が来た。
予想より早かった。
使者は若い文官で、丁寧な言葉遣いと、その奥にある品定めの視線を持っていた。
「宰相閣下がお会いになりたいとのことです」
「本日の夕刻、宰相府にてご足労いただけますか」
「分かった」
断る理由はなく、また断って警戒させる理由もなかった。
夕刻前、詰め所に戻ると堂本がいた。
「朝霧、宰相府から使者が来たって本当?」と堂本が眼鏡を押し上げながら聞いた。
「本当だ」
「なんで。昨日のバジリスク?」
「おそらく」
「気をつけてね」
「宰相のヴァルネア卿、良い噂を聞かない。転移者を管理する立場だけど、勇者パーティー以外の転移者には圧力をかけるって話がある」
「ヴァルネア、という名前か」
「うん。白髪で細身の老人。笑顔が多いけど目が笑ってないタイプって、会ったことある子が言ってた」
「分かった」
堂本はそれ以上何も言わなかったが、零が出ようとしたとき「朝霧」と呼び止めた。
「下の名前、なんだっけ」と零は振り返らずに聞いた。
一秒の沈黙。
「……慎二」と堂本は言った。
「堂本慎二」
「覚えた」
堂本が何か言いたそうにしていたが、零は歩き出した。
慎二、と頭の中で繰り返した。意図的に何度も反復した。新しく入れた情報は消えにくい。古い記憶が消えるのは防げないが、今から覚えることは——意識的に刻めば、少し長く持つかもしれない。
根拠のない仮説だったが、やらないよりはいい。
宰相府は王城の一角にあり、王都の下層とは別世界の調度品に満ちていた。
案内された応接室で待っていると、扉が開いてヴァルネア宰相が入ってきた。
堂本の言った通りだった。白髪、細身、笑顔。そして目が、笑っていなかった。
「朝霧零くん。昨日は見事でした」
「バジリスクを素手同然で抑えるとは。スキルなしとは思えない」
「偶然だ」
「偶然にしては、動きが洗練されすぎていた」
「転移から数日。普通の人間が、あれほど動けるはずがない」
零は答えなかった。
「単刀直入に聞きましょう」
「あなたには、何か隠しているスキルがあるのではないですか」
「神の鑑定でゼロだった」
「神の鑑定が完全とは限らない」
沈黙。
ヴァルネアの笑顔が、一ミリも動かなかった。
「我が王国は、あなたのような——規格外の転移者を歓迎します。適切な待遇、装備、情報。提供できるものは多い。ただし」
「それには、あなたの協力が必要になります」
「協力、というのは」
「詳細はおいおい。まずは信頼関係を築きましょう。ひとつだけ聞かせてください」「霧の樹海の、西区域の奥に何があるか、ご存知ですか」
零は一瞬だけ、間を置いた。
(赤目のオーガロード。魔族の瘴気。それを、こいつは聞いてくる)
知っていて聞いているのか。それとも本当に知らないのか。どちらかによって、この男の立場が変わる。
「知らない」
「そうですか」
「では今後、樹海に入ることがあれば——情報を提供していただけますか。王国として、あなたを支援する用意があります」
零は少し考えた。
「装備を一式、融通してもらえるか」
ヴァルネアの目が、わずかに細くなった。交渉に応じた、という反応だった。
「剣と軽鎧、それと発光石を十個」
「それで、樹海の状況を報告する」
「……なかなか、現実的ですね」
「分かりました。明朝、詰め所に届けさせましょう」
零は立ち上がった。
帰り際、ヴァルネアが「ひとつだけ」と呼び止めた。
「フェリア=ヴァルドールと行動を共にしているようですね」
零は振り返らなかった。
「それが何か」
「あの娘は、優秀ですが——少々、我が王国にとって都合の悪い家系の出でして」ヴァルネアは穏やかに言った。
「あまり深入りしない方が、あなたのためですよ」
零はそれに何も答えず、部屋を出た。
廊下を歩きながら、頭の中で情報を整理した。
ヴァルネアはフェリアを知っていた。そして「都合が悪い家系」と言った。フェリアは騎士見習いの落ちこぼれと自分で言っていたが、家系に何かあるのかもしれない。
聞く必要がある、と零は思った。
しかし同時に——聞いたことで、フェリアが不必要に危険に近づく可能性も考えた。
(どちらが正しいか、今は判断できない)
零は宰相府を出て、夜の王都を歩いた。
その夜、零は樹海には行かなかった。
珍しいことだった。
詰め所の窓際に座って、暗い樹海の方向を眺めながら、エルロン=ヴォイドのことを考えた。
昨夜、廃都クレインで「次は私が動く」と言った幹部。知性派の魔術師、零の能力の仕組みを唯一理解しているという。
接触してくるとしたら——どんな形で来るか。
正面からではないだろう。知性派が単純に殴りかかってくる理由がない。情報収集か、試験か、あるいは取引か。
零は目を閉じた。
樹海の気配を、遠くから感じるように意識を拡張した。風の方向、気温の変化、獣の声の密度——昨夜より、全体が微妙に静かだった。夜行性のモンスターが活発になる時間帯なのに、鳴き声が少ない。
何かが、モンスターを抑えている。
または、何かに怯えさせている。
(何かが、樹海の中で変わっている)
零が目を開けた瞬間、背後に人の気配を感じた。
詰め所の部屋の中に、いる。
振り返った。
部屋の隅の暗がりに、人が立っていた。
黒いローブ、痩せた長身、手が見えないほど深い袖。顔は半分フードに隠れていたが、見えている口元は——笑っていなかった。
「窓から外を見ていたね」と、その人物は言った。
声は低く静かで、感情が薄かった。
「樹海の異変に気づいていた。なかなか、感覚が鋭い」
零は立ち上がり、壁を背にした。
距離は四メートル。
武器はない、まだ装備が届いていない。素手で相手をするには、相手の力量を測る必要がある。「エルロン=ヴォイド」と零は言った。
人物が、わずかに反応した。
「……知っていたか」
「魔族の七幹部に、知性派の魔術師がいると聞いた。正体を隠さずに来た理由は何だ」
「隠す必要がないからだ」とエルロンは言った。「私はあなたを殺しに来たわけではない。話しに来た」
「話す理由がない」
「あるよ」
エルロンはフードを少し下げた顔が見えた。
四十代ほどの男性の顔、しかし瞳が人間のものではなかった。
瞳孔が縦に割れた、爬虫類に近い目だった。
「あなたのスキル、【Ω-Stack】について。私は、その全容を知っている」
零は動かなかった。
「聞く」
エルロンは部屋の中央に進んで、椅子もないのに空中に腰を下ろした。
魔力で浮いているらしかった。
「まず確認させてほしい」
「臨界が来るたびに、記憶が消えていることに気づいているか」
「気づいている」
「それがいつか、全ての記憶を消費することも」
「考えている」
「では——スタックの上限が、実は存在することは知っているか」
零は初めて、表情が動いた。
「上限があるのか」
「正確には、上限ではなく『臨界の限界回数』だ」エルロンは指を一本立てた。「【Ω-Stack】は臨界を繰り返すたびにステータスを引き上げるが、その代わりに記憶を消費する。記憶が完全に枯渇した時点で——スキル自体が、機能を停止する」
「それは」
「つまり」
「記憶がゼロになった瞬間、あなたは強さだけを持った空の器になる。スキルが停止すれば死に戻りもなくなる。その後に死んだら——普通に、死ぬ」
部屋に沈黙が落ちた。
零は窓の外の暗闇を見た。
思ったより、動揺はなかった。どこかで、似たような結末を予感していたのかもしれない。強くなるほど自分が薄れていく——その感触は、臨界のたびに確かに感じていた。
「なぜそれを教える」
「利害が一致するからだ」
「私は、神盤の破壊を望んでいる。あなたの【Ω-Stack】は、神盤の設計外のスキルだ。つまり神の制御が届かない唯一の存在が、あなただ」
「神盤を壊したい理由は」
「長い話になる…簡潔に言えば——神盤は、人間と魔族の双方を消耗させる装置だ。守護神と呼ばれる連中が、両種族を使い潰して自分たちの存続を図っている。魔族の私にとっても、それは受け入れられない」
零はしばらく考えた。
信じるかどうかの問題ではなかった。
エルロンが嘘をついている可能性は排除できない。
しかし彼の言葉には、一定の整合性があった。転移者システムが神の延命装置、という世界の根幹に関わる話。
それがもし本当なら——零がこの世界に呼ばれた意味も変わってくる。
「ひとつ聞く」
「俺の【Ω-Stack】が神盤の設計外だとして、それは誰が俺に仕込んだ」
エルロンは初めて、かすかに目を細めた。
「賢い質問だ」
「答えは——先代の守護神のひとり、が有力だ。現在の神盤体制に反発して追放された神が、人間の魂にそれを埋め込んだと、私は推測している」
「推測、か」
「確証はない。ただ状況証拠は多い」
「……。今夜は、それだけか」
「ひとつだけ、提案がある」
エルロンは立ち上がった、いや、浮き上がった。
「【Ω-Stack】の消耗を遅らせる方法がある。記憶を外部に保存することで、スキルの消費対象を分散できる可能性がある」
「外部に保存?」
「魔法的な手段だ。詳細は次回話す」エルロンはフードを戻した。「今夜は、あなたが話を聞く人間かどうかを確かめに来た。それは確認できた」
「帰るのか」
「ああ。あなたを信用したわけではない。私もまだ、あなたを測っている」
エルロンは部屋の隅に向かった。暗がりが、ひとりでに濃くなった。
「ひとつだけ」と零は言った。
エルロンが止まった。
「赤目のオーガロード。あれはリリスが操っているのか」
長い沈黙。
「……賢い」
それだけを言って、暗がりに溶けて消えた。
部屋に、零ひとりが残った。
零は椅子に座り直し、再び窓の外を見た。
樹海が暗く揺れていた。
記憶が枯渇する前に、何をするべきか。
強くなることの先に、何があるのか。
問いが増えるばかりで、答えはまだどこにもなかった。
しかし——ひとつだけ、はっきりしたことがあった。
零は手帳を引き出した。詰め所の机の引き出しに入っていた、粗末な紙の束だ。
そこに書き始めた。
日付と、その日起きたことを。覚えていることを。フェリアの名前、堂本慎二の名前、エルロンが言ったこと。
記憶が消えていくなら——残せるものを、外に出しておく。
それが今の零にできる、唯一の対抗手段だった。
最後に一行だけ書いた。
「俺が何のために戦っているか、まだ分からない。でも、忘れたくないものが、少しずつ増えている気がする」
ペンを置いた。
窓の外で、夜明け前の風が樹海を揺らしていた。
翌朝、フェリアが詰め所に来たとき、零は机の前でうとうとしていた。
手帳が開いたまま机の上にあった。フェリアはそれを見て、閉じようとして——最後の一行が目に入った。
「忘れたくないものが、少しずつ増えている」
彼女はそれを読んで、しばらく動かなかった。
「……ばか」と彼女は言った。
今日で四回目だった。
しかし声は、これまでで一番柔らかかった。
机の上に、買ってきたらしい果物をそっと置いて、フェリアは零が起きるのを待った。
同じ朝、廃都クレインで。
エルロンは部屋に戻り、長い椅子に横になった。
「どうだった?」
「予想より、ずっと落ち着いていた」
「記憶が消えると告げても、動揺しなかった。死を恐れない、というのは本当らしい」
「使えそう?」
「使えるかどうかより——」
「あれは、こちらの思う通りには動かない」
「じゃあ敵?」
「敵でも味方でもない」
「あれは、自分の理由を見つけたとき初めて動く類の人間だ。今はまだ、その理由を探している」
「面倒くさい」
「そうだな」
「だから、興味深い」
廊下でリリスが鼻を鳴らした。
「ガルム様が動き始めてる。七幹部筆頭が本腰を入れたら、王都なんてひとたまりもないのに——あなたがあの少年に構ってる間に、終わっちゃうかもよ」
「ガルムが王都を落としても、神盤は壊れない。神盤を壊せる存在は——今のところ、あの少年だけだ」
沈黙。
「つまり」
「あの子が死んだら、全部終わり?」
「そういうことだ」
廊下で、リリスが笑った。
楽しそうな、しかしどこか不穏な笑い声だった。
「じゃあ私、あの子のこと守ってあげようかな」
「余計なことはするな」
「いーじゃない。千の仮面を持つ私が化けたら、誰にも分からないよ?」
エルロンは答えなかった。
答えないことが、答えだった。




