第三話前編「スタック臨界、そして俺が初めて本気を出した夜」
翌日の午前中、零は死んだ。
正確には、訓練場の隅で素振りをしていた木剣が折れ、その破片が首筋をかすった——というだけの話なのだが、零にとってはそれも一種の「死」の手前だった。出血自体はたいしたことがなかったが、折れた木剣を眺めながら、彼はひとつのことを考えていた。
道具が、足りない。
身体の使い方は、死を重ねるたびに洗練されていく。昨夜のオーガロードとのやりとりでも、自分でも驚くほど身体が動いた。しかしそれは「素の状態での最適化」であって、剣の技術でも魔法でもない。ゴブリンやウルフを相手にするうちは通じても、Bランク以上の相手には圧倒的に火力が足りなかった。
雑務班の詰め所に戻ると、同じく転移者で雑務に回されたクラスメートの堂本が、ぼんやりと窓の外を眺めていた。零と同じスキルなしではなく、スキルは「鑑定」ひとつだけだったために戦力外とされた、地味で眼鏡の似合う男だ。
「朝霧、また怪我してる」
「少し切れただけだ」
「絆創膏いる?」
「いらない。もう止まってる」
堂本は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。代わりに「昨日、勇者パーティーが第一次討伐演習から帰ってきた」と教えてくれた。
「天堂が格下のゴブリン二十体を一人で片付けたって、王国の騎士団が大騒ぎしてたよ」
零は「そうか」とだけ言った。
天堂冬馬。転移してきた日、真っ先に「勇者」スキルを引き当て、クラスの中心に立った男。零がスキルゼロだと分かったとき、彼は「かわいそうに」と言った。本気で憐れんでいた。悪意ではなかった分、かえって奇妙な感触が残った。
「天堂は今、どこにいる」と零は聞いた。
「訓練場の特別区画。一般人は入れないよ」
そうか、と零は思った。
あちらはあちらで、強くなっていく。当然だ。
問題は、自分の速度だ。
その午後、零はギルドに行って堂本の「鑑定」スキルを借りた。
正確には「お願い」ではなく「頼む」という形で、堂本は少し驚きながらも断らなかった。人のいない路地の隅で、堂本が零に鑑定スキルを向けた。
「……なんか、変だな」と堂本が眉を寄せた。
「何が見える」
「えっと、通常は名前とレベルとスキルが出るんだけど……朝霧のは、スキル欄がひとつだけある。でも名前が文字化けしてて読めない。あと、横に数字が出てるんだけど」
「数字?」
「うん。なんか……8、って書いてある。単位が分からないけど」
零は少し考えた。
八回、死んだ。
現実世界で七回、昨夜樹海で一回。
それが「スタック数」として記録されているとしたら——今の自分の蓄積は、まだ入口に過ぎない。
「もうひとつ聞いていいか。ステータスの数値はどうなってる」
「ステータスが……あ、これも変。全部の項目に数字が入ってるんだけど、単位がバラバラで。力が『12』、速さが『31』、魔力が『3』……普通の冒険者のフォーマットと全然違う。比較できない」
「分かった。ありがとう」
「な、なに調べたかったの」
「自分の現在地だ」
堂本は首を傾げたが、零はそれ以上説明しなかった。
数字を頭の中で整理する。速さが突出して高い。昨夜オーガロードの拳から逃げられたのも、それが理由だろう。力はまだ低い。魔力はほぼゼロに近い。バランスが歪だが、裏を返せば——死に方を工夫すれば、特定のステータスを集中して伸ばせる可能性がある。
より速い敵に殺されれば、速さが上がる。
より強い攻撃を受けて死ねば、耐久が上がる。
(非効率だが、今の俺には他の手段がない)
零は立ち上がった。
今夜の方針が決まった。
日没前、フェリアが詰め所に来た。
「今夜も行くの?」と彼女は開口一番に言った。
「行く」
「昨日あのオーガロードを見ておいて?」
「そいつのいない区域で動く。東区域は確認していない」
フェリアはしばらく零の顔を見てから、「……分かった」と言った。
「私も行く」
「危ない場所になるかもしれない」
「昨日より危険なの?」
「分からない」
「正直か!! でも行く。あんたを一人にする方が危ない気がする」
零は短く頷いた。
フェリアが革鎧を着込む間、零は壁に背を預けて目を閉じていた。昨夜の戦闘を頭の中で反復する。オーガロードの動き、拳の軌道、重心の移動。死ぬ直前の一コマ一コマが、焼き付くように記憶されていた。次に同じ相手と戦うとき、身体はそれを知っている。
(次は、もう少し持ちこたえられる)
「ねえ」とフェリアが言った。
「昨日から気になってたんだけど、あんた目、閉じてる間何してるの」
「復習」
「復習? 何の」
「昨日死んだときのこと」
フェリアは数秒固まってから「やっぱりあんた変人だわ」と言った。
それは昨日と同じ言葉だったが、今日は少しだけ親しみが混じっていた。
東区域は、西区域より木が低かった。
月明かりが多少届き、視界が確保できる分だけ動きやすい。しかしその代わり、モンスターの密度が高かった。樹海の入口付近でゴブリン五体の群れ、少し進むとホブゴブリンが二体、岩陰でねぐらを作っていた。
「あれ、ホブゴブリン」とフェリアが囁いた。
「ゴブリンより賢くて、罠も仕掛ける。迂回しよ」
「戦う」と零は言った。
「は?」
「俺が前に出る。フェリアは背後を頼む」
「聞いてた? 賢いって言ったんだけど?」
「だから戦う」
フェリアはぐっと言葉を飲み込んで剣を抜いた。「……死んでも知らないよ?」という声が聞こえたが、零はすでに動き出していた。
ホブゴブリンの片方が気配を察して振り向いた瞬間、零は地面を蹴った。
速さに任せた突進、ではなかった。昨夜蓄積した「最適な動き」が身体を動かしていた。ホブゴブリンの視線が零を捉えるよりわずかに早く、その側頭部に踵を叩き込んだ。鈍い音、よろめく。もう一体が叫び声を上げて石刀を振るったが、零はすでにそこにいなかった。半歩外に踏み込み、振り下ろしの軌道を潜って肘を喉元に当てた。
二体、三秒。
フェリアが後方のゴブリンを一体片付けていた。「……速い。」と彼女が呟くのが聞こえた。
零は荒れた呼吸を整えながら、自分の拳を見た。
関節が少し腫れていた。当てた感触から言って、ホブゴブリンの骨の方が人間の拳より硬い。素手では限界がある。
「剣、使えないの?」とフェリアが聞いた。
「使い方を知らない」
「教えようか?」
零は少し考えた。
「今夜は間に合わない」
「じゃあ明日から教える。私の剣技、Cランクだけど基礎はしっかりしてるし」
零は短く頷いた。それは素直に、助かると思った。
二時間ほど東区域を探索し、コカトリスの巣を発見した。石化の視線を持つ鳥型のモンスターで、Cランク相当だ。フェリアが「絶対近づかないで」と言ったので、今夜は位置だけ確認して引いた。
「あと、あっちの方向にアラクネがいる」
とフェリアが地図を取り出しながら言った。
「昨日の偵察から戻った冒険者の話だと、東区域の奥に巣がある。毒糸が厄介で、引っかかると身動きが取れなくなる」
「毒への耐性は、死んで身につけられるか」
「声に出して言う話じゃないよそれ!!」
零は口を閉じた。
引き返す途中、フェリアが「ねえ」と言った。
「さっきのホブゴブリン戦、あんたの動き——昨日と全然違った。一日で変わるもん?」
「死んだから」
「またそれ言う…」
「正直に言ってる」
「……信じたいけど、意味が分からない。」
「そのうち分かる」
「そのうちって、いつ?」
「俺が、言葉を見つけたとき」
フェリアはそれを聞いて、なぜか少し笑った。
「バカ正直なのか、ただ不器用なのか、よく分からないな」
「両方だと思う。」
「それも正直に言う必要あった?」
樹海から出て、王都の外壁が見えてきたところで、零の足が止まった。
気配だ。
前方、外壁のすぐ内側——王都の中から、何かが漂ってきていた。魔力の臭いとでも言うべきものが、微かに鼻を刺した。昨夜の樹海の深部で感じたものと、質が似ていた。
瘴気だ。
「フェリア、止まれ」
低い声で言った瞬間、フェリアも感じ取ったようで剣に手をかけた。
「……王都の中?」と彼女が囁く。
「ああ」
「昼間は何もなかった。」
「今夜、何かが入り込んだ」
二人は慎重に外壁に近づいた。
壁を登って内側を見下ろすと、王都の下層区画の路地に黒い影が走るのが見えた。人型だが、動きが人間ではなかった。音もなく、影そのものが移動するように路地を縫っていた。
シャドウパンサーだ。
零は昨日ギルドで見た討伐依頼の一覧を思い出した。Bランクのモンスター、影に潜む黒豹型、暗闇では実体を持たない——王都の夜の路地は、そいつにとって理想の狩り場だ。
「なんでこんなところにっ。」とフェリアが息を飲んだ。
「誰かが引き込んだか、壁の隙間をすり抜けたか」
「どっちにしても、一般市民が危ない。衛兵に知らせないと!」
「時間がかかる。今、動いているのはあいつだけか?」
零は目を凝らした。シャドウパンサーが路地の奥に消えていく先に、明かりがついた窓があった。民家だ。中に人がいる。
「……行く」と零は言った。
「ちょっと、待って! Bランクだよ!」
「分かってる」
「昨日Bランク相手のパーティーが怪我して帰ってきたんだよ!」
「フェリアは衛兵を呼んでくれ」
「あんた一人で何ができる——」
零はすでに外壁を飛び降りていた。
着地音を殺して路地に入る。月明かりが届かない細い路地は、ほぼ完全な暗闇だった。シャドウパンサーにとって最良の環境。しかし零には、死を重ねる中で磨かれた暗視に近い感覚があった。光がなくても、気温の差と微妙な空気の流れで、存在の輪郭を捉えられた。
民家の入り口、木製のドアの前に、それはいた。
影の中に溶け込んで、ほとんど見えない。しかし零にはその「密度の高い暗がり」が分かった。シャドウパンサーが中の気配を伺いながら、侵入口を探している。
零は石を拾い、路地の奥に向かって投げた。
音がした方向に、シャドウパンサーの気配が向いた。
その一瞬を使って、零は走った。
暗闇の中で実体を持たないシャドウパンサーに、通常の攻撃は通じない——それがモンスター図鑑の記述だ。しかし「通じない」と「全く効かない」は違う。光を当てれば実体化する。それが図鑑に書いてあった対処法だ。
零の手には、ギルドで格安で買っておいた発光石が一個あった。
シャドウパンサーが振り返る瞬間、零は発光石を握り潰した。
白光が路地を満たした。
シャドウパンサーが低い唸りを上げて実体化した。黒い豹の巨体、肩まで零の胸ほどの高さ、筋肉の塊が光の中で輝いていた。
零は迷わず踏み込んだ。
拳、ではない。今夜からフェリアに借りた剣の基本すら、まだ習っていない。使えるのは身体だけだ。
シャドウパンサーの爪が空を切った。零はその軌道の内側に潜り込み、脇腹に体当たりをかけた。巨体が壁に叩きつけられる。しかし反撃は即座だった。尾が横薙ぎに飛んできて、零の右腕を打った。骨が折れる感触、視界が一瞬ぶれた。
痛い、と思った。
それは久しぶりの感覚だった。死を繰り返す中で痛みへの感度が下がっていたが、これは明確に痛かった。シャドウパンサーの攻撃力が、今の零の耐久値を上回っている。
発光石の光が弱まってきた。
残り時間はない。
零は折れた右腕をぶら下げたまま、左手でシャドウパンサーの前脚をつかんだ。信じられないものを見るような目で、黄色い双眸が零を見た。人間がこの状況でつかんでくるとは、思っていなかったのだろう。
その一瞬の硬直で、零は全体重を乗せて前脚を捻り上げた。
関節が逆方向に曲がる。シャドウパンサーが鋭い悲鳴を上げた。
発光石の光が消えた。
暗闇。
シャドウパンサーの気配が跳び退く。逃げた。
壁に背を預けて、零は折れた右腕を見た。感覚が鈍くなっていて、動かそうとすると火が走る。これは今夜中には治らない。死なずに怪我した場合、スタックは機能しない。不便だ、と零は思った。
「零!!」
路地の入口からフェリアが飛び込んできた。明かりを手に持って、息を切らして。零の姿を見た瞬間、目が大きく見開かれた。
「腕! 腕折れてる!!」
「分かってる」
「分かってるじゃない!! なんで一人で——」
「逃げた。市民は無事だ」
フェリアは言葉を飲み込んだ。明かりを掲げて、折れた腕を、零の顔を、交互に見た。
「……痛くないの?」
「痛い」
「え?」
「今夜は、痛い」
フェリアはなぜか、その答えで泣きそうな顔になった。
「ばか!」と彼女は小さく言った。
「ほんと、ばか…。」
それから彼女は零の左腕を引いて「ギルドに医療班がいる、今すぐ行くよ」と言い、零は「大げさだ」と言い、「折れた骨が大げさじゃなかったら何が大げさなんだ!!」と返ってきた。
路地を歩きながら、零は右腕の痛みとは別に、何かを考えていた。
スタックが、何かを求めていた。
今夜の戦いで、身体の中の「蓄積」がある閾値に近づいた気がした。何かが満ちてきている感触、堰き止められたものが溢れる直前の圧力のような。
それがいつ、どんな形で「解放」されるのか——零にはまだ分からなかった。
分からないが。
その時は―――近い。




