第二話「赤目の王と、俺が死ぬ理由」
夜明けの風は、思ったより冷たかった。
外壁の上に並んで座る形になったのは、零の意図ではなかった。フェリアが「まだ話は終わってない」と言って隣に腰を下ろしたのだ。騎士見習いというわりには遠慮がない。零はそれを邪険にする気も起きず、ただ霧の樹海が朝靄に沈んでいくのを眺めていた。
「昨日、何体倒したの」
フェリアが膝を抱えながら聞いてきた。
「数えてない」
「嘘くさい」
「本当のことだ」
実際、覚えていなかった。
正確には——途中から、意識がひどく曖昧になった。ゴブリンに何度か殺され、そのたびに気づけば少し前に戻っていた。夜が明ける頃には、霧の中でフォレストウルフの群れとも鉢合わせていた気がする。牙が首に刺さった感触は、今もぼんやり残っている。
しかし今、零の首に傷はない。
死ぬたびに、少し前に戻る。傷も、消える。
「……ねえ、ひとつだけ聞いていい」
フェリアの声が、少し低くなった。
「死が怖くないって、本当に言ってた。あれ、本気?」
零は空を見た。朝の光が水平線の向こうで燃え始めていて、薄い雲が赤く染まりつつあった。
「怖いと思う前に、終わってる」
「……それって、すごく悲しいことじゃないの」
「そうかもしれない」
フェリアはしばらく何も言わなかった。怒るかと思ったが、そうではなかった。膝の上で手を組んで、何かを考えるような顔をしていた。
「私さ、騎士見習いで落ちこぼれって言われてる」
と彼女は唐突に切り出した。
「スキルは一応あるけど、ランクはC止まり。パーティーには入れてもらえなくて、雑用係ばっかり。あんたと大差ない扱いだよ」
零は黙って聞いていた。
「だから、ちょっとだけ分かる気がした。見てもらえない感じ。いないものみたいな扱いされる感じ」
「俺は別に、見てほしくはない」
「そういうとこがまた変なんだよ!」
フェリアは声を荒げたが、すぐに自分で苦笑した。怒りというより、呆れに近い表情だった。「……一個だけ提案してもいい」と彼女は続けた。
「次に樹海に潜るとき、私も連れて行って。あんたは無謀すぎる。私はパーティーに入れない。お互い、利害は一致してるでしょ」
零はしばらく考えた。
断る理由は特になかった。
「いい」
「じゃあ今夜」とフェリアは即断した。「待ち合わせは西門。日没の一時間後」
そう言って彼女は立ち上がり、訓練着の埃を払ってから零を見下ろした。朝の光の中で、赤い髪が燃えるように見えた。
「名前、もう一回聞いていい」
「朝霧 零」
「フェリア。フェリア=ヴァルドール」
彼女は短くそれだけ言って、外壁を降りていった。
零はもうしばらく座ったまま、霧の樹海を眺めていた。
あの森の深部に、何かがいる気がした。昨夜、何度目かに死んだとき、意識の暗闇の中でかすかに聞こえた音があった。重く、リズミカルで、地面が揺れるような——足音、だったと思う。ゴブリンでも、ウルフでもない、もっと大きな何かの。
(確かめなければ、ならない)
なぜそう思うのか、理屈は分からなかった。ただ、引き寄せられるような感覚があった。
その日の午後、零は王都の冒険者ギルドに足を向けた。
雑務班に割り当てられた身ではあったが、特に禁止されているわけではなかった。ギルドの建物は王都の中心部にあり、一階は依頼の掲示板と酒場が混在していた。昼間から酒を飲む冒険者たちの喧騒の中、零は掲示板の前に立って、ざっと情報を流し読みした。
討伐依頼。採取依頼。探索依頼。
その中に、一枚だけ赤いタグのついた紙があった。
『緊急討伐:霧の樹海西区域における異常行動モンスター群の報告。確認されているのはオーガロード一体、フォレストウルフ複数、ホブゴブリン二十体以上。Bランク以上のパーティー推奨。一般冒険者は接近禁止』
依頼の日付は三日前だった。しかしまだ未達成のタグが外れていない。
Bランク推奨——つまり誰も、まだ手をつけていない。
「おい、転移者」
背後から声がかかった。
振り向くと、体格のいい中年の冒険者が立っていた。顔には古傷、目つきは鋭いが、敵意というより警戒の色だった。
「その依頼、見てたか。触るなよ。昨日もBランクパーティーが偵察に行って、二人怪我して帰ってきた。ただのオーガロードじゃない」
「どう違う」と零は聞いた。
男は少し驚いた顔をしてから、「……目が赤い」と言った。「普通のオーガロードの目は黄色だ。赤目のは違う。魔族の気配がする。呪われてるか、憑かれてるか——どっちにしろ、並の奴が手を出すもんじゃない」
零はもう一度、依頼書を見た。
魔族の気配。
昨夜、意識の暗闇で聞いた重い足音が、また耳の奥で鳴った気がした。
「分かった」と零は言って、その場を離れた。
男が後ろで何か言っていたが、聞こえないふりをした。
日没の一時間後。
西門の影に、フェリアはちゃんといた。騎士見習いの訓練着ではなく、軽い革鎧に着替えていた。腰に剣、背中に小さなリュック。そばかすだらけの頬が、緊張と興奮で少し赤くなっていた。
「来た」と彼女は言った。「遅い」
「一分も遅れていない」
「気持ちの話!」
零は特に返さず、樹海の方向に歩き出した。フェリアが小走りで追いついてくる。
「今夜の目的は」と零は歩きながら言った。
「西区域の確認だ。依頼書で見た、赤目のオーガロード」
フェリアの足が一瞬止まった。「……Bランク推奨の?」
「そう」
「私たちFとゼロだよ?」
「倒しに行くわけじゃない。確認だ」
「そういう人が一番やばいやつじゃん!」
それでも彼女はついてきた。口は悪いが、足は止めなかった。零はそのことを、悪くないと思った。
樹海に入ると、昨夜と同じ湿気と腐葉土の臭いが迎えた。フェリアは剣に手をかけながら、周囲の気配を読んでいた。騎士見習いとしての訓練は、確かに身についているようだった。歩き方、目配り、呼吸の整え方——零とは別の種類の、ちゃんとした技術があった。
「ゴブリンの気配が三時方向」とフェリアが小声で言った。
「気づいてる。無視でいい、逃げる」
「なんで分かるの」
「足音が遠ざかってる」
フェリアが零を横目で見た。
「……スキルなしで、それが分かるの?」
零は答えなかった。
分かる、という言葉が正確かどうか、自分でも把握していなかった。ただ身体が知っていた。七回の死が積み上げた、説明のつかない「感覚」が、常に周囲の情報を処理していた。音、臭い、気温の微細な変化。それらが統合されて、ほとんど無意識に状況を判断していた。
三十分ほど進んだところで、空気が変わった。
重くなった、という表現が正しかった。気温が二度ほど下がり、地面の草が黒ずんで枯れていた。発光する菌類も、この区画だけ消えていた。
「……なにこれ」とフェリアが呟いた。
「魔族の瘴気だ。場所が汚染されてる」
零はゆっくり前進した。
木々の密度が増し、視界が狭まる中、かすかに何かが光っているのが見えた。赤い光。地面に近い高さで、ゆっくりとこちらを向いていた。
大きい。
ひとつの光だと思ったそれが、二つだと零は認識した瞬間、全身の感覚が研ぎ澄まされた。
目だ。
木々の影から、オーガロードが現れた。
通常種とは明らかに違った。体高は三メートルを超え、全身の筋肉は岩を削り出したように隆起していた。皮膚は黒みがかった褐色で、所々にひび割れた傷跡が走り、そこから黒い何かが滲んでいた。まるで内側から腐食しているように。そして両目は、暗闇の中でぎらぎらと赤く燃えていた。
ただのモンスターではない。
その目には、意志があった。知性とも怒りとも違う、もっと根源的な何か——憎悪、だと零は思った。何に向けられた憎悪なのかは分からない。ただそれは、確実に零たちに向いていた。
「……ゼロ」とフェリアの声が震えた。
「逃げよう。今すぐ」
合理的な判断だ。零もそう思った。
これは偵察だ。情報を持ち帰ることが目的で、戦闘は想定していない。
しかしオーガロードは、逃がす気がなかった。
地面を揺らす踏み込みで、それは一気に距離を詰めた。三メートルの巨体がそれをやるとは思えない速度で、空気を圧縮しながら右腕を振り上げた。岩を砕くような拳が、零めがけて落ちてくる。
零は動いた。
跳ぶ、というより滑るように横へ。拳が地面に叩きつけられ、衝撃波が土を吹き飛ばした。クレーターが生まれた。まともに食らえば、スキルなしの人間など跡形もない。
「ゼロ!」
フェリアが剣を抜いて飛び込んできた。オーガロードの脇腹に斬撃を入れる。刃が皮膚を滑った——Cランクの剣が、ほとんど通っていない。だがオーガロードの注意が一瞬そちらに向いた。
その隙に、零は考えた。
蓄積されているものを、使う。
昨夜、ゴブリンたちと戦いながら、ウルフに殺されながら、何度も死ぬ中で積み上げた「何か」。それは技術というより経験の塊で、まだ零自身も完全には把握できていなかった。ただ、身体はそれを知っていた。
(動け)
地面を蹴った。
オーガロードが振り返る前に、零はその背中に回り込んでいた。どうやったか、自分でも分からない。身体が、昨夜死に続けながら刻んだ「最適な動き」を勝手に再現していた。
膝の裏——関節の裏側、腱が集中する部位に、全体重を乗せた踵を叩き込んだ。
鈍い音がして、オーガロードの片膝が折れた。
巨体がよろめく。
しかしそれだけだった。立て直す速度が、零の予測より早かった。振り返りざまの肘打ちが零の脇腹をかすり、それだけで身体が三メートル吹き飛んだ。木の幹に背中から激突して、肺から空気が全部抜けた。
視界がぶれる。
立ち上がろうとした瞬間、オーガロードの足が頭上に迫ってきた。
(——ああ、また死ぬか)
不思議と、焦りはなかった。
ただ直前、フェリアの声が聞こえた。
「零!」と叫ぶ声が。それだけが、やけにはっきり聞こえた。
衝撃。
暗転。
そして——
目が覚めると、零は木の幹に背中をつけたまま、膝をついていた。頭上にオーガロードはいない。あたりは静かだった。
少し前に、戻っていた。
肺の痛みも消えている。ただ、脇腹のかすり傷は残っていた。完全には巻き戻らないのか、それとも「かすった」程度では死と認識されなかったのか。
「ゼロ……?」
フェリアが、驚いた顔で零を見ていた。
「今、あんた——足が見えなくなるくらい速く動いた。それで私の前に回ってた。なんで……スキルなしで、なんでそんな動きができるの」
零はゆっくり立ち上がった。
オーガロードは、まだそこにいた。零が「戻った」ことを認識していないように、同じ位置で低く唸っている。さっきより距離がある。おそらく巻き戻りの範囲で、零とフェリアの位置も少し前の状態に戻っているのだろう。
「今夜のところは退こう」と零は言った。
「……うん」とフェリアは頷いた。それ以上は聞かなかった。
二人は音を殺して後退した。オーガロードが追ってこなかったのは、縄張りの境界があったからか、それとも別の理由か。樹海の入口まで戻ったとき、フェリアは大きく息を吐いた。
「死ぬかと思った」
「俺は死んだ」
「……は?」
「気にするな」
「気にするわ!!」
零は少し考えてから、「そのうち話す」と言った。今すぐ説明できる言語を、自分がまだ持っていなかった。フェリアは納得していない顔だったが、それ以上は追わなかった。
帰り道、二人は並んで歩いた。
「あのオーガロード」とフェリアが言った。「絶対に、ただのモンスターじゃない。目の色、あれは——」
「魔族が操ってる」と零は言った。「あるいは、憑いてる」
「どっちにしても、私たちじゃ手に負えない」
「今は、そうだ」
「今は?」
零は答えなかった。
フェリアはしばらく零の横顔を見ていた。
「……ねえ、ひとつだけ聞いていい」
「さっきも同じ入り方をした」
「うるさい。あんたさ、強くなろうとしてる? それとも、ただ死にに行ってる?」
零は少しだけ立ち止まった。
正直なところ、自分でも分からなかった。強くなりたいという欲求が、どこから来ているのか。死ぬことへの抵抗がない分、生きることへの執着も薄い。
ただ——何かに引き寄せられる感覚だけは、確かにあった。
「どちらでもない、かもしれない」と零は言った。「まだ分からない」
フェリアはその答えをしばらく噛み砕くように沈黙してから、「……バカ正直なやつ」と呟いた。
悪口のようで、どこか安心したような声だった。
王都に戻る直前、零は一度だけ振り返った。
霧の樹海が、夜の中に黒く沈んでいた。
その深部のどこかで、赤い目が光っている。そしてあの目の奥に宿っていた憎悪は——確かに「意図」を持っていた。ただモンスターが人間を襲う本能ではなく、もっと明確な、誰かに向けられた感情。
(誰が、操っている)
零の頭の中で、ひとつの疑問が形を持ち始めた。
魔族七幹部。代弁者の老人が、転移の際に軽く言及していた存在。王国はその脅威を語りながら、具体的な情報は転移者たちに開示していなかった。なぜか。
知らせたくないのか。
それとも——知られると、困る何かがあるのか。
零は霧の樹海から視線を引き剥がし、歩き出した。
疑問は今夜のところは保留だ。まずは積み上げる。死んで、戻って、また死んで。その先にいつか、今夜の答えがある。
背後でフェリアが「早いって」と文句を言いながらついてきた。
零は少しだけ、歩調を緩めた。
その理由を、まだ自分では説明できなかった。
同じ夜、王都から遠く離れた廃都クレインの深部。
石造りの玉座に、人影があった。
仮面をつけた女——七幹部のひとり、リリスだった。彼女の目の前に、魔力の光球が浮いていた。その中に映る映像がある。霧の樹海、赤目のオーガロード、そして——黒髪の少年。
「面白い」とリリスは囁いた。
「スキルなし、ステータスゼロ。なのに、オーガロードの拳から生きて逃げた」
光球がゆっくり揺れた。
「しかも一度——死んで、いたね? あの子」
誰かへの問いかけではなかった。独り言だ。彼女は仮面の下で笑っていた。
「神が見捨てた魂か。それにしては、随分と——神の計画に近い場所にいる」
リリスは光球をひとさし指で弾いた。映像が霧散する。
「エルロン、あなたの調べていた例の『器』——見つかったかもしれない」
返事はなかった。ただ、部屋の隅の暗がりが、少しだけ濃くなった気がした。




