第9話 彼女の名前
リーフェルトが十歳の頃だったか。
あれは覚えたてのチェスで四番目の兄弟である兄と遊んでいた時の、他愛ない会話だった。
「そういえばこの前、夢魔の奴らがうちに来てたって」
「夢魔?」
「インキュバス。仕事かなんかで父上に会いに来てたらしい」
「ふうん」
「お前、間違っても夢魔と関わろうとするんじゃないぞ。話しかけられてもかわしとけ」
「はあ」
「あいつらはロクなもんじゃない。心も身体もぶっ壊されて人生終わるからな。
自分と同じ男に見えても油断するなよ。お前も知ってる通り、インキュバスとサキュバスは同一だ。あいつらには性別がねえ、男にも女にも化けられる。
……稀に生殖機能を備えた固定の性別を持つ夢魔もいるらしいけどな。所詮夢魔は夢魔だ。
たまに『遊びで付き合う分にはいい』みたいなことを言う奴もいるらしいけど、関わった時点で身の破滅だぞ」
そして現在。蘇る辰弥の科白。
「サキュバスと友達だなんて言う君を、どういう目で見ると思う?」
だから、何と人間の混血なのか聞いてもなかなか教えてくれなかったのか。
しかし確かに、辰弥と出会うまでインキュバスやサキュバスに対し侮蔑の感情を抱いていなかったといえば嘘になる。
辰弥が自分の命を助けてくれたから、彼女がサキュバスと聞いても受け入れられた。
もし、あの出来事がなかったら―――自分は今頃、彼女の存在を受け入れられただろうか。
「陽人君」
「?」
「長い間一緒にいて、辰弥君がサキュバスだということで何か、意識したことある?」
登校する道のり。
周囲を確認して近くに誰もいないことを確認したうえで、こっそり陽人に聞いてみる。
「……意識? ……まあ、普通の人間じゃねえよなってとこくらいは」
「たとえば」
「たとえば?? うーん。夜も明かりいらずなとことか、楽そうだよな。
あと飛べたり、わざわざメールしなくても直接意識に語りかけたりとか。
うっかりしてたら自分が使う聖水でダメージ受けるとか、不便なとこもあるらしいけど」
「…….。その、サキュバスっていう種族に対して、とかは」
「? 種族??」
「実は、辰弥君に自分と関わらないほうがいいって言われたんだ。
僕の立場とか、気にしてくれてるらしいんだけど。
……正直言うとね。辰弥君に会うまでは、軽蔑してたんだ。夢魔とかそういう種族自体。
でもなんか、彼女と出会ってそういう考えが揺らいでしまって。
……ごめん、親友の悪口みたいなこと。でも、陽人君はどうだろうって少し気になって」
怒られることを覚悟で、素直にリーフェルトは胸の内を打ち明ける。
しかし陽人は不快になる気配もなく「あー」と納得したような声を出し、
「言いたいことはまあ、わかるよ。
お前みたいなやつがいることは辰弥自身が一番わかってることだろうし、あいつが気にしないことだから別に俺も気にしねえけど。
今までお前が想像してたような夢魔に俺は会ったことないから、何とも言えないっつうか」
「……そう」
「修業の一環として何度かあいつと戦ったことあるんだけど、辰弥曰く俺は、誘惑とかそういうのが効かないタチらしい。
そういうのもあるから言えることかもしれないけど、俺個人、『そんなにインキュバスやサキュバスって悪いか?』ってのが正直な意見かなあ。
だってあいつら、別に人間を取って食ったりとかしねえし」
「―――っ、な、成る程……」
そういう意味では、夢魔は人間にとってそこまで有害ではないのかもしれない。
(寧ろ人間たちにとったら、僕たちヴァンパイアの方がずっと……)
「……陽人君。ありがとう、勉強になったよ」
「ん、そうか」
他の視点から物を見ると、こうまで自分たちの見方も違ってくるものなのかと驚くあまり、
リーフェルトは一人自分の口許を覆った。
そしてその日も、その次の日も、いつものように辰弥と朝の挨拶をして、
いつものように一緒に昼食を食べた。
その次の日の辰弥も、普段通り。
そしてまた、リーフェルトを名前で呼びはしなかった。
チャイムが放課後を告げても、もやもやとした心苦しさを抱えてリーフェルトは暫く座ったままでいたが。
一緒に帰ろうと寄ってきた陽人に声をかけられた瞬間、頭の中で何かが弾け、勢いよく立ち上がった。
「陽人君。……今日は木塚さんと帰って」
「……へっ?」
リーフェルトは目を丸くする陽人を置き去りに、
辰弥の席へとずんずん大股で歩いていく。
「―――辰弥君!」
「……?」
机の中の教材を通学鞄に詰め終えたところで、
辰弥は頭上から降ってきた強い声にふと顔を上げる。
リーフェルトは辰弥の腕を取り席から立ち上がらせると、
人目も気にとめず彼女に叫んだ。
「一緒に帰ろう!」
「……はあ?? ……っ、え、おい」
辰弥の制止など聞かず彼女の腕を引っ張って、彼は教室を後にする。
廊下を歩きながら「どうしたんだ」と困惑している辰弥の顔を見ないままリーフェルトは、
「いいから、一緒に帰ろう。友達だから」
とはっきり言った。
「……君。自分が何を言ってるのかわかってるのか?」
「わかってる……!」
「……っ、ちょっと、待て。痛い……腕が―――」
「! あっ……」
痛みに耐えるような非難に、慌てて足を止めて腕を放してやる。
瞳が青から赤に変わって以来、握力が以前より上がっていることをそこでようやく思い出したのだ。
「ご、ごめん……」
彼が握りしめていた個所を擦る辰弥に、リーフェルトはあたふた謝る。
嗚呼。どうして自分はいつもこうなのだろう。
「仕方ないな。君は本当に……」
まるで聞き分けのない幼い子供を相手にしている親のような口振りで、
辰弥は困ったように呟いた。
「あの―――本当に、いいの……?」
「いいさ。寄り道せずまっすぐ帰れば問題はないわけだし」
「そういうことじゃなくて。……僕なんかを家に上げて、茜さん怒らない?」
「君が母さんと話をして帰った後、母さんは君を褒めていたから大丈夫だろう。
……それに話がしたいなら、あまり人目につかない場所のほうがいい」
「……そう、だけど」
辰弥は自分の家の扉を開けて「ただいま」と言う。
すると居間やキッチンがある方から、「お帰りなさい」という声が一拍遅れて返ってきた。
「先に僕の部屋に行って待っててくれ」
「ううん。茜さんに挨拶したいから」
「ん……そうか」
「手洗いとうがいは?」
「え?? ……! ああ……そうだったな。忘れていた」
二人でまず洗面所に行き、きちんと手洗いとうがいを済ませた後、
茜の待つ居間の方へ向かう。
辰弥が母を呼び襖を開けた、その先。
しかしそこには茜の姿はなく―――代わりに別の何かが、畳の上に寝そべりくつろいでいた。
「ただいま。友達連れてきてるから」
「? お友達―――?」
(……!! 喋った―――!?)
そこには、狐。
喋る狐。
しかも明らかに野生の狐じゃない。
今まで見たことない高級感溢れる艶やかな毛並を持つ、美しい狐が畳でのびのびと日向ぼっこをしている。
「! あらあら、ガーシェル君。いらっしゃい」
「……んっ? えと―――」
なぜか自分の名前を知っているその狐。
しかし、どこかで聞いたことのある声だと思ってまじまじリーフェルトは狐を眺める。
そんな不躾な自分の目線にもかかわらず、狐は「ごめんなさいね」と言って、
「こんな姿ですが。私、茜です」
「!? あ、茜さん……!!?」
「母さんは僕の養母だ。サキュバスじゃない」
「えっ……」
「ちょっとここで待っていろ」
衝撃的なことをさらりと口にして台所のある部屋へ行く辰弥。
リーフェルトが戸惑いつつも茜に頭を下げる一方、
彼女は大皿にポテトチップスの中身をぶちまけて、二つのグラスにジュースを注ぐ。
「よし。行くぞ」
「あ、う、うん……?」
気になることは色々あるけれど。
お盆をしっかり両手で持ち、自分の部屋へ案内しようとする辰弥にとりあえずついていこうと一歩踏み出す。
すると居間の方から茜が、
「“節度ある”、高校生らしい遊びをするのよ」
「……!! ~~~っ母さん!!」
いつもクールな辰弥が母の科白に即立ち止まり、耳まで顔を真っ赤に染め上げた。
「あり得ない……客の前で、馬鹿じゃないのか……!?」
ついにはぶつぶつと、口の中で悪態をつきだしてしまう。
学校では決して見せない、そんな彼女の様子がとても新鮮で、
リーフェルトは辰弥がこちらを向いていないのをいいことに噴き出した。
「すまない。母が不快なことを言って」
二階にある辰弥の部屋に入るなり、
彼女は勉強机とは違う小さめのテーブルにお盆を置き、リーフェルトに謝る。
「ううん。良いお母さんだね」
「……まあ。それは否定しないが」
厳しいが、本当に辰弥を大切に思っているのがわかる。
彼女の父親にはまだ会ったことはないが、きっと彼もそうなのだろう。
辰弥に促されるまま座布団の上に腰を落ち着けて、
彼女と向かい合う形になる。
「……無理に聞くつもりはないんだけど。血は繋がっていないって……?」
「ああ。両親は物心つく前に亡くなっている。
それで身寄りのない私は、実父と同じ退魔師だった今の父の家に引き取られたというわけだ。
母は由緒ある狐の一族で、父のもとに嫁入りする際実母に世話になったとかで、良き親友だったそうだ。
そういう縁故というのもあるんだろう」
「人間と狐のご夫婦、ってこと?」
「そう」
あの静かで凛とした佇まい、清らかな色香。
それらの特徴と明らかになった茜の正体とが、ぼんやりながら頭の中で結びつく。
「納得だろう?」
「……!」
「今の僕は、今の両親の教育の賜物だ。
それがなければ、僕も普通の夢魔と変わらなかったかもしれんぞ?
……そういうことだ。やめておけ、サキュバスと友達なんて」
辰弥は頬杖を突いた姿勢で意地の悪い笑みを浮かべ、空いた手でチップスを手に取り齧る。
リーフェルトは黙って彼女を暫し上目で見つめてから、
「君、そんなに自分が嫌い?
……それとも、お母さんの血がそんなに憎い?」
「……」
自分の問いに、
試すように自分を捉えていた彼女の目から、挑戦的かつ自虐的な笑みがたちまち消え去る。
「ごめん。確かに僕は、この世界に来るまでは夢魔のことを下に見ていたよ。……でも」
彼女の口から、彼女自身に流れる血や、彼女をこの世に産んだ母親を貶すような科白は聞きたくなかった。
自分がこんなことを考えているなんて、
インキュバスやサキュバスを見下していた過去を思えば、とても伝えられないけれど。
「多分。絶対、君を産んだ君のお母さんは、素晴らしい人だよ」
「……会ったこともないのに?」
「わかるよ。だって茜さんの親友だった縁もあって君がこの家に引き取られたのなら、
茜さんたちの教育を受けられたのは君のお母さんの人徳じゃないか。
……きっと育ての親が茜さんや君の御師匠様じゃなく、君を産んだご両親だったとしても、
今の君に負けないくらい素敵な女性になっていたんじゃないかって、僕はそう思うよ?」
彼女はもっと、自分を誇っていいと思うのに。
夢魔の血が混ざっているということで、何かあったのだろうか。
(だから、性別を偽ってるのか……?)
幼馴染であり親友である木塚小夜でさえ、辰弥が退魔師であることはおろか、半分人間ではないことを知らないようだった。
一体、いつから彼女は男として生きようなどと考えたのだろう。
「……おかしな奴だな、君は」
リーフェルトの科白から数秒、無表情で沈黙を紡いでいた辰弥だったが、
やがてふ、と小さな笑みを零して、
食べかけのチップスを口の中に放り込み、噛み砕く。
先程の冷ややかなものとは違う、温もりを湛えた瞳をリーフェルトに見せて。
「まあ。君がこの先後悔しないというなら、是非とも友達になってもらおう」
「……っ、じゃあ。じゃあ、名前で呼んでくれる……?」
「ああ」
「……」
「……」
「……たっ―――」
「……?」
「試しに、呼んで……?」
「……意味もないのに?」
「だって、呼んでくれるってこの前言ったのに……」
「……ああ、わかった。……リーフェルト」
「……!」
頼まれるまま、気軽に名前を口にした辰弥に反応し、
ぱっと大輪の花が咲いたように一変するリーフェルトの表情。
……なんとも嬉しそうだ。
「……君は外国人みたいに表情豊かだな」
「……だって」
「それよりいい加減、君も食べろ、ポテチ。折角用意したんだから」
「ああ、うん。ありがとう辰弥君」
「歩花でいいよ」
「……?」
「本名だ。……ただし二人だけのときか、陽人と三人だけのときだけにしろ。
バレたら色々厄介だ」
「……。 ……―――!!!」
まさかここで彼女の本名が判明するとは思わず、
最初は何を言われているのか理解できなかったが、
それを頭の中で吸収できた瞬間にリーフェルトは目を見開いて、慌てて自分の通学鞄を引き寄せた。
一体何をするつもりなのかと辰弥が疑問符を飛ばし見守る先で、リーフェルトはノートとペンを取り出し、
辰弥にそれを突き出した。
「一番後ろのページに、書いて」
「え?」
「君の本当の名前。漢字で」
「……はあ」
ノートの端の下―――簡単に千切って捨てやすい場所に、小さく自分の下の名前だけを書いてから辰弥はノートとペンを返す。
ノートの主はニッコリ笑ってその文字と向き合い、
「walk……flower……アユカ―――可愛い名前だね」
「見慣れていなければそう思えるかもしれないな。……日本じゃ普通の名前だが」
「ありがとう! 大事にするよ」
「??? 大事にするのか……」
突っ込む辰弥の不思議そうな声も耳に届いていないように、
活き活きとチップスとジュースを口に運びだすリーフェルト。
そんな彼に辰弥はジュースを片手で持ち上げながら、独り言のように呟いた。
「君はわかりやすいようで、よくわからんな……」
夕食後―――皿洗いも済ませ、ゆったりとしたくつろぎの夜の八時。
スマートフォンを握って、リーフェルトは友人との文のやりとりを楽しんでいた。
『陽人君。女の子の歩花さんってどんな感じ?』
『どんな? 見た目か? 見た目は可愛いと言われればまあ、可愛い方か?
ていうか本名あいつから聞いたの?』
『うん、やっと聞けた。友達になってくれるってさ』
『よかったじゃん。お前、ひょっとしてあいつのこと好き?』
『うーん。好きなのかな。でも、そうだね。好きかも。なんか良いよね、彼女』
同刻―――一方、二階堂家。
カーテンも窓も締め切った自室。
黒かった髪は少し紫がかり、大人びてきりりとした精悍な目つきは、ちょっぴり微睡んでいるようなジト目がちの目つきへ。
170近くあった身長は160近くへと縮み、ぶかぶかとした男物のパジャマを着た“歩花”の姿をした辰弥は、ベッドに寝そべりながら小夜とLINEで話している。
『へー、ガーシェル君遊びに来てたんだ』
『ああ』
『そういえばガーシェル君って、どうして日本に来たんだろ。親の都合か何かかな?』
『日本文化に興味があるんじゃないか?』
『そうなの?』
『漢字を教えたらとても喜んでいたから、おそらく』
『そうなんだ!?(笑) なんか可愛いね』
『漢字が好きだという外国人もいるらしいから、そういう感じだろうな』
―――二階堂辰弥。もとい歩花、十五歳。
笹永陽人にあれこれ言う割には、
自分に向けられる異性の気持ちには疎かった。