第8話 謝罪
中間テスト前―――
「辰弥君。あの、中間テストもうすぐだから放課後一緒に勉強しない?」
「ごめん。僕はいい」
「じゃあ、わからないところとかあったら教えるよ」
「小夜と対策済みだから問題ない」
「……学校帰り、息抜きにちょっとどこか寄ったり」
「忙しい」
「……そう」
中間テスト最終日放課後―――
「辰弥君。一緒にハンバーガー食べに行こうよ」
「……ごめんけど」
「あ、嫌かな。えっとじゃあ、ちょっと買い物に付き合って―――」
「今日は、忙しい」
「……」
通学鞄を片手に、一人帰っていく辰弥の背中を見送るリーフェルト。
今日は小夜とは帰らないらしい。
小夜はクラスメートの他の女子たちと雑談を楽しんでいる。
(……嫌われてる? 怒ってる??)
いつか辰弥の力になるべく距離を縮めようと努めているのだが、素っ気なくかわされるばかりで、まるで希望が見えない。
悪い感情を抱かれてもしょうがない。
それはわかっている。
わかっていても、悲しいものは悲しいのだ。
「……笹永君」
「陽人でいいよ」
「僕やっぱり、嫌われてるみたい」
「……うーん」
肩を落として落ち込むリーフェルトに、
陽人は頭を掻いて、どうしたものかと唸った。
その晩。
自宅でスマートフォンにメールが届いていることに気が付き、
シャワーから上がったリーフェルトはバスローブ姿でそれを確認する。
(陽人君……?)
『辰弥の奴、監視されてるから付き合い悪いだけだって。
お前が嫌いとか、恨んでるとかじゃないっぽい』
(……監視……??)
リーフェルトは柔らかなソファにゆったりと座り、
スマートフォンを弄って文章を組み立てていく。
『監視ってどういうこと? 誰から監視されてるの?』
『多分、ゴールデンウィーク前のあれのせい。あんまり寄り道とかせずまっすぐ帰れって言われてるらしい。
スマホのGPSで茜さん(辰弥の母さん)に監視されてる。
茜さんいつも師匠の旅に付いて行ってるんだけど、今回はしばらく家にいるってよ』
『監視のために? いつまで?』
『さあ……師匠も茜さんもこういう時厳しいからな。
しゃあないんだけどさ。なんとかあいつフォローしてやりたいけど、パートナー解消させられちまったし』
陽人に聞いたところによると、魔と戦うのも罰として禁止されているらしい。
彼曰く辰弥は退魔師でもあり、半人前である自分の力をその術で補っていたのだとか。
(辰弥君、大切にされてるんだなあ。……そうだよな)
なりは男子でも、やはりまだ十五歳の女子なのだ。
わざわざ知らせてくれた陽人に礼の返事を送って、スマホを机に置き天井を仰ぐ。
そして少しの間考えてから自分の両の頬を叩き、決心した顔でソファから立ち上がった。
(辰弥君のお母さんに謝りに行こう―――)
父親の方は既に旅に出ていて不在らしいので、せめて母親のほうだけでも。
謝罪はなるべく早い方がいいだろう。
少し怖いけれど。
陽人が責められたのだって、そもそも自分を助けようとしたせいだ。
自分だけが謝罪しないわけにはいかないと、リーフェルトは唇を引き結んだ。
悩みに悩み、時間に余裕のある日がいいだろうと家を出た土曜日の昼。
二階堂家前。
自分も付いて行こうかと陽人が心配してくれたが、
彼は既に一人謝罪に訪れたのだから、その必要はないと断った。
これは自分一人の問題だ。
最悪の場合、陽人が余計に怒られてしまうかもしれない。
リーフェルトは緊張しながら家の前に立ち、チャイムを押し込む。
<はい>
良く通る、落ち着いた大人の女性の声。
明らかに辰弥とは違う声に、身体が自然と硬くなる。
「あのっ……辰弥君のクラスメートで―――」
<ああ。ちょっと待ってて。呼んでくるから>
「い、いえ! いいです! その、茜さん、ですよね……? 辰弥君のお母さんの」
<? はい>
「辰弥君の……ゴールデンウィーク前のことで、貴方に謝りたくて」
<……>
インターフォンのスピーカーから、がちゃりと通信が途絶える音が微かに聞こえる。
自分がしたことを思い返し、
リーフェルトはそのまま無視されることを覚悟したが、幸運なことに玄関の扉は数十秒後に開かれた。
「……」
出てきたのは、やや吊り上がった切れ長の瞳が印象的な女性。
美人は美人でも、リーフェルトが想像していた成熟されたサキュバスのイメージとは違う、
しっとりとした清楚な色香を持つ和風美人だ。
リーフェルトは頭を深く下げ、まず名乗る。
「僕は辰弥君のクラスメートで、五月の初めに、その……」
「……とりあえず入りなさい」
人目の付く場所で自分の素性を公言していいものかと惑った彼を察したのか、
茜は落ち着き払った様子でリーフェルトを家の中へと促した。
リーフェルトは茜の後に続き、居間の方へ通される。
「お母さん。今のお客さん―――」
畳の上に正座をし腰を落ち着けて間もなく、
開いた居間の襖から、ひょっこりとポテトチップスの袋を片手に抱えた私服姿の辰弥が顔を覗かせる。
彼女はリーフェルトにすぐに気付いて、とても驚いた顔をした。
「貴方は二階に行ってなさい」
母にそう言われた辰弥だったが、
彼女はすぐに張りつめた居間の雰囲気に気が付き、「いや……母さん」と声を上げる。
「二階に行ってなさい。終わったら呼ぶから」
「でも」
「辰弥君。大丈夫だから」
自分に気遣わしげな目を向けてくれている彼女に、それだけで十分だとリーフェルトは微笑む。
今までフォローしてくれていたのだろうか。
それなら尚更、ここで彼女の助けを借りることなどあってはならない。
「心配ないから。ね?」
「……母さん」
「この子は私が呼んだんじゃない。自分の意志でここに来たの。……意味はわかるわね?」
「……―――」
母に諭され、口を噤み俯く辰弥。
彼女はやがて「わかった」と呟いて、二階に上がっていった。
「粗茶ですが、どうぞ」
茜はしばらくリーフェルトを待たせてからテーブルの上に湯呑みを置いてやると、
彼女は彼に向かい合うようにテーブルを挟み、自身も腰を落ち着ける。
そしてようやく、静かすぎる居間の一室で小さくなっている娘のクラスメートをまっすぐ見据えた。
「……僕はヴァンパイアで、本当の名前をリーフェルト・アップルガースといいます」
「私に謝りたいといったわね? 何を謝りたいのか、教えてもらえるかしら」
正座した脚の上で、両手を握りしめるリーフェルト。
掌も身体もじっとりと汗ばんでいるのに、口の中だけが喉の奥から乾ききって声が出ない。
いざ謝罪するとなると、こうまで身体が震えるものだとは思わなかった。
「顔を上げて。私の目を見て」
指摘され身が強張るが、促されるままに顔を上げる。
容赦ない真剣な視線を茜に注がれ、こみ上げてきた固唾にリーフェルトの喉が鳴った。
「僕は―――」
長い静寂の後やっと絞り出せたのは、情けないくらいに弱々しい声。
しかしそんなことを気にしているようでは本当に何も喋れなくなってしまいそうで、彼は続けた。
「辰弥君を、人として生きられない身体に……」
茜の目を懸命に見つめ返しながら、
青ざめた顔で自分が彼女にした過ちを伝える。
そんな彼の震える唇から出てきたのは、
あらかじめ何度もイメージして胸の内で練習してきた科白とはまったく違う、纏まりのない科白の羅列だった。
「僕を助けるために危険を冒して、血をくれてまで……。
彼女は退魔師で、敵になるかも、しれなかったのに。
そうまでして助けてくれたのに、僕は、彼女を、傷つけて。
……最悪、こ、殺してたかもしれ、なくて」
最初こそ緊張で枯れていた彼の言葉が、徐々に滝のように溢れだした感情に濡れていく。
「生きていても、普通の人間じゃなくなって。
体育でも、陽に弱くなって、彼女つらそうで。
いつも屋上でお弁当食べてたのに、それも、できなくて……」
最近では有難いことに、陽人と小夜が辰弥とリーフェルトの方にきて昼食を共にしてくれている。
それでも、他の人間が普通にできることができない、
他の人間が普通に行ける場所に行けないというのは、どれだけ不便で心寂しいことだろう。
「寿命も、違うし。今までと同じようには、もう……」
自分のしたことを言葉にすればするほどに、それは鋭利な凶器となった。
嫌でもそれを拾い集めてしまう自分の耳を通って胸を刺し、心を抉っていく。
リーフェルトは両手で顔を覆い、
後悔のあまり、零した。
「取り返しのつかないことを―――」
精神の未熟さ故に先程まで感じていた罵倒される恐怖など、とうに忘れていた。
馬鹿なことを。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。
「償いきれなくて。父の力でも、もとに戻せない。
謝罪なんか―――何の役にも立たないのに。
こんなことしかできなくて……本当に、ごめんなさい……」
何故自分は生きているのだろう。
それが今では不思議でたまらなかった。
何故、自分は生かされたのだろう。
そんな価値などなかったのに。
泣いてすむことではない。寧ろ一番泣きたいのは辰弥の方だと、
自分の頬を流れるふざけた涙を、何度も拭って感情を堪える。
彼女は自分よりも価値があって、慈悲深く素晴らしい人なのに、
なぜ自分なんかがのうのうと、何の傷もなく、何の変化もなく生きているのだろう。
「……そこまでわかっているなら、それでいいわ」
それまで黙ってリーフェルトの話を聞いていた茜の声が、項垂れた彼の頭上から落ちてきた。
今ではどんな罵倒も、自分には相応しいと思っていたのに。
心なしか、茜の声は幾分柔らかなものになっていた。
「貴方のことは、あの子から聞いています。
確かに貴方のしたことは、取り返しのつかないこと。
親として、貴方に怒りを覚えないと言えば嘘になる」
「でも」と茜は続ける。
「友達の頼みとはいえ、あの子が自分で考えることをやめて、間違った選択をしたことも事実。
退魔師としても、陽人君より場数を踏んでいるにも関わらず、ヴァンパイアという強い種族を前にして油断をしたあの子にも落ち度はあります」
「……」
「一人娘に対して、厳しいと思うでしょうが。
あの子が退魔師になりたいと言いだした日から、私たちは何度も言い聞かせてきました。
『退魔師の技術を叩き込むのは、貴方がなりたいと願ったから。
あくまでそれを叶えてやるためであって、貴方の身がどうなってもいいというわけではないのだ』と。
たとえ守るためでも。私たちはあの子が大事にしているものよりも、あの子の方が大切だから」
一貫して凛とした口調でありながら、確かな深い愛情が痛いほどに感じられる。
同時に、リーフェルトは思う。
この人たちは本当はもう、辰弥に戦ってほしくないと願っているのではないだろうかと。
「……あの子も、愚かでした。本当に―――馬鹿なことを」
呟く茜に、いたたまれない気持ちになって何も言えなくなる。
この時、上手くフォローすべきだったのかもしれない。
しかし自分がそれをするのは何だか間違っているような気がして、
リーフェルトは長い沈黙ののち、そのまま家に帰るという選択しか選ぶことができなかった。
友の頼みを聞くことは、愚かなことだろうか。
彼女がしたことは、馬鹿なことという言葉で片づけられてしまうのだろうか。
自分で考えることをやめた結果? ―――本当に?
なんだか、寂しすぎる気がする。
(こんな考え自体、青臭いのかな―――)
大人からしたら、そうなのかもしれない。
ベッドの上に身体を投げ出して、ため息を吐いた。
昼の辰弥の家でのことをあれこれ考えていたら、とうに深夜一時を回っていた。
しかし明日は日曜日だ。
少々眠れなくても支障はないだろうと、気にしないことにした。
<眠れないのか>
「……まあね」
頭の中から響いてきた声に、ぼんやりしながら相槌を打つ。
リーフェルトはそのまま寝返りを打ち暫し部屋の壁を見つめていたが、
「……?」
自分以外誰もいないはずの部屋に、聞こえるはずのない他人の声が聞こえたことに一拍遅れてから疑問を持ち、
ゆっくり体を起こした。
「……何……?」
<ベランダ>
気のせいかと思ったが、再び響いてきた声に完全に我に返る。
しかもこの声は、どこかで聞いたことがある。
記憶を探り、それがゴールデンウィーク前のあの日聞いたものと酷似していると気付くなり、
リーフェルトはすぐにベッドから降りてベランダのカーテンを開けた。
「―――!」
<……すまない。少し、外に出られるか?>
ベランダに通じるガラスの向こうには、眼鏡の少年が立っている。
Tシャツに膝上のズボンというラフな格好をした辰弥は、
口を動かさず、リーフェルトの頭の中から囁きかけた。
「こんな夜更けだから、メールや電話は迷惑かと思って。
だから君の夢の中に入るつもりだったんだが」
リーフェルトと辰弥は羽を広げて高くまで飛び、
リーフェルトの住むマンション屋上の、手すりの上に距離を空けて並んで座る。
「寝付けなかったのか?」
「……まあ」
「母が君に何か言ったか?」
「別に、怒られたりとかしてないよ。大丈夫」
安心させるように、リーフェルトは彼女に笑いかける。
ひょっとして、心配してくれていたのだろうか。
「……すまない。でも、直接君に謝りたくて」
「え?」
「まさか家に来るほど、君が思い詰めていたとは思わなかった。
僕が気を付けていれば、そこまで君の心に傷跡を残すこともなかったろう。
君の誇りも、傷つけてしまった。……すまなかった」
まっすぐ自分の目を見て謝る辰弥。
相変わらず男子の姿ではあるが、
悲しげな表情になんとなく本当の彼女が垣間見えたような気がして、わずかにリーフェルトは目を見開く。
「……君が助けてくれなかったら、僕は死んでいたよ?」
「助けたのは陽人の意志で、僕の意志じゃない。
僕は君を疑っていたし、僕一人なら君を見殺しにしていた」
「助けたいという友達を信頼したのは君の意志だろ?
間に合わなかったということにして僕を殺すことだってできたじゃないか。
君は自分で考えて、友達のために僕を助けた。違う?」
「たとえそうでも、もっと上手くできたはずさ。そしたら陽人も君も、誰も傷つかなかった」
「傷ついたのは僕たちだけじゃないよ」
「そうでもない。寿命のことだって、元々僕は普通の人間じゃなかったから、
今は同じ時を陽人たちと過ごせていても、この先もずっと一緒なんて保証はなかった。
……君に血を吸われて、改めてこの身に流れるサキュバスの血の濃さに驚かされたよ。
ヴァンパイアの支配なんて、まったくものともしなかったんだから」
そう言って、広げられた辰弥の羽。
サキュバスのものでも、ヴァンパイアのものでもない異形の羽。
「寿命が何百年延びようと、ただ、それだけだ。
だから君たちが思うほど僕は何も変わっていないし、失ってもいない。傷ついてもいない」
「……」
心の底では、彼女が何を思っているのか。
果たして言葉通りなのか、それとも強がりなのか、
それは、夜の闇に強いリーフェルトの双眸でもわからない。
だが―――
「寧ろ君に対して、正直に思うことは―――こんなことを言うのは、とても不謹慎かもしれないが……なんというかな。
……君があまりに優しかったものだから、嬉しかった」
「……えっ」
「お粥を作ってくれたり、気にかけてくれたり、それでわざわざ謝りに来てくれたり。
素直に嬉しかったよ。ありがとう」
「! そ、そんなこと―――」
「だからこそ。ずっと言いたかったことだけれど、君は僕と今後あまり関わるべきじゃない」
「……―――」
予期せぬ言葉に、やっと晴れかけたリーフェルトの胸の内にまた、暗雲が立ち込める。
面食らった顔をしている彼に、辰弥は構わず自分の考えに口を割った。
「ましてや君は王子なのだから、世間体もある。
サキュバスがどんな種族なのか、君にもわかっているはずだろう」
「っ、でも、君は他のサキュバスとは違うし……」
「それはそうさ。たとえ混血じゃなくたって、純血の夢魔にだっていろんな人はいる。
大抵の人が抱える夢魔のイメージ通り、快楽だけを貪り人を堕落させることを生きがいとする者たちもいれば、
ただ種族の繁栄のため、仕方なくルールに従い生きている者たちもいる。
彼らの多くは生殖機能を持たないからね。
僕のようにサキュバスのイメージから少しかけ離れている者たちも、君が今まで出会わなかっただけで、きっとどこにでもいる。
……一つの種族に、色んな人たちがいる。それは人間だって、ヴァンパイアだってそうだ」
「だけど」と、辰弥は一度言葉を切り、リーフェルトの顔を見据える。
いつものポーカーフェイスに似ているが、微妙に違う。
どこか人間くさい、悲痛そうな色を整った顔に宿している。
「問題は、そこじゃない。
―――君の家族や親戚が、サキュバスと友達だなんて言う君を、一体どういう目で見ると思う」
至極当然でありながら、
深く考えたことなどなかったその見解に、リーフェルトは突如頭から冷水を浴びせられたような気分になる。
「ガーシェル。君のように、誠実で素晴らしい人に友達になりたいと言ってもらえたことは、とても光栄なことだと思ってる。
最初は疑っていたけれど、今は君を良い人だと思ってる。
だからこそ、考えてほしいんだ。僕はこれ以上、君の誇りに傷をつけるわけにはいかない」
リーフェルトは思わず、口を噤んでしまった。
辰弥のこんなにも懸命な眼差しは初めて見た。
辰弥は再び前に顔を向け直し、中指でいつものように眼鏡を直す。
「話は以上だ」とクールに言って、普段の“彼”に戻ってしまう。
呆然とリーフェルトが何も言えず見守る中辰弥は立ち上がり、
大きく腰の辺りから自らの羽を広げた。
「今日はすまなかった。ゆっくり休んでくれ。
本当に、ありがとう。ごめんなさい―――」
そう言い残して彼女は地を蹴り、
リーフェルトを一人残して、空を舞った。




