第58話 幕開けの紅
『バークス君が羨ましいなあ。せめて私も人間じゃなくて、夢魔に生まれればよかったのに』
『サキュバスにかよ?』
『ううん。普通の夢魔。うちの親、男とか女とか色々うるさくってね。そういうの、小さい頃から煩わしかったの。
だから男とか女とか、親とか家とか、そういうしがらみからも解放されて。バークス君みたいに好き勝手やって。
好きな人ができても、すんなり諦めて。さっさと他の人を好きになって。
自分のやりたいこと、好きなだけやって。そういう風に、生きられたらいいのにって』
真優が囚われている廃園した遊園地を目指すミリーの頭に、彼女としたいつかの会話が何度も回る。
その後、真優の弱っているところにつけこみ、自分の欲求を果たせなかった理由を、漠然ながらミリーは見い出しつつあった。
彼女のあの科白は、自分の本音そのもの。
自分が幼い頃から目を背けてきたコンプレックス。
出産の負担から、生みの母親はミリーの誕生後に亡くなった。
代わりに血の繋がった父や多くの執事、メイドたちが家にいたが、父は自分にまったくの無関心であった上、ただの夢魔である世話役たちは、家の当主である父に対する時のように、ミリーと接する時も常に顔色を窺っていた。
“我が子である”。ただそれだけの理由で与えられて至極当然と世間で言われる、無償の愛などミリーは知らない。
幼少の頃からただはっきりと理解していたのは、
自分が大切にされているのは、自分が世界にたった一人しかいない、“ミリー・バークスだから”ではなく、“生殖機能を持っている夢魔だから”という事実。
そんな環境で生きてきた自分を寂しいと認めたくなくて、自分と同じ、または似た環境で生まれ育った、同じ生殖機能持ちのシュガーやエイベルとつるんでは、生殖機能のない普通の夢魔たちを嘲笑い、見下した。
すべてはみじめで、可哀想な自分から逃げるために。
自分は妬ましかったのだ。
血の繋がりがないのに、育ての親たちから無償を与えられ生きているただの夢魔たちも。
そして自分と同様に親と血の繋がりを持ち、“だからこそ”と、無償を当たり前に与えられて生きている他の種族たちも。
煩わしかった。男も女も、親も家も、そういった自分を取り巻くしがらみ、すべてが。
あの女は、自分に少し似ている。
だから何だと聞かれれば、本当に何なのだろう。ミリー自身、自分のことなのによくわからない。
似ているから、命の危険にさらされたあの女を助けたいのか。
自分の命を捨ててでも、助ける価値があると感じているのか。
疑問を抱えたまま、死へと続くかもしれないこの道を、ただただ進んで。
最悪の状況を何度考えても歩みを止められないのは、自分の心を満たすことができるのは、あの女を助けるという行動しかない―――自分の脚が、自分の思考以上にそれを知っているからなのだろう。
他人事のように、不思議とミリーはそんなことを考えていた。
<そっちは駄目>
頭の中に響いた声に、ふと立ち止まり顔を上げるミリー。
力の封印された今の自分には使えない意識干渉の声だ。
<今、サリエさんから意識の声が届きました。
人質の人を、助けに来たのですね……?>
「……」
<迂回して。ミイとソフィが、ヴァンパイアたちに見つからないように、ナビゲートします。
でも念のため、気配を殺して慎重に移動してください。……エクソシストの人が張ったバリアも、もうすぐ壊れてしまいますから>
それを聞いたミリーは顎を引いて口元を引き締め、ミイたちの指示通りに動き始めた。
その時―――リーフェルトと退魔師側。
<歩花>
陽人を運びながら空を飛んでいるリーフェルトの隣を飛んでいた歩花は、頭の中に入って来た意識にハッと顔を上げる。
リーフェルトの周りには、羽を広げている里央、美央たちの姿もある。
<セノ―――?>
<おう。なかなか大変な事態になっているようだな>
<もう済んだのか?>
<ああ。あとはケヴィンに一任している。あいつも種持ちだからな>
普段メイドの格好をし、セノを“セノ様”などと呼んではいるが、ケヴィンはれっきとした雄のインキュバス。生殖機能持ちである。だから貴族出身で、誰かに雇ってもらわなければ生きていけないということは決してないのだが、『面白そうだから』という理由でセノの世話をしているらしい。
そんな彼が何故、サキュバスでもないのに元の性別とは真逆の格好をしているのか―――それは女装癖があるとか、生まれ持った自分の性別を嫌悪しているからとか、決してそういうわけではなく、単にナルシストなだけなのだ。
数年前。ケヴィンが生殖機能持ちだとセノから初めて聞いた歩花が、『好きな女性のタイプは』とケヴィンに聞いたところ、『僕』と即答され、返す言葉が見つからなかったことがある。
セノ曰く、どうやら気まぐれに男の姿になり男の格好をし、女の姿になり女の格好をして、インキュバスの世界では、『男と女、どっちになっても僕って素敵……絶世の美男で絶世の美女の僕ってあるイミ最強じゃない?』と鏡の前でよく悦に浸っているらしい。
<そちらは今どういった状況だ>
リーフェルト側か置かれている近況を、歩花は手短に従兄に話す。リリアーヌたち五人とは異なる人物が三人、廃園遊園地で発見されたことも。
それを聞いたセノは<遅かったか>と、いつもの陽気な彼には相応しくないワントーン落ちた声でぼやく。
その声に引っ掛かりを感じて歩花が何が遅かったのかと問えば、なんとリリアーヌたちの義母、義父たちが日本に向かっているという情報がリーフェルトの実家の方に入ってきたという。
スターチスからそれを聞いた彼は歩花たちに伝えるために人間界に降りたのだ。
<じゃあ、あの三人はリリアーヌたちの育ての親……?>
<二人はな。ドナ、フローリスという名前の吸血鬼。あと一人は元人間の魔導士だった、魔導吸血鬼サモエド。厄介なことにドナとフローリスは二人とも金目だ>
<! 金―――>
赤目の五人だけでもこのメンツでなんとか勝てそうだというところなのに、ここで赤よりも戦闘能力に秀でた金目―――?
そんな化け物をこれから相手するのだと考えたら、倒すビジョンがまったく頭に浮かんでこない。
リーフェルトの実家に行った際、金目のスターチス、ストックたちと手合わせをしたときの記憶が蘇る。
あの二人は、明らかにこちらを赤子扱いしていたのに。
<だが負け戦ではない。リーフェルトの兄、姉たちもそちらに向かっている>
<……!>
<城兵たちの部隊再編成も既に行われている。異世界故にこちらに来るまでまだ少し時間がかかるがな。
……だから今回。歩花たちエクソシストに重要なのは、勝つことではない。
ヴァンパイア城兵たちが人間界に降りてくるまでの間。王族の兄弟たちと協力し、奴らを逃がさぬよう食い止めることだ>
<そうか……わかった。みんなに伝えておく>
<ああ。俺も今、向かっている。安心しろ>
歩花は意識干渉を切り、仲間たちに今従兄から入った情報を伝えた。
城を模した建物の、埃っぽい床の上に縛られ転がっていた真優は、扉を開ける音に閉じていた目を開き、暗闇でよく見えない目を音の方に凝らす。
(笹永君かな……? そうだったら、いいな……)
今なら小夜の気持ちが痛いほどにわかる。
心のどこかで、お姫様のような立場の彼女を羨ましいと思っていた。その王子様の役が自分の好きな人だということもあり、小夜に嫉妬心を抱いていた―――何も知らなかった、昨日までは。
死の恐怖がいつ降りかかってもおかしくないこの状況下。たった一日しか経っていないのに、ここまで精神を擦り減らすものだとは思わなかった。
今はただ、大好きな人に会いたい。声を聞きたい。
いや、陽人じゃなくたっていい。誰かのメールでも、ラインでもいい。一文だけでも、「大丈夫だ」と、元気づけてほしい。
そう思えてしまうほどに今、心細くて、寒くて、とても怖い。
わずかな期待を寄せてゆっくり体を起こそうとした真優だったが、陽人のものでもない、歩花のものでさえない、聞きなれない男の声に、それは容易く打ち破られてしまう。
「おい、人間」
乱暴な口調。心ある者として見ていない、明らかな侮蔑の響き。
「ってか、起きようとしてたろ、今。何? 助けが来たとか勘違いしたか? あ??
ザンネンでーした♪ そんなもの来ねえよ」
闇の中、妖しく赤い双眸を輝かせ、真優をせせら笑うヴィート。
彼は真優を見下ろしながら
「もうすぐバリアぶっ壊して、こっから出られるってさ。
……だからそれまでの間、憂さ晴らしさせろよ。ムシャクシャしてんだよなあ! 今―――」
ギラギラとした緋色の瞳が、足音と共にこちらにじりじり近づいてくる。
真優は唇を引き締め気丈を装おうとするも、本能的な恐怖には勝てず、目を見開いたまま固唾をのみ込み身構えてしまう。
その緊張が彼に伝わったのか、嬉しそうにヴィートは悪趣味な笑みを満足げに口元に張り付けた。
「怖い? ビビッてんのか? ん~??」
真優の黒髪を無造作に引っ掴もうとしたヴィート。
しかし彼女に触れる前に、電流が伸ばした指先から身体にかけて走ったかと思うと、
何もない空間に光の網のようなものが、ヴィートと真優を遮るようにして突如現れた。
「あ……?」
網はそのままぐにゃりとひとりでに歪み、ヴィートに覆い被さり、意思を持っているかのように複雑に彼の身体に絡み付いていく。
「何だァ!?これ……!」
まとわりつく網にたまらず地に転げ、無様に這うヴィート。
すると城の扉が静かに開く音が聞こえて、彼の瞳はそちらに向く。
「やれやれ。人質に手を出すなと言っておいたんだがな。一応は」
「エリック……!」
扉が静かに閉まる音が響く。
ヴィートのもがく息遣い。光輝く、彼を拘束している縄。その光でぼんやりわかる、顔の必死な顔。エリックが近付いてくる足音。
夜目の使えない真優の五感からわかるのは、その情報だけ。
エリックはヴィートの傍らにしゃがみこみ、
「理性で女への嗜虐衝動を止められない―――人間以下の獣だな。貴様は」
とせせら笑う。
「この罠、てめえかよ……! おい! どういうつもりでこんな―――」
エリックは喚くヴィートの髪を掴み、そのまま持ち上げる。
そしてもう一方の空いた手で鋭い爪を翳すと、ヴィートは顔色を変えて静かになった。
「おい……お前、何して」
「今ここで俺に殺されるのも、近い未来王族に処刑されるのも、大した差はないだろう」
「なに―――?」
「安心しろ。俺も。お前が尊敬する養父も。すぐにそっちに行ってやる。
……だから、先に行って待っていてくれ」
エリックの、おそろしく静かな声。
光の網でできたうっすらとした影が、人の動きとは思えないほど速く動き、エリックの手の影がヴィートの影にあっさり埋まる。
その光景から自分の心を守るために、真優は咄嗟に目を閉じ、顔を背けた。
どさりと重たいものが落ちる音が聞こえて、恐る恐る目を開いた真優の意識に、暗闇のなか、光の網に身を包んだままくっきりと浮かび上がるヴィートの死に顔が飛び込んでくる。
ひっ、と真優はひきつった声にならない声を漏らし、身を恐慌に捩った。
「さて」
先程人一人を殺したばかりだというのに、奇妙なほど冷静なエリックの声。
それが気になってへたりこんだまま真優が顔を上げると、エリックは自身の赤い双眸を今度は真優に向けている。
「この女。どう使うか……」
数歩歩み寄られ、向けられる冷淡な眼差し。
初めて人が人を殺す瞬間を見ただけでもショックだというのに。真優は簡単に他人を殺せる目の前の男への底知れぬ恐怖に、身体を小刻みに震わせる。
かちかちと奥歯が鳴る。呆然とエリックを見つめていると、彼はゆっくり、鋭い爪先をこちらに伸ばしてきた。
血のついていない方の手ではあるが、その手で自分を掴み上げ、血に濡れた逆の手で自分を殺すつもりなのだろうか。
頭にやきついた先の光景のヴィートが、自分の姿に重なっていく。嫌なイメージだった。
洗濯してもらい、陽の下で乾かしてもらい、清潔なはずたった朝の登校前の真優の制服が、埃に加えてさらに冷たい汗でじっとりとまた汚れていく。
真優の制服にエリックの手が届く直前。
そんな彼の手を制する、突然の第三者の手が、二人の接触を阻んだ。
「っ……!」
自分の手を掴んできたのは、華奢で柔らかな女の手だったが、本能的な危険を察し、エリックはヴィートを殺したばかりの赤い爪を、第三者の腕目掛けて振るう。
与引汲リンドウはそれをエリックの腕から手を離すことで無傷でそれをかわし、右手の人指し指を飾る指輪をきらりと輝かせて、真紅の炎をその指先から生み出した。




