第41話 選択
すれ違う人々が、驚いた顔をしてこちらを振り返る。
たまに自分たちを見て立ち止まり、こそこそと顔を突き合わせて何か話したり、ニヤニヤと笑っていたり。
「うわ、すげえ」
「どっちも外国人?」
「なに? ドラマの撮影?」
「本当に道中でやるんだー、ガイジンって」
「子供とか普通にいんだけど……」
(……あれ。一体、何をしているんだろう。僕……)
都会の真ん中。ここは人が多いのに、声が遠い。
それよりも先程から耳に入ってくる音はどこからなのだろう。
自分の唇に、角度を変えながら何度も吸い付いてくる柔らかな感触は、一体何なのだろうか。
「エッロ」
「え、入ってね? あれ」
「やべえ」
「日本でやるなよなー鬱陶しい。自国に帰れっての……」
何かぬるぬるしたものが口に入ってきたと思ったら、こちらに向けられる目の数が多くなる。
(あれ……? これって……)
混乱した頭が、ようやく答えに結びつこうという時に、
リーフェルトの舌をつつき、別の生き物のように柔らかくなぶってくるそれが、再び彼の意識を鈍らせた。
歯列をなぞる感覚が、ぞわぞわとしたものへと変わって背中を駆け上がる。
(どうしよう。……こういうの、初めてだけど)
気付けば、意識が奪われていた。
抱きしめ返しもせず、両手を下にしな垂れたままではあるが、
自分にキスをしているリリアーヌを付き飛ばしもせず、つい、されるがままになってしまった。
(もしかしたら、すごく、上手いのかもしれない―――)
そう思った瞬間に、
ふと。茫洋とした自分の視界の中、誰かが視界に入り込む。
(……あれ)
その人物は、どこかで見たことがある。……よく知っている顔だ。
こちらをじっと見つめる、つぶらで無垢な瞳。褐色の肌。はてさて。
相手が誰なのか頭で認識するより前に、手が彼女の目を覆い隠してしまう。
「……」
手の主は自分と目が合うなり、目を閉じてゆっくり首を横に振る。
そして娘の目を覆っている彼が、リーフェルトを見据えたまま顎で示した先―――
動き出したリーフェルトの中の時が、再び止まったのを感じた。
姪のサルビア。兄のスターチスと―――辰弥の姿ではあるが、歩花がそこに立っている。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって。そんなに良かった??」
甘い吐息が鼻腔を掠め、一度自分の家族から目を離して再び顔を上げた。
そこには、自分に密着して悪戯っぽく笑っているリリアーヌの顔。
抱きしめられて、キスされた。集まる視線。
前には、残念そうな顔をした兄に、真顔の恋人。
やがて歩花が兄と姪に何かを言い、揃って自分の前から去っていく。
クリアになっていく、リーフェルトの頭の中。
(……あれ。僕、歩花以外の人と―――)
ようやく今の状況を理解して、顔もみるみる青ざめた。
心臓が凍り付き、全身の毛穴から冷や汗が噴き出るのを嫌でも感じる。
認めたくはなかった、が。それは自分と彼女、どちらの科白なのだろうか。
リーフェルトの頭の中に、自分には一生無縁な言葉だと信じ切っていた言葉がくっきりと浮かび上がってくる。
そう。それは日本語で言うなら―――“浮気”の二文字。
「……あ―――ち、違」
一体、何が違うのだろうと、リーフェルトは自分でも思う。
しかもただのキスではなく、恋人の歩花とさえしたことのない段階まで踏んでしまった。
自分の意志ではないにしろ、これを傍から見れば、浮気と呼ばずなんと呼ぶのだろうか。
掠れた自分の声など、どれだけ手を伸ばしたとて遠ざかる彼らには届くはずもなく。
そんなリーフェルトの心情を知らず、リリアーヌは「デートの続き」と言って、自分をどこかへ引き摺ろうとする。
リーフェルトは冗談ではないと焦って、その場から一歩も動かされないように両足で踏ん張ると、
めちゃくちゃな嘘を連ねながらも、リリアーヌから必死の思いで離れた。
「どど、ど、どどどどど、どうしよう陽人君!!」
電車で自分が住んでいる街に近い場所まで戻り、
そこから走って笹永家へ向かったリーフェルトは、
家から出てきた陽人を見るなり、真っ青になった顔で彼の肩をひっ掴む。
一方。近いうちに来るヴァンパイアとの戦いに備えて聖書に目を通している間、気付けば眠っていた陽人。
寝癖だらけの頭と寝ぼけ眼で来客のため外に出た瞬間、突如必死な顔で掴みかかってきた友人に、
ハテナを頭の上に飛ばしつつ、なんとかリーフェルトを落ち着かせようと彼を引き剥がした。
「何があった……?」
「大変なんだよ! 色んな意味で!! もう僕、どうすればいいのか―――」
「うん……わかったから。落ち着いて話せ。一から、一つずつな?
“俺が”、お前をどうすればいいのかわかんねえから。な?」
「う、うん……」
要領を得ない説明をしようとしている自分を、陽人に指摘されることで見つめ直し、
何度か深呼吸をすることで冷静さを取り戻す。
「あの……実は。犯人の一人とさっき会ってきて……」
「―――! ……待った。ここじゃ駄目だ」
顔色を変え、「一応な」と、自分の家の中を陽人は示す。
一度会話を止めて、陽人の部屋へ。
「ちょっと待ってろ。歩花に電話すっから」
「っ……いや……陽人君。後で僕が彼女に説明するから。彼女が来るのはちょっと……」
「……? 後でって。二回説明すんの面倒だろ? 全員揃ってた方が質問しやすいし」
「それは、ほら。茜さんもいるし! さ! 茜さんも知っといたほうがいいだろ!?」
「……あー。そうだな。じゃあ茜さんも一緒にこっちに来てもらって……いや、それならもう俺たちから行くか。
ちょっと待ってろ。支度してくるわ」
「そういうことじゃないんだよぉ陽人君!! 僕、さっき歩花の前で違う人と―――」
そんなリーフェルトの科白を遮ったのは、笹永家のチャイム。
首を傾げ、ここで待つようにリーフェルトに言って陽人は部屋を後にした。
一人友人の部屋に取り残され、クッションの上でぽつんと小さくなり、彼は正座のまま暫し待つ。
待っている間も、リーフェルトの胸中はなかなかの修羅場だった。
(いや、あれは僕がしたくてしたわけじゃないし、勝手に彼女からしてきたわけだから浮気じゃないんだよ……違うんだよ歩花。
決して浮気じゃないんだ。一緒にいたのだって、あれは調査のためであって別に君に不満があったからとかそういうことじゃなくって……。
いきなりだったんだよ。本当に僕だってびっくりしたんだ。
いや確かにあんなキスは初めてだったし、上手いとか下手とか僕よくわからないけど多分彼女はすごくキスが上手くてつい夢中になっちゃったし、多分経験豊富でそのせいかリリさん結構色っぽかったけども―――)
「いやいや、違うんだよ歩花……!
そうじゃないんだってば……!! 君の方が小っちゃくて可愛いし全体的にむちっときゅっとしてるから君のほうが相当魅力的で……」
歩花に責められた状況を想像し、頭の中で何度も言い訳を繰り返すうちに、
口から思考が漏れ出て、無意識にぶつぶつと独り言を唱えだす。
「あのね歩花。君が比べてセクシーじゃないとかそういうことじゃなくって、
勿論経験豊富な女性よりも君みたいに純朴な子のほうがずっと素敵だって心の底から思ってて……」
「おい」
「結局何がいいたいかというと、あれは浮気じゃないんだ歩花……好きなのは本当に君の方なんだよ。本当に何でもするからお願い別れるなんてそんなこと―――浮気なんてしてないんだぼくは」
「リーフェルト」
「浮気じゃないんだよ!! 信じて歩花!!」
「……お前の兄貴と姪と歩花が来てんだけど」
部屋に設置されている小さなテーブルの上で、自分の世界に意識を持って行かれたまま、両手で頭を抱えた状態からバッと顔を勢いよく上げ突如叫び出したリーフェルト。
事情を知らないために意味不明行動をとった彼に対し、陽人は一拍分の間を置いただけで、平然と言葉を返した。
陽人の顔と科白に、リーフェルトは現実世界に一気に引き戻される。
そして、段々と血の気が引いた。
「……俺はよくわかんねえけど、お前が今言ってる浮気の件とは無関係だと思う。
お前の兄貴と姪、俺に挨拶しに来たって言ってるし。歩花は俺の家に案内しただけっぽいしな」
「お、おおお、お願い陽人君! 僕がここにいることは内緒にして!」
「いや。内緒にって、もうお前来てるって言っちゃったし」
「なんで!?」
「なんでって。お前の事情とか詳しく知らねえし。どちらにしろちゃんと腹割って話さねえと」
「そうだけど! 心の準備がまだできてない―――!!」
「落ち着けよ。浮気じゃないんだろ? 俺見てないからわかんねえけど」
座ったまま大量の汗をかき、友人の脚に縋りつくリーフェルトを、
陽人はズボンを掴まれながら冷静に宥める。
「ていうか客来てるし、早く降りて俺、茶の一つでも出さねえと」
「うう……」
「お前も。無視して俺の部屋に引きこもってるわけにはいかないだろ? 親族いるんだしさ」
「……」
陽人の言う通りだ。
普通の平凡な家庭ならまだしも、王族の家庭。
気まずいからと言って、滅多な理由もないのに、家族との付き合いを蔑ろにしていいはずもない。
観念してリーフェルトは暗い顔で立ち上がり、
陽人に続いて笹永家一階へ。
楽しそうな兄、姪と恋人の声が近づくたびに、リーフェルトのテンションが下がっていく。
短いようで長い沈黙を破り、部屋の主はドアノブを回して顔を覗かせる。
陽人がドアを開けた向こう側。そこには勿論、慣れ親しんだ顔が三つ並んでいた。
「おう、リーフェルト」
「……お久しぶりです」
「お久しぶりです! 叔父様」
「久しぶり」
あんな場面を見られたとはいえ、何事もなかったかのように兄と姪に挨拶されて、
自分も自然な笑顔を装ったがどうも上手くいかない。
リーフェルトはぎこちなさすぎる笑顔を顔に無理矢理張り付けて、三人の輪の中に身を投じた。
リーフェルト、陽人、歩花、スターチス、サルビア。
違う種族たちが五人が顔を突き合わせ他愛のない話に花を咲かせている合間、
退魔師関係の話に興味を持ったサルビアの質問に答える陽人と歩花。
歩花は辰弥の姿のまま、いつもの調子で楽しそうに話している。
一見不機嫌そうには見えないが、それがリーフェルトをかえって不安にさせていた。
(歩花……何を思ってるんだろう……)
彼女はポーカーフェイスなところがある。
感情を隠すのが自分と比べてとても上手い。
「―――なあ、リーフェルト?」
「……え? ああ、うん……」
リーフェルトに話を振ってくる時も、今見ている感じでは普段通りだが。
それは表面上だけかもしれない。
と疑って見つめてみても、本心はやはりわからない。
「じゃあ、茶葉替えてきます。菓子補充も兼ねて」
陽人は断りを入れてからその場から立ち上がる。
「僕も手伝おうか」
「いや、いいよ別に。座ってろ」
「ん……そうか」
立ち上がりかけた歩花を制し、陽人は台所に消える。
四人になった日本の家の小さなリビング。
陽人がいなくなったことで、リーフェルトの肩身が更に狭くなる。
(……どうしよう。どうやって弁解した方がいいだろうか……)
あの場面を見ていたのは歩花だけではないのだから、
遅かれ早かれ、しっかり説明しなければならないだろう。
できるだけ早く、この場で何か言った方がいいのか。
それとも陽人がいない場所で、改めて説明すべきなのか。
目を挙動不審に泳がせ、リーフェルトは頭を悩ませた。
「リーフェルト」
「……! は、はい……っ……!?」
突如声をかけられて、背筋がびくりとまっすぐに伸びた。反射的に。
しかも、名前を呼んだのは恋人の歩花だった。
「さっきから何をビクビクしてるんだ、君は」
「あっ……はい……すみません……」
小さくなっていく情けない自分の声。
ビクビクしている自覚はしているが、無理もない。
だが歩花は怒るどころか、そんな彼を見据えたまま苦笑する。
その苦笑いは、いつもリーフェルトに見せるものと同じものだった。
「大丈夫だから。いつも通りにしろ」
「……う、うん……?」
「……やっぱり。陽人の手伝いに行ってきます」
そう言い残して立ち上がり。彼女もまた、台所へ。
自分と自分の親族だけがその場に残されて、
リーフェルトは暫し消えた歩花の背中を見送り呆然となる。
「イイ子だなー歩花ちゃん」
そうスターチスはぼやいてから、冷めた残りのお茶を飲み干した。
「……えっと……」
「お前が他の子とキスしてるとこ。
始終見てたけど、どう見ても女側から一方的だったし、お前はあの子を抱きしめてなかったから不問だとさ」
「……―――」
不問―――その予想外の二文字に、ついリーフェルトの灰色の瞳が丸くなる。
何も言わない叔父を見据えて、サルビアは父親に続き、
「歩花さん。今の叔父様に色々思うことが出てきても、信じてあげてくださいって言ってた。
でもね叔父様。他の人とキスしたことは、後で歩花さんに謝らなきゃ駄目だよ」
めっ、と人差し指を立て、リーフェルトに注意する。
「しかし、昼のあれは正に、ジャパニーズドゲザレベルだな」
「一年くらい頭上げたら駄目だからね! セップーク!」
「ついでにカイシャクもしてもらえよ」
ニヤニヤした横顔を見せる兄と、微妙に怒り顔のサルビアに、
リーフェルトは最早言い訳する言葉もなく、大量の汗で自分の服を濡らすことしかできずにいた。
スターチスとサルビアが帰った後。
リーフェルトはその場に残り、陽人と歩花にリリアーヌ、パンジーという名の二人の女ヴァンパイアと出会ったこと。
また、リリアーヌの話の内容をそのまま伝える。
元人間だったということに二人の退魔師は驚いていたが、
すぐに話を噛み砕き呑み込んだ。
「仲間の存在は? その女たち二人だけか?」
「ううん……確か、あと三人いるって」
「三人―――三人もか。
それに加えて下っ端たちもと考えると、相当厄介だぞ……。応援が更に必要になるな」
「じゃあ。リーフェルトの家に伝えて応援求めるか……?」
「うーん……」
陽人の科白に歩花は口元に手を添えて、考え込んだ後。
リーフェルトの顔をじっと見て、ふと、部屋の端に目配せする。
その視線を追った先には、小さなレジ袋。
日本人の誰もが知っている、大手電機会社のマークが入っている。
「……リーフェルト。
そのリリアーヌの連絡先は、入手しているか?」
「ううん……」
首を横に振ったリーフェルトから目を離し、
歩花はレジ袋に向かい、それを拾い上げた。
その中から小さな青い機械を取り出し、リーフェルトに渡す。
「ボイスレコーダーだ」
「……レコーダー?」
「仕事をする際、大切なことをいつでも記録できるように、僕も陽人も持っている。
これは君の分。安物ではあるけれど、性能はいいものを昼間買っておいた」
受け取りながら、「だから今日、歩花はあの場にいたのか」とリーフェルトは納得する。
「君は今でも、彼らと和解したいと思っているか?」
「……!」
手のひらに余裕で収まりそうなその機械から、弾かれるように顔を上げれば、
真剣な歩花と目がかち合う。
「君が話したのは、そのリリアーヌという人だけだ。
もしかしたら、他の四人は違うかもしれない」
「―――」
「その可能性にかけて、再び彼女と接触し、四人と話してみるか。
それとも―――リリアーヌの仲間ということで、敵とみなすか……」
リーフェルトは瞳を瞬かせて、再び、レコーダーに目を落とす。
歩花は眼鏡の奥で恋人を映したまま、
「君は、どうしたい―――?」
そう、問いかけた。




