第17話 Incubus Night3
一人の人間による得物の一振りによって、
広い聖アイテール学院グラウンドに、ぐったりと意識を失い力なくしなだれる手下たち。
ほぼ全滅といっていいその惨状。
とても自分たちが勝てる勝負ではないと悟ると、ミリーは羽を広げ、
グラウンドとは逆方向を向いて逃亡を図る。
「―――!」
屋上の塔屋には、聖書を片手に立つ陽人の姿。
見開いた目にはっきり戸惑いの色を滲ませたミリーに、
今までかつてないほど、陽人は表情はたちまち冷ややかなものとなっていく。
「逃げんのかよ―――?」
「……チッ」
「人の人生狂わせようとして。人質取って。
ここまで人巻き込んどいて、そりゃあねえだろ」
そこで、陽人の頭の中に歩花の意識が寄せられた。
<双子から、エイベル・ウェインを確保したと情報が入りました。
田井村君、駿介さん、お疲れ様です。駿介さんの婚約者も、無事救出したそうです>
(そうか―――)
小夜にはリーフェルトがついているし、左一たちもそこへ向かったというから心配はもうない。
陽人は聖書を開いて敵を見上げ、彼と対峙する。
「けじめ、つけろよ。きっちりな……!」
淡い光を身に纏い、陽人は静かながら、強い意志の籠もった声でミリーに言った。
聖アイテール学院校内。
手下だけに任せず自らも木塚小夜を探していたシュガーは、
ようやく二階廊下の途中で眠っている彼女を発見し、「見ぃつけたぁ!」と叫ぶ。
彼は肩で息をしながら、誰もその場に見えないのをいいことに小夜に触れようとしたが、
突如眼前に現れた狐火に、慌てて足をとめ、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「コフィ君だったかな」
「……っ」
名前を呼ばれ、どきりと背後を振り返ったシュガーの目に、
狐を肩に乗せた長身の男が映り込む。
「初めまして。弟子たちがいつもお世話になっているようで」
妻の能力で消火器に見せかけ身を潜めていた二階堂左一が、
ニッコリとシュガーに対し友好的な笑顔を張り付ける。
彼の目にも、陽人が付けているものとはデザイン違いの夢魔の眼鏡が付けられている。
社交辞令の挨拶をしてきたその男は、
間違いなくグラウンドで自分たちの手下を全滅させた奴と同一だった。が―――。
そいつの手に、仲間たちを一振りで吹っ飛ばしたあの羽団扇が握られていないのを見て、
安堵したシュガーはいつもの調子で口を開いた。
「……何? おじさん。笹永の知り合い??」
「そうだね」
「ふぅん。わざわざここまでやってきて、暇だねぇ。
こんな時間に、お仕事でお疲れじゃないの? それともおじさん無職??」
「退魔師だからね。
テメェみてぇに調子ぶっこいてヒトサマに悪さする奴らに仕置きするのがおじさんの仕事です。
でも君はまだクソガキだから、大人しく捕まってくれるなら、今ならゲンコツで済ませてあげよう」
「……はァ? ちょっと歳食ってるだけで何ガキ扱いしてくれてンの?
しかもたかが人間に―――」
シュガーが喋り終える前に、左一はガントレットに包まれた拳を握り締め、
彼に向かってパンチを繰り出す。
不意討ちの攻撃をなんとか避けるも、
容赦ない拳のラッシュに、焦った声を上げてシュガーは逃げ惑う。
「ちょ、ちょっ……」
追いつめられるあまり窓と窓の間の壁に背をつけてしまい、
顔面向かって飛んできた正拳突きをしゃがんで躱せば、
頭上から日常では決して聞くことのない派手な音が降ってきた。
「……―――」
左一の肩に乗っている狐の、「あらあら」というマイペースな声が続いて降ってくるが、
それは彼の耳には入らなかった。
しゃがみこんだ姿勢で顔を上げたシュガーの瞳に一番に飛び込んできたのは、ひび割れた壁。
自分の顔が先程あった場所に、くっきりとした大きなくぼみが刻まれていたのだから。
「避けちゃ駄目だろう、君」
「……待って……アンタ、頭おかしい!」
“ゲンコツ”って一体なんだった。
“ゲンコツ”の基準は何だ。
彼が想像するそれとは遥かに威力が桁違いすぎて、
左一と距離を取るように開いた両手を前に出し、シュガーは真っ青な顔で立ち上がる。
どう見ても、殺る気満々だとしか―――。
「テメエに言われたくねえよ、人さらいが」
「い、いや、人さらいじゃないです。
ただその、ボクたち、友達の駆け落ちを応援しようと思っ―――あぁあぁぁあああっ!!」
鬼の祝福を受けた、ガントレットに付属した赤い魔石を輝かせ、
再び飛んできた左一の拳に悲鳴を上げて一旦逃げ出すシュガー。
「クソッ、調子に乗って……!」
羽を広げて振り返りながら目を緋色にして手を翳し、麻酔針を作り出す。
成熟したインキュバスである彼が作り出したその数は、半人前の歩花が一度に出せる限界数を遥かに上回る。
ヴァンパイアの双子たちには、塵化への変身能力によって手下たちは一本も当てられなかった。
しかし、人間相手なら逃げられまい。加えてこの距離だ。
それに対し左一は腰から緑の魔石の付いたマズルのような装備を取り出し、
狐の妻の、前に出た鼻先にそれをあてがう。
直後。彼の妻、茜のマズルの先から虹色の気体が勢いよく噴き出した。
(ただの目くらましかよ!)
「無駄だよぉ! そんなことしたって!」
二人の姿が覆われるほどの濃い気体だが、どうやってこの狭いスペースの中、この無数の麻酔針から逃れられると思っているのか。
シュガーは嘲笑い、麻酔針を放つ。
インキュバス自慢の、成熟した夢魔の魔力そのものを形にしたそれらは、
一斉に気体の中へ飛び込んでいった。
そして、その気体の向こう側にいるあの男の身体に麻酔針が―――とほくそ笑んだ瞬間。
虹色の気体は急激に渦を巻き。綺麗に茜のマズルの中へ収まってしまった。
「……」
目を瞬かせ。シュガーは暫し、何が起こったのかわからないと言いたげにきょとんとする。
自分が放ったはずの麻酔針さえ、そこには無い。
左一の身体の中に馴染んで溶けてしまったのだろうと考えたが、
目の前の男はちゃんと瞼を開いていて、まどろんでいる様子は一切ない。
「……えっ?」
頭上にクエスチョンマークを飛ばして、ただただ惑う。
左一は妻からマズルを外し、よしよしと彼女の喉を撫でる。
ぺろり。長い舌を出して、茜は満足そうに舌なめずりをした。
「モフモフになったな」
「モフモフですか?」
「帰ったらブラッシングしような」
「うふふふ♡」
ハートを飛ばしてイチャイチャしだした奇妙な夫婦を凝視して、未だシュガーは唖然とする。
魔力のみで作られた飛び道具などからその形を奪い、吸収して彼女の魔力に変換することができる。
それがマズルの効果。オオガマの祝福を受けた、茜専用の退魔道具だ。
「えっ……えっ? はぁっ??」
「よし。じゃあ女房も若返ったことだし、とっととあいつ絞めて帰るか!」
「ありがとうございます。ご馳走様でした」
「wha―――はいいぃいいいっ!?」
―――そんなはずではなかったのに!!
「こ、のっ」
再度瞳を赤く輝かせ、走ってくる左一に幻覚をかけるシュガー。
それでも左一は物怖じすることなく特攻し、幻覚の奥にあるシュガーの胸倉を引っ掴もうと無造作に手を伸ばした。
シュガーは「ひっ」と怯んだ声を上げつつ避けて、咄嗟に麻酔針を作りあげて飛ばし、
それを左一が妻の頭を軽く抑え低くしゃがんで回避したのをいいことに、脱兎のごとく背を向け逃げ出した。
今度は一時的なものではない。本気の逃走だった。
両腕を必死に振り、階段に辿り着こうというとき。
角に潜み動いた人影に気付いて、自分に振り下ろされたゴルフクラブから飛びのき逃げる。
「―――っ」
暗闇から、じりじりとにじり寄ってくるのは小夜の父親。
シュガーは意識干渉の力を使い、
三階に続く階段にモップを持った田井村。
一階に続く階段に柄の長いホウキを持った駿介が潜んでいることを読む。
「フン……普通の人間まで、こんなとこまでしゃしゃり出て、さ……!」
鼻で笑って、自分をナメてかかっている人間たちに、
シュガーはどんな幻覚を見せてやろうかといやらしい顔で企む。
「あははァ♡ ばぁーか!!
それってさぁ。身の程知らずっていうん―――」
高らかに嘲笑ったシュガーの科白が、そこで止まった。
何者かに腕ごと、上半身を背後からがっちりと抱きしめられる感覚に身体の動きを封じられ、
シュガーはあれ、といった顔になった。
「んー……んんん―――」
カラスの姿になり外で待機していたリーフェルトが、あらかじめバレない程度に開けられていた窓の隙間から塵化し、シュガーの背後に忍び寄っていた。
黒いウィッグ。狐の札で自分の羽を見せかけだけ偽り、
念の為シュガーの背中で顔を隠しつつ、少しずつその細い両腕に、常識はずれな力を込めていく。
みし、みし、と軋み始めた自分の上半身に、嫌な予感がして必死に身体を捩るシュガーに構わず、
気絶させるだけという難しい加減と戦いながら、敵の身体を徐々に締め付けていった。
「待、待っ……」
人間とそう変わらぬ脆いインキュバスの身体が、成熟したヴァンパイアの腕力に耐えきれるはずもなく。
痛みと耐久の一線を遂に超えてしまった身体から、シュガーが一番聞きたくなかった音がごきりと響き渡った。
<もういい。グッジョブだ>
白目を剥いてぐったりした敵の様子に、
左一たちの意識を使い現状を把握していた歩花からOKを出され、ふうー、とリーフェルトは息を吐く。
<ケヴィン>
<はいはァ~い>
それまで物陰に隠れ、ミリーたちの悪行を記録していたセノフォンテの家のメイド、ケヴィンが歩花の呼びかけに応えて現れる。
「しーばりーまーしょぉねーぇ♪」
校内の廊下に降ろされたシュガーの身体に、ケヴィンは楽しそうにツインテールを揺らして縄を巻き付ける。
その後ろで、リーフェルトと田井村がぱしんと音をたて、互いの右掌を叩き合った。
<記録は?>
<ばっちりですぅ。皆さんの顔が割れないように上手に撮れてますよ>
<よし。あとは陽人に任せる。……リーフェルト>
<? はい>
<あの。……そっ―――>
<……?>
<……君は猫の姿になって。メロンと一緒に私の周囲を見張ってくれ>
本当はもう少し可愛らしく、『傍にいてほしいの』なんて言えれば良かったのだが。
流石のハードルの高さに、つい歩花の口調は事務的な物言いになってしまう。
それでもリーフェルトは「うん」と素直に返事をして、まっすぐ恋人の元へ向かった。




