第18話 Incubus Night4
小学校の、何年だったか。
給食後の休憩の時。
誰もいない教室にいつものように一人でいると、珍しく声をかけてきた女子がいた。
『ねえ』
『な、なに……?』
『小夜ちゃんのこと好きでしょ』
『……!?』
『幼稚園の頃から、ずっと見てるでしょ。知ってるよ』
それまで、何を話していたのかは覚えていない。
本当に他愛のない話の中で、そう唐突に聞かれて声が出なかったことだけは、強烈に覚えているけれど。
『ふーん。やっぱりそうなんだ。別にどうだっていーけど』
『……っ、あっ……』
『誰にも言わないよ。言ったじゃん、別にどうだっていーって。聞いただけだし』
話したことはないけれど、女子の顔はよく知っている。
自分が今まで見つめてきた子と、いつも一緒にいるから。
(……絶対、嘘だ)
言わないからと言って、結局この子も自分を笑いものにするんだ。
それだけじゃない。もしかしたら、彼女にも言いふらしてしまうかもしれない。
それを思うと、足元がガラガラと崩れて、奈落の底へ落ちていくような感覚を覚える。
そうしたら、気持ち悪いなんて言われて。
嫌そうな目で、彼女は自分を見るに違いない。
その視線を想像したら、いてもたってもいられなくなる。
恥ずかしくて、みじめで、俯いたまま椅子から立ち上がり、教室から逃げ出した。
その日。午後の授業が怖かった。
休憩時間の終わりが近づくほど、教室に戻った自分をみんなが顔を突き合わせ、クスクスと笑う光景が頭に浮かんで離れない。
悶々としているうち―――気づけばランドセルも持たず、家の前に立っていた。
しまったと思いはしたが、もうどうでもよくなって、家の鍵を開ける。
どうせ学校に戻っても、碌なことがないのはわかっている。
誰もいない、静かな家の中。
先生に怒られはしても、両親から怒られることはない。
二人は、自分のことなんてどうでもいいんだから。
二階に上がり、自分の部屋のベッドに潜って不貞寝した。
『さーさなーがくーん』
明日学校はどうしようだの、宿題はどうしようだの。
眠れもせずぐるぐると布団の中で悩んでいる自分の耳に誰かが叫ぶ声が微かに届く。
『笹永陽人くーん! ランドセルー』
次いで聞こえたチャイムの音。その後も聞こえる女子の叫び声。
部屋からカーテンを開けてそっと外の様子を覗けば、
自分のものらしい黒いランドセルを片手に持った女子が一人そこに立っていた。
しかも、昼休みに声をかけてきたあの女子だった。
からかいに来たのだろうか。
いや。それでも、わざわざ届けに来てくれたということは、そんなに悪い人じゃないのかもしれない。
半信半疑。
何を言われるだろうとドキドキしながら、一階に降りてゆっくり、玄関を開けてみる。
『ばぁか』
予期せず、顔面に向かって飛んできたランドセルとの痛烈なキス。
『誰にも言わないって言ったじゃん。学校終わってないのに、何帰ってんのよアンタ』
重さと衝撃に耐えられず尻餅をついた自分に、女子は不機嫌に吐き捨てた。
どんなイメージや幻覚を送りつけても、揺らぐことを知らない陽人の強い双眸。
魔力で作り出した強力な麻酔針を放つミリーに、
それに対して片手を翳し、聖の力を固めてそれを具現化させ、防壁を作り出す陽人。
普段でさえ精神攻撃に屈しない陽人にとって、真っ向勝負となり不意を突けない夢魔など脅威ではなかった。
『なんでそんなに自分に自信がないんだ』
戦闘中。“彼”になった少女が、かつて自分に言った言葉が蘇る。
『今まで小夜のことを好きだって奴は何人かいたけど、たまたま彼女と一緒にいて襲われたとき、みんな小夜を置いて逃げていった。
だけど君は違う。本当に大切な人のために戦える人だ。
もっと自分に自信を持て。君は強い人なんだから』
幼稚園の頃自分を庇ってくれた小夜の笑顔の次に、生涯忘れることのない思い出。
嬉しかった。あの時生まれて初めて、認められたことが。
なによりも。自分が想い続けてきた人をずっと守ってきた人に、強いと言ってもらえたことが。
(だから、認めてもらいたかったんだ―――あいつに)
一番近くで、自分の成長を見届けてほしい。
相棒として彼女と一緒に戦える自分が、誇りだったのだ。
陽人の手によって放たれる、白い札の巻かれたボウガン。更にミリーが逃げる方向を読んでダーツを投げる。
狗の妖怪の祝福を受けた三本の凶器の嗅覚が、ミリーがさっき全身に浴びた強い聖水の匂いを頼りにどこまでも追いかけ、ミリーがなるべく遠くにいかないように誘導する。
(だけど、もういい―――)
もういいのだ。自分の背中を、見てもらえなくても。
自分はもう、一人で立っていられる。立ち上がれる。
歩いて、走って、戦っていける。
背中を向け合ったままでいい。
もう、長い付き合いなのだ。
(振り返らなくたって、そこにあるんだ。どこにいたって、あいつの背中が)
どれだけ遠く離れたって手に取るように、互いがわかるはずだから。
それが、パートナーということ。今の自分なら理解できる。
敵がボウガンに翻弄されている間に、聖書のページがゆっくりと数十枚ひらりと宙を舞い踊り、屋上の四方に張り付く。
ミリーが気付いたころには既に遅く、屋上には結界が張られ、逃げられない状態になっていた。
暫く限られた空間の中、逃げ回ることしかできずにいたミリーは息を切らしながらも、
それならばと、結界を作っている聖書のページを背にして、
自分目掛けて飛んでくる凶器と向き合った。
ギリギリのところでミリーが羽を使い上昇したことでボウガンが聖書のページを貫く―――。
(……大丈夫)
否。貫いたように見えた―――が。
ボウガンと二本のダーツの勢いにも関わらず、聖書は傷一つつくことなく破れることはなかった。
結界も少しの歪みも見せることなく、自分たちを覆ったまま。
もう、大丈夫。
今の自分も。
認めてほしいと泣きじゃくっていた、心の中の幼い自分も。
「これで。簡単に捕まえられる―――」
聖の力を十分に練りこんだ結界が更に強い光を宿し、
ドーム状の形を保ちながら、じりじりとミリーを中心に狭まっていく。
陽人がその空間の外に出ても光の壁は止まることなく、
獲物を逃がさぬよう、人外なる者を遂に閉じ込めてしまった。
「……ミリー・バークス」
籠の中の鳥のように自由を封じられたミリーをまっすぐ見上げ、陽人は彼の名を口にした。
「俺はお前をどうしようか、ずっと迷ってた」
言葉が通じるなら、できる限り話し合いを。
和解ができるなら、できる限りの和解を。
そうどこかで願っていたけれど。
彼が今回起こした騒動は、人一人犠牲にならなかったとはいえ、それだけで済ませるには大事だった。
「殺しはしない。お前を封印することもしない。
だけどやっぱ、このままじゃ駄目だ」
光を帯びて、バラバラと陽人の手を借りることなく捲られていく聖書。
陽人が空いた手をミリーに向ければ、ミリーの身体に光の鎖が現れる。
手を横に切る動作をすれば、鎖は身体を締め付けて羽の形状を歪めて弾き飛ばし、
そのまま彼の身体の中へ馴染んでいった。
「今日から二年間、力だけを封印する。
卒業まで背負って生きてみろ。誰の心も操れない、ただの無力な人間としてな」
聖書が閉じられる音と共に、ミリーを閉じ込めていた光の籠が消え失せる。
「俺も、背負ってやる。
……お前がこの先不自由を感じるたびに湧き上がる、俺ヘの恨みをな」
そう言って陽人は、聖書を収めた。
「……理解できねえな」
小声で呟かれたミリーの言葉に、
陽人は踵を返し、屋上にへたり込み座る彼を再び見下ろす。
「たった、一人だろ?」
「……?」
「たった一人のために。百年も生きられねえくせして、何をそんなに必死になるんだ? 人間ってのは。
しかもあの木塚って女、お前のじゃねえんだろうが。なんの見返りもねえってのに、ご苦労なこったな」
「マジめんどくせぇ」と、ミリーは吐き捨てた。
「お前だけじゃねえ。
他の奴に口説かれただの、口説いただの。他の奴を抱いただの、抱かれただの。ピーピー騒いでよ。
短い寿命なら見苦しく執着なんてせず、楽しくやりゃあいいじゃねえか」
「……俺は別に、その場限り楽しく生きることが間違ってるとまでは言わねえよ。
そういう人間だって、世の中には沢山いるだろうしな」
退魔師なんて仕事をしていると、彼のような連中に馬鹿にされることに嫌でも慣れる。
こういった答えを返すのも、いつものことだ。
人間同士でもそういった考えの違いで争いが起こるときがあるのだから、
人間と魔なんて別種族同士、今夜のような事件が起きたってなにも不思議なことじゃないのだろうなと、改めて考えさせられる。
「でも、短い寿命だからこそ、指で数えられるだけの確かな心の拠り所が必要になる奴だっている。
“人は、一人を守り通すには脆すぎるし、全てを守りきるには時間が短すぎる”からな。
……ってのは、他人の受け売りだけど。だからこそ、人間は身の程知らずで欲深いんだとよ」
「フン……じゃあお前にも、欲ってモンがあんのかよ?」
「まーな」
てっきり聖人ヅラをして否定してくる。
そう思っていたミリーの予想を裏切って、陽人はあっさり肯定してしまった。
悪魔祓いなんて仕事をしているから、てっきり正義ぶったことしか言わないのだろうと馬鹿にしていたのに、
それが外れてミリーは変な顔になった。
陽人は肩を竦めて、そんな敵に苦笑する。
「まあ。ある意味、お前のおかげかもな」
「……? あ??」
「今なら欲深い人間らしく、“あいつ”ができないことを本気でやってやろう。ってな。
なんか、腹くくれた気がするし。誰にも負けたくねえって思っちまったよ。
……馬鹿らしいことかもしれないけど。
自分のために感情さらけ出してくれる人がいるってのも、案外悪くないモンだって、俺は思うよ」
笑ってミリーに背を向けて、陽人は屋上を後にした。
そうだ。もう、充分。自分は“見て”もらえたのだろう。
見返りなく小夜の傍にい続け守ってきた“憧れ”に、強さを認められた。
彼女の相棒として、小夜のために共に戦えた。
師に厳しく鍛えられ、いろんな魔と出会い、敵対し、時に心を通わせた。
そして。
自分のことなどどうでもいいと思っていた両親が、退魔師の戦いで深く傷ついた自分を見て、
生まれて初めて感情を剥き出しにして泣いてくれたことも。
『たった一人のために。
百年も生きられねえくせして、何をそんなに必死になるんだ?』
他の誰のためでもない、たった一人の自分のために、短い一生の中で本気になってくれる人たちがいる。
本気になれる人がいる。
ミリーたちのような存在の目にはどれだけ見苦しく映ろうとも、
少なくとも陽人は、それを何より幸せと思うのだ。
「お帰り」
グラウンドに出ると、各々の戦いを終え、自分を待っていた仲間たちが微笑みかける。
手下の夢魔たちの姿は、もう一人もない。
人の姿に戻った男子姿の歩花と笑い合い、
握りしめた自分と彼女の拳を、陽人は軽くぶつけ合わせた。
彼女は、自分にとって始まりだった。
彼女は、自分にとって憧れだった。
でももう、それだけでは嫌なのだ。
一人の人間として。男として。退魔師として。
自分は彼女にとって、一番のライバルでありたい。
そう。ここに来て、やっと―――一人の少女の笑顔を背負って生きたい。と。
陽人は澄み渡った神聖な気持ちで、強く願った。




