第30話 sweet winter(下)
一年生の終わりをただ、ゆったりと待つだけの冬の時期。
三月十四日、ホワイトデー。
ソファに腰を沈めて待つ恋人に、リーフェルトは緊張感しながら紅茶を淹れていた。
「歩花」
彼女の名前を呼んでこちらに注目させると、
そっと、テーブルの上に皿を置く。
そしてこれが、初めて自分だけの力による、歩花への手作りだった。
「……アップルパイ?」
「うん。お菓子作りは初めてだったけど、味見はちゃんとしたから」
「君がつくっ……たの……?」
「うん」
両手の指先で小さな唇を覆い、驚いている彼女に紅茶も差し出す。
「どうぞ」
「……う、うん。ありがとう」
「いただきます」と言って華奢な手でフォークを取り、
歩花は一口サイズに切ったそれを、口の中へ運んでいく。
「! 美味しい」
「本当?」
「うん。すごく美味しい」
「リンゴも生地も?」
「うん。……えっ、生地から??」
「うん」
「そ、そうか。すごいな……」
パイシートでも使ったのかと普通に思ってしまったくらいに良くできていて、
少し女子として複雑になる歩花。
彼女自身、アップルパイくらいは過去に何度か作ったことがあっても、
生地から作ったことは未だなかったのに。
フォークをもう二、三口進ませてから、「驚いた」と歩花は尚呟いて、紅茶を静かに傾ける。
「……本当に美味しい」
「よかった、口に合って」
「紅茶も、アップルパイによく合ってる」
「時間をかけて選んだんだ」
「いや、参った。リンゴの甘さが絶妙だな。レシピでも見たのか?」
「レシピを参考にはしたけど、その通りじゃないかな。味見をしながら調節したよ。
生地はレシピそのままだけどね」
リーフェルトも笑って肩を竦め、自分の分の紅茶を傾けた。
そんな時―――小さく笑って目を細めた歩花の瞳が、いつの間にか青く色づいていることに気付く。
「……歩花?」
「ん?」
「目が……」
「……ああ。たまにね。
美味しいものを食べながら、その上精神的な満足感を得るとこうなる時がある。
私の従兄曰く体調などによって、なる日もあればならない日もあるらしい。
言葉を失うほど美味しいものに巡り会った時、気付けば目が真っ赤になっていたなんてことも稀にあるんだって」
「……それって、美味しいものを食べて一人前に、ってこと?」
「セノがそうだったみたい。
その影響かは知らないけれど、見た目に寄らず大食漢だぞ」
「……へえ」
しばらく見ていないが、記憶の中の彼はすらりとした細身だった気がする。
どことなく品性が漂っていて、リーフェルトから見てもそういう風には見えなかったのに。
「そういう感じで、一般的に考えられている方法以外で一人前になった夢魔たちというのもいるそうだ」
「……どういうことなんだろう。強い満足感とか、そういうものが一人前に繋がるってことなのかな?」
「さあ。それは誰にもわからない。
夢魔の世界において、それを深く追究することは絶対に許されないことなんだとさ」
「……? 許されない??」
「そういう方法以外一人前になる方法はないと、夢魔たちに教え込むことが目的なんだろうとセノが言っていたよ。
彼らは自分たちで子孫を残すことができないから、その方が都合が良いんだろうとも。
だけど娯楽としてなら楽しいことも、仕事になってしまえば苦痛になる。
だからスポーツや食、芸術などに没頭することで本能を満たしている者も少なくないそうだ」
「そういえば夢魔の世界って、観光地としては有名なんだってね」
そういえば自分が今まで面白いと思って読んでいた書物の著者、
または感銘を受けた画家たちを調べてみると、夢魔だった―――なんてことに驚かされたことが何度もあった気がする。
夢魔の世界の食べ物はとても美味らしいとも、彼女は話していたし。
……行けばナンパや詐欺、勧誘の多さに閉口するという噂もあるが。
「ああ。しかしやはり、全体的に種族性が……ね」
「―――ああ、うん……」
「仲間とはいえ、そんな種族性に息苦しさを感じる夢魔たちも段々増えてきていて、
他の世界に住み着きたがる者たちが今では後を絶たない。
そのせいで今、夢魔の世界は少子化にあえいでいるらしい。……君の世界とは正反対だな」
「……」
少子化―――という言葉に、リーフェルトの胸が少しざわつく。
だから夢魔たちは、生殖機能を持つサキュバスを求めるのだろうか。
愛してもいないのに。
複雑な自分の瞳の中。歩花はそんな彼の気持ちを知らぬまま、
ぺろりと皿の上のアップルパイを完食する。
最後に紅茶で喉を潤してから、短い溜め息を吐き出した。
「食で本能を満たすのは、結構なんだけどね。
だけどうちに遊びに来るたび買い溜めしていたポテチを無断で食べつくすのは本当にやめてほしい」
「……セノさんのこと?」
「そう。期間限定ものまでなにもかも。全部だぞ? 全部。
金でなんとかなるものじゃないんだぞ、期間限定ものだけは!」
「あはは」
愚痴る彼女に合わせて、軽く笑ってみせるけれど。
リーフェルトはすぐに切なくなって、
空になったティーカップを、ソーサーの上に静かに置いた。
「……歩花」
「ん?」
「ハグしよう?」
歩花が紅茶を飲み終えるのをじっと待ってから、彼女の隣に移動してニッコリ笑う。
すぐに抱きしめなかったのは、歩花の境遇を思って悲しくなったことを匂わせないために。
「……うん」
頬を赤らめながらも自分をあっさり受け入れた彼女は、温かくて柔らかい。
小ささもふかふかした抱き心地もくびれた腰も、すべてが正に女の子といった感触で愛しくなる。
甘い甘い匂い。
時間差で、いつもクールな彼女がおずおずと遠慮がちに抱きしめ返してくるのを二の腕で感じて、
リーフェルトの胸の奥が大きく跳ねた。
「……リーフェルト」
「……う、うん」
「あ……」
「……」
「……あの」
「……うん」
自分の肩に顔を埋めているので、彼女の表情はわからない。
ただ。何かを言おうとしていることだけはわかるので、優しく相槌を打って、根気強く待ってやる。
「あの……」
「……うん」
「……えっと」
「……うん」
「……あ―――」
「……」
「……すきです」
「……―――」
思いがけなくて、一瞬思考停止する。
一方歩花はリーフェルトの身体で顔を隠しながら、突然声を荒げだした。
「……笑えよ!」
「!? 何が……!?」
「らしくないと笑えばいい! 今すぐ僕を殺せよ!!」
「落ち着いて歩花!!」
寧ろ幸せで衝動的に叫びたかったのは自分の方だったのだが、彼女の命の方が大切だ。
歩花はリーフェルトの身体で顔を隠したまま弱々しい声で、
「……自分から、慣れないことは言うものじゃないな……」
「……じゃあ、もう言ってくれないのかい?」
「……」
「僕はすごく嬉しかったのに」
「……とっ―――」
「……?」
「時々なら、言おう。……頑張る」
声だけ聞くと、むすっとはしているが。
顔が無性に見たくて身体を離そうと肩に手を置いても、
恥ずかしいのか歩花は、頑なに自分の腕にしがみつき、自分の胸から顔を離そうとしない。
髪の隙間から見える、リンゴのように熟れた耳がなんとも可愛らしくて笑みが零れた。
「顔が見たいよ」
「……」
「歩花」
「……んん」
「お願い」
そう囁いて、
ようやくリーフェルトは、自分の身体から彼女の額を剥がすことに成功した。
顔を覗き込み、歩花の顔を窺うも、
歩花は一度は顔を上げてはくれたものの、すぐに目を泳がせてしまう。
まるで自分と目を合わせないようにしているみたいに。
「……恥ずかしい?」
「……まったくといって、落ち着かない」
女性特有の、丸みを帯びた輪郭を指先でなぞる。
艶やかな髪がかかったこめかみから、頬、顎。
果てに自然とリーフェルトの目を奪ったのは、ぷく、と美味しそうに膨らんだ、血色の良い唇。
意識した途端に、鼓動がうるさくなった。
「……っ」
無意識に生唾を呑み込み、親指でその形をなぞれば、ぴくんと歩花が反応して顎を引く。
予感に、また彼女の頬が赤くなっていく。
……初めてなのだ。自分も、彼女も。
(どんな味がするんだろう―――)
一度気になれば、もう止まらない。
その味を知りたいと思えば思うほどに、自分の唇が渇いていく。
潤いが欲しい。
温もりが欲しい。
彼女の熱に、飢えている。
渇望に身を委ねて自分の唇を寄せれば、まず先に、動揺しきった歩花の瞳と目が合った。
頬に触れている方ではない、彼女の肩に触れているもう片方の自分の手から、歩花の身体が緊張に強張ったのが伝わったが、
リーフェルトの腕に触れていた彼女の手は離れるどころか、彼の袖を強く握り締めた。
「あっ……待っ―――」
「……」
触れる寸前。
思いがけず自分と歩花の唇の間に割り込んだ華奢な手に、きょとんと目を丸くするリーフェルト。
歩花は頬を染めたまま真剣な顔をして、まっすぐリーフェルトを見据えながら
「息って、止める?」
「……うん?? 普通にしていいと思うけど。じゃなきゃ、苦しいでしょ?」
「う、うん、わかった! ……ちょっと、待ってて」
両手を胸元で組み。俯いて一つ大きく、深呼吸。
「よ、よし。来い」
「……」
―――目を閉じて、じっと大人しく自分からの口付けを待っている、この愛らしさよ。
胸が痛いほどに甘く締め付けられて、どうしようもないほどに今、彼女に心奪われている。
柔らかな頬に両手を添え、上がりきっていない小さな顔を少しだけ持ち上げれば、
「ん」と、結ばれた紅から漏れる声。
その音色に誘われるまま、
リーフェルトは歩花の唇に、自分のそれを静かに重ねた。
(……甘い)
アップルパイの味だろうか。
それにしては、やけに甘ったるい。
歩花の感触は、ふわふわしていた。想像していたよりも、ずっと。
……押し付けた唇だけは彼女と離れた後も、蕩けるほどの優しい感触に満たされているのに。
距離を取れば取るほど、緊張で鈍く遠く聞こえていた心臓の音は落ち着きなく早鐘を打ち鳴らし、頬や身体も、灼熱に当てられたように一気に熱くなった。
(……やってしまった―――!!)
無論後悔はまったくないが、浮かれるあまり興奮したリーフェルトの頭の中を、その科白だけが駆け巡る。
歩花の方は歩花の方で、すぐさま顔を伏せるなり彼の身体に頭突きを繰り返し身悶えた。
「私で良かった……? 君、初めてだったのに」
ソファの上でリーフェルトと肩を寄せ合い、凭れ合いながら、歩花は静かに彼に問う。
「今更、そんなこと言わないで」
「……そうだけど」
「君の方こそ、良かった? こんな僕が初めてで」
「嫌なら、もう帰ってる」
彼女の言葉に、「それもそうだ」と苦笑する。
自分より歩花のほうがまだずっと強いのだから、逃げる方法はいくらでもあるのだろう。
「春休みが明ければ、クラス替えだな」
「……うん」
「……離れても―――」
「……うん?」
「……」
「……」
途中で言葉を止めてしまった彼女を、不思議に思ってその横顔を見たが。
再び歩花は少し息を吸ってから、
「君が望むなら。私はいつでも会いに行こう」
「……うん―――」
恥ずかしがりやな彼女なりの、精一杯の愛情を胸に感じて。
肩にのしかかっている重みや温もりに、うっとりとリーフェルトは瞳を閉じる。
また、一緒のクラスが良いけれど。
離れてしまってもお互いが安心できるよう、大丈夫だと思えるように、自分も彼女に会いに行こう。
そう胸の内で強く決意し、
リーフェルトは、ソファの上に置かれた小さな手の甲に、自分の手を重ねて握り締めた。
一年生はこれで終了




