声
少女は、何度も水のところへ来た。
寝床の重さが減り、袋の底が動く。やがて足が、小さな穴の方へ少しだけ進む。
外の様子を見ているのだろう。
すぐ戻る日もあれば、しばらく出ている日もあった。
出た時は、分からなくなる。
床から最後の足が離れる。
それで彼女はいなくなる。
俺の中では。
外では歩いているのだろうし、何かを探しているのかもしれない。
でも俺には、戻ってくるまで何も分からなかった。
待つ時間ができた。
虫が来るのを待っていた時とは、全然違った。
その日も少女は穴から戻り、奥へ座った。
袋が床に触れる。
以前より少し重い。
何かを持ってきたらしい。
彼女は長い時間、細かな作業をしていた。
柔らかいものを床に置き、指で分けている。
途中で何度か手が止まった。
足のそばへ布を寄せては休み、また作業を続ける。
独り言くらい、言っているのかもしれない。
俺なら言う。
うまくいかない時ほど、相手のいない文句が増える。
けれど、床や壁へ届く細かな震えから言葉は拾えなかった。
彼女が何を考えているのかも分からない。
同じ部屋にいる。
それなのに、話しかける前の距離がいつまでも縮まらなかった。
それ、何してるんだ。
声にならない問いが浮かんだ。
袋のそばでは、指の細かな作業が続いている。
当然、返事はない。
俺は床の石を動かすことにした。
何のために、と聞かれたら困る。
ただ、一度くらい気づいてほしかった。
怖がらせたくない。
でも、ずっと黙っているのも嫌だった。
少女が触れていない場所。
水の少し手前。
そこに、軽い石がある。
その下の床を、少しずつ持ち上げた。
やり方は前より分かる。
でも、速くはない。
しばらくして石が傾いた。
底が床をこする。
少女が動きを止めた。
気づいた。
俺はもう一度動かそうとした。
少女が立ち上がった。
袋を引き寄せる。
壁から離れる。
穴に近い方へ身体を移した。
違う。
そうじゃない。
俺は動かすのをやめた。
少女はしばらく、石へ近づかなかった。
やがて硬い先が、何度も石のそばへ触れた。
枝か何かで、離れたところから床をつついているらしい。
確かめている。
崩れると思ったのか。
何かが下にいると思ったのか。
説明できないので、分からないままだった。
石を一度動かせば、返事は一度。
二度なら、二度。
そんな方法を考えていた。
それ以前の問題だった。
最初から、ここに話したい誰かがいるとは思っていない。
動く床は、ただ危ない床だった。
俺はしばらく何もしなかった。
また、仕事のやり方を思い出した。
機械が鳴った時、それを言葉だとは思わない。
異常音なら、まず止める。
中に人がいるなんて考えない。
彼女から見た俺も、そうなのだろう。
壁だ。
壁から相談を持ちかけられると思って暮らしている人は、普通いない。
それなのに俺は、石を動かせば分かるだろうと考えた。
無理だろ。
水が落ちた。
少女はもう動きを止めなかった。
水のところまで行き、手を入れる。
知っていることは怖くない。
そこから始めればいいのかもしれない。
俺は水へ注意を向けた。
ここに水がある。
少女が顔を近づけているかは分からない。
ただ、手が水に触れている。
水そのものを動かしたわけではない。
冷たさを変えたわけでもない。
ただ、その水を強く意識した。
触れている指へ向けるように。
水。
ここ。
自分の中では、そういう言葉になる。
けれど、言葉を口にしたわけではない。
何も起きなかった。
手が離れた。
少女は奥へ戻った。
駄目だった。
次に来た時も、同じことをした。
また次も。
水。
ここ。
単語を聞かせようとしているわけではない。
そもそも、俺には発音する口がない。
そこにある冷たいもの。
彼女が何度も触れているもの。
その場所。
自分が何を示したいのか、それだけを意識した。
何日も、そうしていた。
少女の足の運びは、少しずつ変わった。
最初ほど引きずらなくなった。
外から柔らかいものを持ってきて、床へ重ねるようになった。
その上で眠る。
水に手を入れる。
袋のそばで何かをして、時々、穴へ戻る。
飲んだり食べたりしているのだろう。
彼女なりの暮らしができていた。
俺の知らない時間を過ごして、また戻る。
彼女には彼女のやることがある。
俺が返事を欲しいからといって、付き合わせることはできなかった。
だから、水へ来た時だけ試した。
そこにある水。
触れている場所。
それだけを意識する。
その日は、少女が手を引いた。
指が水に触れた直後だった。
身体が止まった。
俺も止まった。
何か変だったのか。
水が冷たすぎたとか。
虫がいたとか。
少女は、もう一度手を入れた。
俺はさっきと同じように、水を意識した。
彼女の指が止まった。
そして、水の縁を指が一度叩いた。
すぐに離れず、そこに留まっている。
何かを確かめようとしているのだろうか。
俺は嬉しくなった。
聞こえるか。
俺がいるんだ。
ずっと、ここに。
一気に伝えようとした。
少女が水から離れた。
床を強く踏み、袋のある方へ戻る。
また怖がらせた。
俺は自分に腹が立った。
やっと少し変わったら、すぐに全部やろうとする。
床を動かした時も同じだった。
やめろ。
一つずつ。
俺は水へ注意を戻した。
そこにあるもの。
それだけ。
少女は長い間、来なかった。
でも、ほかに水はない。
ずるいことをしている気がした。
俺は何かを伝えようとするのをやめた。
そのまま待った。
やがて少女が近づき、水をすくった。
何も起こさない。
彼女はもう一度、手を入れた。
それから、水の縁をまた叩いた。
指を置いたまま、待っている。
俺へ、だろうか。
そう思いたかっただけかもしれない。
でも俺は、今度は一つだけ返した。
水。
言葉ではなく、目の前にあるそのものだけを意識した。
その瞬間だった。
少女の手が止まった。
同じ場所が、もう一度叩かれた。
彼女はゆっくり指を動かした。
水の中。
床の上。
もう一度、水。
それに合わせて、俺も水だけを意識する。
何度か繰り返した。
水のない床へ指が来た時には、何もしなかった。
床を押す指の力が緩んだ。
彼女の言いたいことは分からない。
彼女が何を受け取ったのかも分からない。
冷たい、だったのか。
水、だったのか。
ここに何かいる、だったのか。
それでも、今度は逃げなかった。
俺は床に触れた、その指だけを感じていた。
水の冷たさは変わっていない。
それでも彼女は、指を置いて待っている。
通じたのか。
ほんの一部でも。
少女は一度、水へ手を入れずに床を叩いた。
俺は水を意識した。
彼女の指が、溝とは反対へ動く。
もう一度叩く。
また同じものを返した。
しばらくして、俺は気づいた。
同じことばかり返している。
彼女は別のことを確かめているのかもしれない。
俺が水そのものなのか。
水に触れると何かが起きるだけなのか。
それとも、別の何かなのか。
俺は水を意識するのをやめた。
代わりに、彼女の指が触れている場所だけへ意識を集めた。
ここ。
俺の中では、そういう意味だった。
指が止まった。
少し離れた床を、また叩く。
俺は、その場所へ意識を移した。
ここ。
今度は手が離れた。
少女はしばらく動かなかった。
俺も何もしなかった。
やがて、水へ手が戻った。
さっきと同じ場所。
でも、さっきまでとは違うことを一つ知っている。
水だけではない。
それくらいは、伝わったのかもしれない。
その後、俺は調子に乗って、水のそばを離れた彼女にも呼びかけてみた。
少女は寝床の方にいた。
そこへ意識を向ける。
反応はなかった。
距離なのか。
手が触れていないからなのか。
何度も続けそうになって、やめた。
寝ようとしている人間へ、用もないのに何か送り続けるのは嫌だろう。
仕事の通知が休みの日まで来るのを思い出した。
緊急でもないのに、見たかどうかを確認される。
俺が今やっているのは、それに近いのかもしれない。
通じたことが嬉しくて、相手にも都合があることを忘れていた。
俺は水のそばへ注意を戻した。
向こうから手を置く時を待とう。
何か困っていたら、またあの指で床を叩いてくれるかもしれない。
俺も、それに返せばいい。
次の日、少女が穴へ向かっても、呼び止めなかった。
昨日、寝床では反応がなかった。
距離なのか。
触れ方なのか。
相手がこちらを気にしているかどうかなのか。
まだ区別できない。
分かったつもりになって試し続ければ、また怖がらせる。
彼女が戻ってきてからも、勝手にはやらなかった。
待った。
水をすくい終えた少女が、床へ指を置く。
指先が一度、床を押した。
そこで俺は、その場所へ意識を向けた。
ここ。
少女の指が軽く動いた。
床を二度叩く。
俺は、そこに意識を置いた。
ここ。
もう一度、叩かれた。
嬉しかった。
床を叩かれるのが嬉しい日が来るとは思わなかった。
痛くはない。
ほんの小さな振動だ。
でも、他の誰かが俺に返した動きだった。
しばらく、同じやり取りを続けた。
水。
ここ。
俺の中で言葉にすれば、それだけだった。
少女へ同じ言葉が届いているかは分からない。
少し欲張って、水はここにある、とまとめて伝えようとすると、反応がなくなった。
指が離れたところで、俺もやめた。
怖いのか。
分からないだけなのか。
俺には確かめられない。
だから短くした。
一度に一つ。
それから、待つ。
今まで俺は、返事のないところへ言葉を投げていた。
今は、返事を待っている。
同じ沈黙でも、少し違った。
次に伝わったらしいのは、もっと切迫したものだった。
少女が、水の抜ける割れ目へ指を入れかけた時だ。
そこは細い。
少し引っかかるところもある。
俺は反射的に止めようとした。
やめろ。
危ない。
俺の中では、そういう言葉になった。
けれど、彼女へ何が届いたのかは分からない。
ただ、そこへ触れてほしくない。
手を引いてほしい。
その意図だけを強く向けた。
少女が指を止めた。
ゆっくり引く。
それから、床へ触れた手を二度動かし、そのまま待った。
何か返してほしいのだろうか。
俺には分からなかった。
分かりたくて、壁全体へ力を入れそうになった。
でも、それで通じるわけではない。
俺は水の場所だけを意識した。
少女はそこへ戻った。
それで、その日は終わった。
会話とは呼べない。
俺は彼女の名前を知らなかった。
どうしてここへ来たのかも、どこが痛むのかも。
彼女も、俺が誰なのか知らない。
水の場所を教えてくる、変な何か。
せいぜい、そのくらいだろう。
でも彼女は、寝る前に床へ手をついた。
手のひらが、軽く床を押した。
挨拶のつもりなのか。
何か確かめたいのか。
分からない。
俺は、その手が触れている場所へ意識を向けた。
ここ。
俺の中では、それが一番近い。
水ではなく、彼女の手のあるところ。
そこへ意識を置いた。
手が、すぐには離れなかった。
俺は、その返事を待った。
やがて指が二度、床を叩いた。
小さな振動だった。
俺がずっと出せなかった声の代わりに、それが部屋の中に残った。




