魔族の少女
人が、俺の床に伏せていた。
さっきまで欲しかった重さなのに、実際にそこにあると、何をすればいいのか分からなかった。
声をかけたい。
大丈夫か。
怪我してるのか。
ここは、多分危なくない。
多分、という言葉は余計だ。
俺はどれも言えなかった。
小柄なその人は、しばらく動かなかった。
床に触れた腕が小さく震えている。布越しの圧力には、呼吸らしい繰り返しがあった。
よかった。
そう思うたび、よくはないだろと自分で思った。
小さな手と、細い腕。
俺の頭には少女の姿が浮かんでいた。
けれど、それは勝手に思い描いた姿だ。年齢も、どんな人なのかも、まだ知らない。
濡れた布が冷えていく。
小さな穴から吹き込む空気は、さっきより冷たかった。
穴の近くへ来ていた水が減ったせいだろうか。
外のことは分からない。
穴の縁へ、細かな振動が届いた。
地面を踏む揺れの間に、短く続く震えが混じる。
人が話しているのかもしれない。
声の高さも、言葉の区切りも分からなかった。
その震えが続く間に、床の少女が動いた。
彼女には、俺に分からないものが聞こえたのだろうか。
腕をつき、身体を起こした。
すぐには立たない。
穴から離れるように、奥へ寄ってくる。
手が床を探っていた。
暗いのだろう。
俺には最初から何も見えない。
だから、ここが人にとってどれくらい暗い場所なのか、考えていなかった。
足元は平らではない。
水の溝もある。
危ない。
そう思った時には、指が浅い溝へ落ちた。
指が急に止まる。
水に触れたらしい。
一度手を引き、それからもう一度、慎重に指を入れた。
指の腹が、水の底をなぞる。
その手が離れた。
飲んだのか。
分からない。
手が床から離れれば、その先の動きは見えない。
でも、また同じ手が水へ来た。
今度は少し長く留まった。
俺は水を確かめた。
壁から一滴ずつ。
作ったくぼみの底には、わずかに溜まる。
そこから奥へ抜けていく。
あれだけ苦労した水だった。
なのに今、飲ませていいのかすら答えられなかった。
水質を調べたわけではない。
どこから来るかも、少ししか知らない。
待って、と言いたい。
でも、喉が渇いている人間に、飲むなだけ言ってどうする。
別の水はない。
俺は黙っていた。
黙るしかなかった。
少女は溝のそばから離れ、奥の壁へ背中を預けた。
布を通した圧力がある。
薄い身体だ。
片方の足だけ、床への重さが軽い。
痛むのかもしれない。
穴の縁へ届く振動が強くなった。
少女の背中が、壁から離れる。
俺の床を這うように移動する。
一番奥の、小さな張り出しの脇へ身体を入れた。
そこは少しへこんでいる。
大人なら膝を抱えないと入れないくらいの場所だ。
腕と膝が寄った。
その姿勢を、床や壁への触れ方から想像した。
怖がっている。
外の人に見つかりたくないのだろう。
そう思った。
助けを求める相手なら、穴へ戻るはずだ。
こんなに奥へ隠れたりしない。
追われているのか。
事情が分からない。
知りたかったが、聞く手段がなかった。
壁に触れた背中が、小刻みに揺れた。
何か言っているのか、震えているだけなのか。
床を押す手と膝の間が、さらに狭くなった。
その時、硬いものが二つ、壁に触れた。
髪を押しつけたような柔らかさの少し上。
小さな、滑りにくい突起だった。
片方が当たり、頭の位置がずれる。
もう片方も触れた。
飾りか。
頭につけているものかもしれない。
形を確かめようにも、突起はすぐ壁から離れた。
俺はそこで考えるのをやめた。
何をつけていてもいい。
今、困っていることには変わりがない。
外から伝わる重い振動が、穴へ近づいた。
俺は壁へ力を入れた。
閉じられないか。
せめて、穴を狭くできないか。
少し軋んだ。
壁への重さが急に離れ、手が強く床を叩いた。
失敗した。
驚かせた。
壁へ預けていた身体を離し、床に手をつく。
その手が震えている。
俺が怖いのか。
そりゃそうだ。
暗い岩穴の奥へ逃げ込んだら、背中の壁が動いた。
安心しろという方が無理だ。
俺はすぐに力を抜いた。
何もしない。
少なくとも、彼女が触れているところは動かさない。
穴の方では、石に何か硬いものが当たった。
二度。
金属だろうか。
乾いた、鋭い震えだった。
布越しに伝わっていた小さな揺れまで、感じ取れなくなった。
俺まで何も考えられなくなった。
こっちに来る。
もし入ってきたら、どうする。
床は動かせる。
でも、とてもゆっくりだ。
足をつかめるほどのものを作るには、どれだけかかる。
水を通す細い溝ですら、何日もかかった。
俺には、今いる少女を奥へ引っ張る腕もない。
一人分の身体を、隠してやる壁も作れない。
この場所が自分だと分かったところで、ここへ来た人を守れるわけではなかった。
細かな震えが、穴の周りの石に続いた。
途切れたと思うと、また重なる。
外で何をしているのか、確かめられなかった。
穴の近くの床へ、靴らしい重さが一度だけ乗った。
俺の新しくなった部分だった。
強い。
虫とは比べものにならない。
そこが踏まれているだけなのに、圧迫されるような感じがした。
少女の身体は動かなかった。
俺も何もしなかった。
靴が離れた。
しばらくして、穴へ届く揺れも弱くなった。
遠ざかったのか。
ただ立ち止まっただけなのか。
俺には分からない。
分からないので、少女が動くのを待った。
彼女は長い間、そのままだった。
その慎重さが、俺よりずっと頼もしかった。
俺は、振動が届かなくなっただけで終わったと思いかけていた。
彼女は思わなかったらしい。
ようやく身体が壁へ戻った。
壁への圧力がゆっくり増して、落ち着く。
それでも立とうとはしなかった。
助かったのかもしれない。
でも、何も解決していない。
濡れた服。
痛む足。
少しずつ冷える身体。
床に触れる場所が、とても少なかった。
冷たいところへ長く触れないようにしているのだろうか。
俺は自分の床の温度を確かめた。
人が座って、心地いいとは思えない。
冷たい。
温める方法は知らない。
水の流れを変えるだけで苦労していた俺が、いきなり暖房になれるわけがない。
何か敷くもの。
穴の近くに枝がある。
細い一本だけだ。
寝床にはならない。
本当に、何もない部屋だった。
虫が住むのと、人が住むのは違う。
そんなこと、分かっていたはずなのに。
小さな袋らしいものが床に触れた。
その底が何度かこすれ、脇へ硬いものが二つ三つ置かれた。
荷物をほどいているのだろう。
一つ分の重さが消えた。
しばらく床に戻らなかった。
食べているのかもしれない。
何を、どれくらい。
見えないので分からない。
それでも、誰かが俺の中で何かをしている。
そのことが嬉しかった。
嬉しいと思って、すぐに嫌になった。
この人は、多分逃げてきた。
痛いところがあって、寒くて、怖がっている。
俺の退屈を埋めるために来たわけではない。
今は、来てくれてよかったと思う場面じゃないだろう。
背中から伝わる弱い揺れは続いていた。
何をしているかまでは分からなくても、少し休む時間ができたらしかった。
それから、また水のそばへ来た。
片足を引きずっているらしい。
手をついて進むせいで、腕へ重さがかかる。
床に、小さな液体の跡がついた。
温かい。
穴のところでも感じたものに似ていた。
血だと思う。
多くはなかった。
それでも俺は、そこへ意識を寄せてしまった。
指で押さえられない。
布を渡せない。
何ができる。
俺は水のそばの石を、少しだけ動かそうとした。
少女の手が触れる前に、止めた。
また驚かせる。
水を分かりやすくしたかっただけだ。
彼女はもう、水の場所を知っている。
俺が何かしたいからという理由で、動かす必要はなかった。
今、必要なのは、できるだけ静かにしていることかもしれない。
そう考えるのは、少しつらかった。
助けるために何もしない、というのは、何もできないことと見分けがつかない。
実際、何もできなかった。
袋の脇に、細い布らしいものが触れた。
それが床をこすり、片足の重さが手のそばへ寄る。
手当てだろうか。
壁を押す肩に何度か力が入り、そのたび足の周りの布が引かれた。
何かを巻いているのかもしれない。
俺は、その壁を動かさないようにした。
少しでも寄りかかれるように。
それくらいしか、してやれることがなかった。
手の近くから、細い布らしいものが床へ落ち、そのまま滑った。
あと少しで、水の溝へ入る。
俺はその下を持ち上げようとして、間に合わないと分かった。
彼女の手が先に来た。
布を拾い、しばらく止まる。
汚れたのかもしれない。
袋の底がまた動き、その脇へ別の細いものが触れた。
替えの布だろうか。
俺はそれを、ひどくありがたいことのように感じた。
彼女は彼女で、ここへ来るまで生き延びるためのものを持っていたのだ。
何もできずに倒れているだけではなかった。
足の周りに触れる布が動いた。
時々止まりながら、それでも一つずつ手を動かしている。
やがて肩の力が緩み、袋らしい重さが手元へ寄った。
俺には何を使ったか分からない。
ただ、途中で何度か、痛みに耐えるように動きが止まった。
こんなことに慣れる必要がない場所へ行ければいい。
その場所がどこか、俺には分からなかった。
少なくとも、この床はまだ、そういう場所ではない。
長い時間が過ぎた。
外から来る空気は、もっと冷たくなった。
少女が奥のくぼみへ戻ると、その脇に袋らしい重さも戻った。
服か、荷物の一部か。
薄いものを床へ広げている。
その上へ、身体を小さく乗せた。
眠るつもりなのかもしれない。
ここで。
俺の中で。
俺は壁を確かめた。
天井も。
床の張りも。
水の抜ける場所も。
急に崩れるような変化は感じなかった。
それだけしか分からない。
それでも、何度も確かめた。
布を通して伝わる、呼吸らしい揺れが少しずつゆっくりになった。
時々、短く途切れる。
身体が動く。
また続く。
熟睡しているのかどうかは分からなかった。
この揺れだけで、大丈夫とは言えない。
ただ、最初に転がり込んだ時よりは、引っかかるような間が減っていた。
俺はその小さな違いだけを頼りに、次の揺れを待った。
声をかけられたらと思った。
大丈夫だと言いたかった。
何が大丈夫か、自分でも分からないくせに。
外に誰もいないとは言えない。
水が安全とも言えない。
明日どうすればいいのかも知らない。
言えることは、ひどく少なかった。
俺はここにいる。
そのくらいだ。
少女の背中が、壁に少し触れた。
俺は、その場所に何も力を入れなかった。
ただ、朝と呼んでいる温かい空気が来るまで、そこへ伝わる弱い揺れを確かめていた。




