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足音

 小さな穴から、枝が入ってきた。


 多分、枝だ。


 細長くて、軽くて、途中が曲がっている。風が強くなるたび、床をこすって奥へ進んだ。


 石なら、もっと小さな点で重さがかかる。


 虫なら、勝手に動く。


 どちらでもない。


 枝だと決めておくと、多少は扱いやすかった。


 外に木があるのだろう。


 そう思ってから、俺は穴の向こうへ注意を向けた。


 新しく自分になった床の先。


 そこで、やっぱり何も分からなくなる。


 木があって、山の斜面に穴が開いている。


 そんな景色を思い浮かべた。


 確かめられたのは、枝らしいものが一本入ってきたことだけだ。


 岩の中にある空間だから山の中だと思っているだけで、全然違う場所かもしれない。


 誰かの家の地下とか。


 誰かの家なら、もう少し人の気配があってもいい。


 そこまで考えて、やめた。


 外のことを想像していると、ろくな方へ行かない。


 枝は穴の端へ引っかかった。


 次の風で重さが途切れ、すぐに乾いた衝撃が戻る。


 少し浮いて、落ちたのかもしれない。


 ここに虫以外のものが入ってくるのは、久しぶりだった。


 だから、しばらく追っていた。


 何かに触れている時は楽だ。


 少なくとも、今あるもののことを考えればいい。


 ないものを探さずに済む。


 携帯。


 時計。


 窓。


 人の声。


 どれも、ここにはなかった。


 水だけはある。


 俺が細く広げた亀裂から、今日も少しずつ落ちている。


 途中で溜まるところを何度か直したので、前よりは素直に奥の割れ目へ抜けるようになった。


 それでも穴から入る空気が大きく変わる時は、水の量も少し変わる。


 外の何かとつながっているのだろう。


 風が来る。


 水が来る。


 虫が来る。


 枝も来た。


 俺のいる場所だけで、世界が終わっているわけではない。


 その先を知りたいと思った。


 知ったから何ができるのか、と言われたら困る。


 でも、知らなくていいとは思えなかった。


 穴のすぐ内側には、まだ高い石の縁が残っている。


 俺の身体の一部だ。


 少し低くできれば、枝はそのまま入ってくるだろう。


 虫も通りやすくなるかもしれない。


 そこまで考えて、やめた。


 入ってくるものが、虫だけとは限らない。


 大きなものが来たら、どうする。


 昨日までの俺なら、誰でもいいから来てくれと考えただろう。


 今も、少し考えている。


 でも、誰でもいいわけがなかった。


 獣だったら。


 熊とか。


 そんなものがいるかは知らないが。


 穴は小さい。


 大きな獣なら入れないかもしれない。


 それなら、広げない方がいい。


 俺は自分の穴を、初めてそういうつもりで確かめた。


 入れるもの。


 入れないもの。


 扉があるわけではない。


 閉じようとしても、多分すぐにはできない。


 誰かが入ってくる前に、ちょっと待ってくれとは言えない。


 声がない。


 壁を軋ませたところで、言葉にはならない。


 石を動かせたところで、相手に意味が伝わるとは限らない。


 俺は、穴に引っかかった枝のそばの床を少し押した。


 枝が傾いた。


 変化はそれだけだった。


 これを見て、助けてほしいと分かる人がいるだろうか。


 分からないだろうな。


 せいぜい、地面が動いて気持ち悪い、だ。


 人に会いたいのに、会った後のことが何一つ思いつかない。


 相変わらずだった。


 人間だった頃も、話しかける前に変なことを考えすぎて、結局黙っていたことがある。


 ただ、今は本当に話せない。


 前は何だかんだ言って、口を開けばよかった。


 その程度のことが、ずいぶん贅沢だったらしい。


 枝が、また動いた。


 風が強い。


 穴の近くの床に、細かいものが次々触れた。


 水だった。


 雨か。


 どこか先の開けた場所から、ここまで吹き込んだのだろうか。


 一粒ずつだったものが、すぐに増えた。


 穴の近くだけが濡れていく。


 俺は思わず、奥の溝を確かめた。


 あの時のように、いきなり増えるかもしれない。


 でも、水は穴の近くへ薄く広がるだけで、それ以上はほとんど入ってこなかった。


 外へ向かって、少し低くなっているらしい。


 水の動きで、やっと分かった。


 低いところに、もっと低いところが続いている。


 俺の知らない外側だ。


 水が触れている間、枝はあまり動かなかった。


 濡れて、少し重くなったのかもしれない。


 俺はそれを動かすのをやめた。


 別に邪魔でもない。


 ただ、何かしたくて触っていただけだ。


 そんな理由で外のものをいじるのは、少し違う気がした。


 水の触れる間隔が空き始めた頃、穴の先から振動が来た。


 最初は、また水だと思った。


 でも、間隔が違う。


 一つ。


 少し空いて、もう一つ。


 重い。


 水滴ではない。


 枝が落ちた時とも違う。


 俺の新しい床まで、揺れだけが伝わってくる。


 何かが直接触れているわけではない。


 俺の知らない場所で、何かが地面を叩いている。


 俺は穴へ注意を集めた。


 遠くを見ることはできない。


 遠くにあるものを直接感じているわけでもない。


 俺の床まで届いた揺れを、受け取っているだけだ。


 それでも、間隔は分かった。


 二つ続いて、少し空く。


 また二つ。


 何かが走っている。


 獣か。


 そう考えた瞬間、穴の大きさが気になった。


 俺は枝のそばにある高い石へ力をかけかけた。


 閉じる。


 せめて狭くする。


 でも、今から動かして間に合うはずがなかった。


 穴の感覚まで鈍らせる前に、やめた。


 振動は、少しずつ強くなった。


 進むたび、地面へ伝わる強さが違う。


 規則正しく続いていた間隔が、途中で乱れる。


 一つが重い。


 次が軽い。


 足を引きずっているのかもしれない。


 足。


 その言葉が浮かんだ。


 二つ続いて、間が空く。


 俺が走っていた時に聞いていた足音に、少し似ている。


 もちろん、今の俺には聞こえていない。


 床を伝わってくる振動を、昔知っていた音へ当てはめているだけだ。


 俺は、もっと先まで意識を広げたくなるのを押しとどめた。


 探っても、分からないものは分からない。


 ここまで来る揺れだけを感じる。


 一度、止まった。


 どうした。


 また動く。


 さっきより不規則だった。


 途中で、強い衝撃も混じった。


 何かにつまずいたのか。


 転んだのか。


 分からない。


 でも、もう俺は獣のことを考えていなかった。


 誰か。


 人かもしれない。


 それだけで、部屋の中のことが全部遠くなった。


 水の落ち方も。


 虫の位置も。


 床に置いた石も。


 穴だけが気になる。


 来てくれ。


 そう考えた。


 次に、ここへ来てどうする、と考えた。


 俺は何もしてやれない。


 話すことすらできない。


 そんなことは、後でよかった。


 人かもしれないのだ。


 ここへ来てから、どれくらい経ったのだろう。


 俺の数え方なら、何週間か。


 ひと月近く経っていてもおかしくない。


 誰とも話していない。


 自分の声も聞いていない。


 考えたことを、全部自分の中へ返していた。


 石が動いた。


 水が来た。


 外へ少し広がった。


 誰かに言いたかった。


 それだけのことだった。


 俺は水の溝から、小さな石がはみ出していないか確かめた。


 人が来る。


 だったら、足を引っかけるかもしれない。


 まだ来ると決まったわけでもない。


 それなのに、そんなことが気になった。


 草も、布もない。


 椅子もない。


 座ってもらう場所すらないことに気づいた。


 誰かに入ってほしいと思っていた場所が、急にひどくみすぼらしいものに思えた。


 いや、岩の中なんだから仕方ないだろ。


 自分に言った。


 仕方なくても、来た人は困るかもしれない。


 俺は水の近くの床へ力を入れかけた。


 少しだけ平らにしておく。


 そこで、また振動が乱れた。


 やめた。


 今、余計なことをして穴の方が分からなくなったら困る。


 俺は新しく増えた床の細い部分へ注意を戻した。


 変な緊張だった。


 会議室へ知らない人を迎える時に、少し似ている。


 何を話せばいいか分からない。


 とりあえず椅子を引く。


 今は、その椅子を引く手すらなかった。


 それでも、誰かが近づいている。


 床まで届く振動が、さっきより強くなった。


 間隔の乱れも、はっきりしてきた。


 走るだけで精いっぱいなのかもしれない。


 俺はもう、来た人へ何を言うか考えていなかった。


 無事にここまで来てほしいと思っていた。


 振動が近づいた。


 もう、人の足音だとしか思えなかった。


 走る。


 止まる。


 ためらうように、短く移る。


 穴のすぐ外だろうか。


 揺れが強くなったから近いのか、それとも強く踏んだからなのか。


 そこまでは分からない。


 先回りして決めつけるのをやめた。


 次に届くものを待った。


 俺の床へ、軽いものが触れた。


 枝ではない。


 細く分かれた先が、濡れた石をつかんだ。


 手。


 手だ。


 指の腹が押しつけられている。


 指ごとに重さが違う。


 人間の手だった。


 少なくとも、俺の知っている手によく似ていた。


 俺は何もできなくなった。


 壁を軋ませるとか、枝を動かすとか。


 さっきまで考えていた方法が、全部頭から消えた。


 指が離れた。


 待って。


 また触れた。


 今度は、少し内側へ。


 何か柔らかいものが床をこすった。


 濡れた布のようだった。


 布越しの重さに、小さな揺れが繰り返される。


 手を置いた場所は変わっていないのに、圧力が増えては戻る。


 息をしているのだろうか。


 俺がどれだけ探しても見つからなかったものを、その人は持っている。


 その揺れは速く、時々、間が乱れた。


 体調がよくないのかもしれない。


 穴の縁へ、また手がかかった。


 その近くに、温かい液体が少し触れた。


 雨水とは違った。


 量は少ない。


 けれど、床へ広がったところだけ、妙に強く感じる。


 水とは違う。


 虫がいる時の感じとも、少し違う。


 血だろうか。


 その考えが外れていてほしかった。


 床をつかむ指に、急に力が入った。


 すぐには緩まない。


 穴の外から、また重い振動が来た。


 今いる人のものではない。


 その手は、まだ俺の床に触れている。


 別の誰か。


 いくつかの間隔が重なった。


 俺には外が分からない。


 何人いるのか。


 何をしているのか。


 けれど、穴のところにいる人が急に動いた。


 迷っていた手が、奥をつかむ。


 濡れた布が床を滑る。


 狭いところを、無理にくぐろうとしていた。


 俺は穴の縁を下げようとした。


 少しでも通りやすく。


 そう思った。


 間に合わなかった。


 肩か何かが穴の縁へぶつかった。


 手の圧力が片側へ偏り、それから急に離れた。


 内側の床へ、続けざまに衝撃が来た。


 転がり込んだらしい。


 膝だろうか。


 手。


 身体の横。


 触れた順に、俺へ伝わった。


 最後に腕らしい細長い重さが床を押し、その上から別の重さが重なる。


 頭をかばったのかもしれない。


 硬いものを直接打ちつけるような衝撃は来なかった。


 よかった。


 そう思ってから、俺は自分が何を心配していたのか分からなくなった。


 暗い部屋に、人がいる。


 床に触れた身体が、また小さく震えた。


 何か言っているのかもしれない。


 けれど、言葉も声も、俺には届かなかった。


 子どもだろうか。


 手の小ささだけでは、それも決められなかった。


 俺はその小さな重さを、ただ感じていた。

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