俺の外
水の道の先で、俺は終わっていた。
正確には、感覚が終わっていた。
壁から落ちた水は、浅い溝を通って部屋の隅へ行く。そこにある細い割れ目へ触れた後は、分からなくなる。
消えたわけではないだろう。どこかへ流れたか、染み込んだか。
ただ、そのどこかは俺には分からなかった。
流しっぱなしでいいのか。
一度そう思うと、気になって仕方がなかった。
今は一滴ずつだ。溜まるより早く、隅の方へ抜けている。
でも、先が詰まったらどうなる。
自分で作った水の道なのに、最後を見届けられない。仕事なら、図面の端で配管が切れているようなものだ。
「以降、別途工事」で済ませたい。
別の業者はいなかった。
俺は割れ目の先へ力を伸ばした。
何も起きなかった。
もう何度も試した。
小さな穴でも、壁でも。
部屋の輪郭を越えた途端、何もない。
そこに岩があることすら、直接には分からない。俺の壁の外側へ押し返してくる硬さがあるだけだった。
試しに、そちらを動かそうとしてみた。
手前が軋んだ。
外へ力をかけるつもりなのに、自分の方にだけ負担が来る。
そこでやめた。
力が足りないのか。やり方が違うのか。
分からないまま強くすると、手前の床まで扱いにくくなる。
俺は床の石を思い出した。
石を直接動かすことはできなかった。下の床を動かして、結果としてずれただけだ。
もしかすると、壁の外も同じなのかもしれない。
俺ではないものには、届かない。
それなら、ずっとここまでだ。
たぶん、3メートル四方。
多少の凹みを作っても、大きくは変わらない部屋。
水がある。
虫がいる。
それで十分と言われても困る。
俺は、ここから出たかった。
出るとは、何をすることだろう。
穴を通る。
身体を運ぶ。
今の俺が身体を運ぶなら、この部屋ごと動くことになる。
そんなことはできそうになかった。
床の一部を一ミリ動かすだけで、あれだけ苦労した。
壁も床も天井も全部まとめて動かす。
考えただけで馬鹿らしくなった。
俺は割れ目の先に、しばらく注意を置いた。
押さない。
引かない。
ただ、境目に薄く力を残す。
いつも自分の壁を感じている時と同じように、そこに何かが続いているつもりで意識を馴染ませる。
何か違いがあるかと思ったが、すぐには変わらなかった。
水が何滴も落ちた。
虫が溝を越えた。
穴から流れ込む空気が冷たくなった。
やめようとした時、割れ目の縁に少し変な感覚があった。
重いというより、鈍い。
長く同じ姿勢でいた腕に、ゆっくり血が戻る時のような。
もっとも、痺れる腕はもうない。
そこに、触れているものがある。
今まで感じていた水の冷たさだけではなかった。
硬い。
細かくざらついている。
俺は慌てて力を入れた。
感覚が散った。
ああ、もう。
次から、少し変わった時ほど慌てないようにしよう。
そういう反省ばかり増えていく。
同じことをやり直した。
外へ伸ばそうとしない。
境目に、ごく薄く力を残す。
何も起きなくても、そのまま待つ。
どれくらい経ったか分からない。
水の一滴ごとに数を数えるのは、もうやめていた。途中で間隔が変わるので、時計の代わりにはならない。
やがて、薄い感覚が戻った。
前より少し続いている。
割れ目の手前にあったはずの境目が、曖昧になっていた。
俺は、その内側を確かめた。
小さな粒がある。
硬さが揃っていない。
その間へ、水が細く入り込んでいる。
さっきまで感じられなかった場所が、ほんの少しだけ分かる。
水があったから気づけたのかもしれない。
冷たさと流れが、境目を探す手掛かりになった。
でも、今感じているのは水だけではない。
その周りにある硬いものまで、薄く分かる。
押してみたくなった。
我慢した。
すぐに使おうとするから失敗するのかもしれない。
俺は境目へ意識を置いたまま、もうしばらく待った。
その部分が、少しずつ水に触れる。
冷たさが伝わる。
やがて、いつもの壁を動かす時に感じる、あの張りを作れそうな気がした。
今度は、ごく弱く力をかけた。
ざらつきが応じた。
動いたかどうかは分からない。
でも、力をかける場所がある。
さっきまで、なかったところに。
俺は何度か確かめた。
自分の床。
新しく分かる場所。
その先。
最後のところは、まだ分からない。
境目が、少しだけ向こうへ移っていた。
「……広がった?」
疑問形にするしかなかった。
部屋そのものは、ほとんど変わっていない。
床も天井も、見当では同じところにある。
けれど、水が分からなくなる場所は、さっきより遠くなった。
手前の、前から分かっていた床。
その続きに、さっきまで知らなかった細い帯がある。
注意を外しても残るだろうか。
俺は虫の方へ意識を移した。
少し待って、戻す。
帯はあった。
水の流れを確かめてから戻っても、同じところまで分かる。
床を軋ませた時とは違う。
力を入れている間だけ起きている変化ではなかった。
そこが、自分の形として残っている。
俺はその境目へ何度も戻った。
外の全部が分かったわけではない。
ほんの少しだ。
それでも最初の日には、この先があることさえ分からなかった。
今日分かったところは、次も分かるかもしれない。
その先へ、もう少し進めるかもしれない。
俺は興奮した。
今なら一気に。
そう考えて、すぐやめた。
さすがに学習する。
代わりに、小さな穴の縁で同じことを試した。
そこは空気に触れている。
床は穴の向こうへ続いているらしい。
ただ、俺の感覚は手前で切れる。
この穴を抜けたら、すぐ外なのか。
まだ狭い隙間が続くのか。
空気が来るというだけでは、そこまで分からない。
俺はその切れ目へ、薄く力を残した。
待つ。
割れ目の時より、ずっと時間がかかった。
何も変わらないので、途中で別の場所を試したくなった。
水のあるところの方が、境目を見つけやすかった。
でも、それなら水がなくても同じことができるのか確かめられない。
俺は待った。
途中で水の流れを確かめ、また穴へ戻る。
少し薄くなった感覚の端に、硬いざらつきが残っていた。
最初からやり直しではないらしい。
そこへ、また意識を馴染ませる。
伸びるというより、馴染む。
前からあった床と、その外にある硬いものの境目が、少しずつ曖昧になる。
代わりに、その先へ新しい境目ができる。
その感覚をつかむまで、何度も繰り返した。
穴から流れ込む空気は、何度も温かくなり、冷たくなった。
俺の数え方なら、何日も経っている。
一週間くらいあってもおかしくない。
それだけかけて広がったのは、せいぜい手のひら一つか二つ分だと思う。
人間だった俺が見たら、何も変わっていないと言うだろう。
でも、穴を通る虫の脚が、以前より少し早く分かるようになった。
それは大きな違いだった。
外から来たものが、いきなり現れなくなる。
最初の一歩。
次の一歩。
部屋へ入るまでに感じ取れる、ごく短い道が増えた。
ただ、穴の向こうへ顔を出せたわけではない。
新しく分かる床からでも、その先の景色は見えない。
どれだけ先へ進んでも、触れていないものは触れていないままだ。
外を知るには、俺の方が少しずつそこへ馴染んでいくしかないのだろう。
近道ではなかった。
それでも、道がないと思っていた時よりはよかった。
俺は、新しく分かるようになった部分を動かしてみた。
弱く力をかける。
張りが生まれた。
外側から押し返す硬さもある。
動かせる。
ただし、自由ではない。
その先にある岩まで、一緒に従うわけではなかった。
小さなくぼみを作ろうとすると、動かした分が内側へ寄る。
その分だけ、別のところが高くなる。
新しく俺になったらしい場所でも、それは変わらない。
消せないものは消せない。
通路を広げるなら、動かしたものの置き場が要る。
部屋の中が、動かした石だらけになったら困るな。
そう考えて、少し笑いそうになった。
広げられるかもしれないと分かったばかりなのに、もう広げた後の不満を考えている。
欲が深い。
新しいところは、前からある床より扱いにくかった。
少し動かすだけで、薄い感覚が遠くなる。
さらに押すと張りばかりが強くなり、動かそうとした場所を細かく捉えられなくなった。
俺は一度、穴から注意を引いた。
内側の水のそばへ戻る。
戻る、というほど移動していない。
それでも、自分の馴染んだ場所と、まだ扱いにくい場所の違いができていた。
虫が水の溝を越えた。
石の横に、小さいものがいくつかいる。
ここは、分かる。
それが少し安心だった。
新しい感覚が増えるのは嬉しい。
でも、全部を細かく確かめ続けるのは疲れる。
俺はまだ、この小さな空間だけでも手一杯だった。
何日か後、水の抜ける割れ目の先をもう一度確かめた。
前より少しだけ、流れの向きが分かる。
下。
わずかに横。
そこから先は、まだ知らない。
全部が分からなければ手を出せない、というわけにはいかない。
かといって、分からないまま大きく動かすのも違う。
分かる範囲を少し増やす。
その中で、小さくやる。
今の俺にできるのは、それくらいだった。
穴の向こうに増えた床には、細い亀裂があった。
少し前まで、俺には分からなかった場所だ。
虫がそこへ脚を置いた。
直接、触れられた。
最初に虫を感じた時と同じ感覚だった。
なのに、その場所は以前の俺なら感じることのできなかった場所にある。
俺は、ようやく言葉にできた。
部屋の外へ、手を伸ばしているのではない。
手がないのに、ずっと人間の動きで考えていた。
だから、どこへも届かなかった。
広がった場所には、俺自身の感覚がある。
石や虫は、そうではない。
壁を動かしている。
部屋をいじっている。
そう思っていたけれど、少し違う。
これは、俺が使っている場所ではない。
穴から冷たい空気が来た。
新しく増えた床に触れ、前からある床へ流れていく。
どちらにも、同じように感触があった。
「この部屋を広げてるんじゃない」
俺は水のある隅を感じた。
最初に石を動かしたところも。
無理に押して、ざらつきの変わったところも。
何をしたか、全部ここに残っている。
「俺自身が、広がってる」
部屋だと思えば、出ていきたくなる。
閉じ込められた場所なら、誰かが開けてくれるかもしれない。
でも、そういうことではないのだろう。
たぶん、3メートル四方。
そこから、ほんの少し増えた硬いもの。
床。
壁。
天井。
誰もいない空間に、俺だけが取り残されているのではなかった。
「この場所そのものが、俺なんだ」
声にはならなかった。
それでも、今度は疑問形ではなかった。




