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水

 床に触れる小さな重さが、減っていた。


 いつもなら、隅のどこかに細かい脚の動きがある。今日は少なかった。


 壁を確かめる。


 小さな穴の近く。


 少し湿っていたくぼみ。


 何もいない。


 全部いなくなったわけではなかった。


 奥の割れ目に、一つだけ小さな接触が残っている。


 けれど、あの何かが満ちる感じは、前より薄かった。


 俺はしばらく何もせずに待った。


 昨日、床を動かしたわけではない。疲れるようなこともしていない。


 それなのに力を入れようとすると、考えた先が遠かった。


 休めば戻る。


 そう思っていた。


 どうも、それだけではなさそうだった。


 穴から入る空気の感じが違う。


 冷たい時間でも、床の薄い湿り気が増えない。


 苔だと思っていたものの周りも、以前より乾いていた。


 乾いている。


 その言葉が浮かんで、やっと気づいた。


 俺の部屋には、水がない。


 前からなかった。


 蛇口も、井戸も、何もない。


 壁の隅に薄くついた湿り気だけで、何日も過ごしていたらしい。


 俺自身は喉が渇かない。


 喉がないからだ。


 だから、気づくのが遅れた。


 生き物はそういうわけにはいかない。


 乾けば、別の場所へ行く。


 行けるやつは。


 奥の割れ目に残った小さな接触へ、意識を向けた。


 ほとんど動かない。


 休んでいるだけかもしれない。


 何かを待っているのかもしれない。


 俺には分からなかった。


 分からないまま、そこが気になった。


 水を出せないか。


 最初に考えたのは、それだった。


 壁の湿っていた場所へ力を入れる。


 押す。


 緩める。


 水が染み出すところを想像する。


 何も出なかった。


 そりゃそうだ。


 空のコップをどれだけ振っても、中身は増えない。


 俺に何ができるのか分からないからといって、都合よく全部できることにはならない。


 壁を押すのをやめた。


 必要なのは水だ。


 水を作れないなら、あるところを探す。


 仕事みたいに言うと簡単だった。


 問題は、俺がこの部屋から出られないことだ。


 外で雨が降るのを待つか。


 穴から入ってくれば、どこかへ溜められるかもしれない。


 でも、穴の床は少し高い。


 今まで水が流れ込んだ覚えもなかった。


 外へ伸ばそうとした感覚は、いつも同じところで止まる。


 その先に土があるのか、岩があるのか、空いているのかすら分からない。


 俺は、分かるところだけを確かめた。


 床の端。


 壁の足元。


 割れ目。


 乾いたところと、まだ冷たいところ。


 ゆっくり追うと、奥の壁に細い帯があった。


 他より冷たい。


 ただ、それだけだ。


 風は来ない。


 なのに、そこだけ温度の変わり方が鈍い。


 前からあったのだろうか。


 分からない。


 これまで、部屋の中のことばかり気にしていた。


 帯を追うと、壁の下の方へ続いていた。


 細い亀裂がある。


 そこに、わずかな湿り気が残っていた。


 水だろうか。


 俺はその場所を、ほとんど期待しないようにしながら確かめた。


 期待しすぎると、違った時に困る。


 でも、冷たさは消えなかった。


 壁に接している何かが、細かく震えている。


 虫の脚よりずっと均一で、途切れにくい。


 流れているのか。


 向こう側までは分からない。


 水脈の地図が頭に浮かぶわけでもない。


 俺の壁に触れている範囲で、冷たい何かが動いている。


 それだけだった。


 それだけでも、ないよりはいい。


 細い亀裂の縁へ、力をかけた。


 小石を動かした時と同じだ。


 片方を押して、反対側を緩める。


 ただし、今回は割れ目を広げたい。


 広げた先に何があるかは分からない。


 そう考えた途端、冷たいものが口の中に戻った気がした。


 水。


 膝を越えた流れ。


 暗い通路。


 俺は力を止めた。


 何も起きていない。


 今は、まだ。


 壁には小さな湿り気があるだけだった。


 怖かった。


 水を入れたいのに、水が入ってくるのが怖い。


 自分でも困った。


 あの時、流れの始まりを見た。


 大した量ではないように見えたものが、すぐに床を隠した。


 最後には、息をする場所がなくなった。


 今の俺は息をしていない。


 水がいっぱいになったらどうなるのかも分からない。


 でも、何かが壊れるかもしれない。


 ここに残っている小さな生き物は、逃げられないかもしれない。


 俺は先に床を調べ直した。


 入れる場所だけ見ていた。


 出す場所がない。


 これは、仕事でやったら怒られる。


 怒られるだけなら、まだましだ。


 壁の足元から、小さな穴の方までを追った。


 床は平らではない。


 ところどころに低いくぼみがある。


 一番低いのは、部屋の奥の隅だった。


 そこには細い割れ目が続いている。


 隙間の向こうは分からない。


 ただ、今まで薄い湿り気が残っても、少しずつ消えていた場所でもある。


 染み込む余地はありそうだ。


 それ以上は言い切れない。


 大量には入れたくない。


 できるなら、一滴ずつ確かめたい。


 そんな都合のいい調整ができるかは分からない。


 できる範囲からやるしかなかった。


 まず、壁の手前に小さなくぼみを作った。


 指の先ほど。


 指はないので、もちろん見当だ。


 そこから低い隅まで、浅い溝をつなげる。


 削った分は横へずらす。


 動かした後に生まれた張りが消えるまで待つ。


 最初は一本の溝にもならなかった。


 凹みが点々と続いているだけだ。


 少しずつつなぎ、壁の方が高く、隅の方が低くなるように整える。


 ちゃんと流れるかは、水を入れなければ分からない。


 できたつもりが、一番危ない。


 途中に高いところが残っていないか、何度も確かめた。


 直す。


 休む。


 また確かめる。


 休む時間の方が長かった。


 その間にも、奥の割れ目の小さな接触を確認した。


 まだいる。


 頼むから、勝手に死ぬなよ。


 そんなことを言っても仕方がない。


 あいつにだって、勝手に死ぬつもりはないだろう。


 空気の感覚が温かくなり、また冷たくなった。


 その頃には、ようやく浅い溝が低い隅までつながっていた。


 石一つを動かすのに苦労していた俺が、今は水の道を作ろうとしている。


 大きな進歩に聞こえる。


 実際には、床のほんの一部が少しへこんだだけだった。


 誰かがここへ来ても、何をしたか分からないと思う。


 けれど、俺には分かる。


 途中で力尽きた場所も、少し深くしすぎたところも。


 水が来れば、全部ばれる。


 くぼみは、部屋の真ん中へ向いた側を少し高く残した。


 水が溜まれば、先に溝へあふれるように。


 部屋の真ん中へ広がる前に、低い隅へ逃がしたかった。


 計算できる流量なんてない。


 深さも幅も、まともに測れない。


 ただ、水が来た後で考えるのでは遅い。


 せめて、溜まり始めたことを俺が分かる場所にしたかった。


 くぼみへ意識を集めてから、別の場所へ注意を移す。


 それでも、底の薄い張りは分かる。


 よし。


 一か所の変化なら、気づけるかもしれない。


 ようやく壁の亀裂へ戻った。


 冷たい帯は、まだあった。


 なくなっていない。


 それだけで、少し気が楽になった。


 縁を動かす。


 ごく薄く。


 壁の内側へ圧力が返る。


 少し離れた場所を緩めて、そこへ逃がす。


 冷たさが近づいた。


 俺は止まった。


 待つ。


 何も来ない。


 もう少し。


 亀裂の奥から、湿ったものが縁へ触れた。


 細く、ゆっくり。


 そこで止まった。


 水がある。


 今度は、さっきより確かだった。


 嬉しさより先に、怖さが来た。


 急に増えたらどうする。


 俺は亀裂を大きくしなかった。


 濡れた先が下のくぼみへ向かうように、壁の表面だけをほんの少しならした。


 時間がかかった。


 途中でやめたくなった。


 こんなに苦労して、一滴も落ちなかったら。


 でも、やめても水は来ない。


 少し動かす。


 待つ。


 もう少し。


 やがて、壁の一点へ重さが集まり始めた。


 虫の重さとは違った。


 広がりながら、その場所にぶら下がっている。


 水滴だ。


 そう思った。


 大きくなる。


 ほんの少しずつ。


 俺は、床も壁も動かさずにいた。


 重さが離れた。


 一瞬なくなって、下のくぼみへ触れた。


 ぽたり。


 床に、小さな丸い衝撃が伝わった。


 耳で聞いたわけではないのに、昔知っていた音が浮かんだ。


「……来た」


 一滴だった。


 部屋が水浸しになることはなかった。


 波も、激しい流れもない。


 ただ、壁に次の一滴が育ち始めていた。


 俺は最初の水が広がるのを追った。


 次の滴を待つうちに、くぼみの底の濡れた範囲が広がる。


 やがて低くした縁へ届き、浅い溝へあふれた。


 けれど、その先で止まった。


 高いところが残っていた。


 やっぱり。


 俺はそこを覚えておいた。


 すぐには動かさない。


 水が触れている間に床を変えると、また何が起きるか分からない。


 滴が落ちるたびに、くぼみから少しずつ水が続いた。


 溝の途中に溜まり、しばらくして高いところを越える。


 よし。


 その先をゆっくり追った。


 途中でもう一度溜まり、それから低い隅まで届いた。


 水は細い割れ目へ、少しずつ消えていく。


 その先まで追えるわけではない。


 水の出口を全部調べ終えたつもりにはならないでおこう。


 床には湿り気が残った。


 奥にいた小さな生き物が動いた。


 久しぶりに、はっきりした脚の感触だった。


 湿った方へ来る。


 何度か止まり、また近づく。


 水を飲んでいるのかは分からない。


 けれど、そこにいた。


 その小さな重さを感じながら、俺は何も考えずにいた。


 しばらくして、考えなくても大丈夫な時間ができたことに気づいた。


 水は、まだ一滴ずつだった。


 飲める水かどうかは知らない。


 透明なのか、濁っているのかさえ分からない。


 今は、流れが続いていることだけを確かめよう。


 亀裂はこれ以上広げず、水の道が詰まらないようにしておく。


 面倒な仕事が増えた。


 俺は、壁に育つ次の一滴を待った。


 さっきまで、あれほど欲しかった水だった。


 手に入ったら、今度は気にかけることが増える。


 そういうものか。


 滴が落ちた。


 浅いくぼみに触れて、先の水を押した。


 奥の小さな脚は、そこから動かなかった。


 俺も動けなかった。


 でも、最初から同じではなかった。


 この部屋には、今、水が流れていた。

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