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最初の住人

 石は、その場所にあった。


 気を抜いたら元に戻るかもしれないと思って、何度も確かめた。


 戻らなかった。


 俺がずらした分だけ、床に新しい重さがある。


 それで満足すればよかったのに、もう一度やってみた。


 できなかった。


「……昨日の俺、何したんだよ」


 昨日と呼んでいいのかも分からない。


 それでも、穴から流れ込む空気の感覚が一往復している。


 俺は同じ場所へ注意を集めた。


 押す。


 横を緩める。


 石の端が少し浮く。


 そこまではできる。


 でも、滑らない。


 向きを変えたせいで、別の凹みに引っかかっているらしかった。


 現実というのは、変な身体になっても律儀だった。


 一度できた方法が、次もそのまま通じるとは限らない。


 何度か試すうちに、石の下へ張りが溜まった。


 押している場所の感覚まで鈍り始める。


 やめた。


 昨日できたことを、今日もう一度証明するために、動かせなくなるまで続ける必要はない。


 そう考えるまでに、かなり時間がかかった。


 俺は何もせず、床の感覚が戻るのを待った。


 すると、小さな穴から軽い重さが入ってきた。


 虫だ。


 正確には、虫だと思うもの。


 何本の脚があるのかも分からないので、本当に虫かどうかは怪しい。


 それでも、今さら呼び方を変えるのは面倒だった。


 あいつは床を少し歩き、石の横で止まった。


 俺が作った浅い凹みに沿って進む。


 そんなところまで使うのか。


 何かを作って、誰かが使う。


 その感じは知っていた。


 俺が引いた配管の線が、現場で実物になる。


 その先にある蛇口を、誰かがひねる。


 もちろん、あいつは水も何も使っていない。


 ただ歩いているだけだ。


 それでも、悪い気はしなかった。


 虫は、前に感じたやつより少し軽かった。


 歩く間隔も短い。


 別の個体だろうか。


 穴から、もう一つ感触が入ってきた。


 今度は長かった。


 細かく刻むような脚の触れ方が、ずるずると続く。


 脚、多くないか。


 見えなくてよかったかもしれない。


 考えてから、少しだけ後悔した。


 見えないことを冗談にするには、まだ慣れていなかった。


 長いやつは壁の隙間へ入り込んだ。


 接触がだんだん薄くなり、やがて分からなくなった。


 石の上に残った小さい方は、動かなかった。


 休んでいるのか。


 何か食べているのか。


 石の中身は分からない。


 そこに載った虫にも、直接は触れられない。


 床へ伝わる、石を通した重さだけがある。


 自分の石室なのに、分からないことばかりだった。


 それから、空気の感覚が何度か変わった。


 その間にも、小さな穴からいろいろなものが出入りした。


 床には少し湿ったところがある。


 隅には、薄いものが張りついている場所もあった。


 苔だろうか。


 指で触れば分かるのに、と思う。


 今の俺はそれを床ごと感じているくせに、人間の指先ほど器用には調べられなかった。


 柔らかいものが張りついている。


 そこが少しだけ、他と違う。


 分かるのはその程度だ。


 虫は、そういうところへ集まった。


 いつも同じ隅を通るやつ。


 穴から入って、ひと回りして出ていくやつ。


 壁の途中から、いつの間にか現れるやつ。


 同じ部屋の中で、それぞれ勝手に動いている。


 俺がここで困っていることなんて、誰も気にしない。


 まあ、説明もしていない。


 説明したところで、虫が相談に乗るわけもない。


 お互い様だった。


 最初の変化に気づいたのは、床へ力を入れた時だった。


 昨日より、届く。


 何のことだと自分でも思った。


 力が強くなった、と言うほどではない。


 遠くなっていた感覚が、少し手前へ戻ったようだった。


 床のざらつき。


 壁の小さな出っ張り。


 穴から流れ込む空気。


 その一つ一つを、前より楽に追える。


 休んだからだろう。


 最初はそう考えた。


 無茶をして疲れて、休んで戻る。


 分かりやすい。


 それ以上の理由を持ち出す必要はない。


 ただ、壁の隅に細かい脚がいくつも集まっている場所へ意識を向けた時、少し違う感じがした。


 そのあたりだけ、わずかに満ちている。


 温度や重さとは違う。


 床へ力を届かせやすいような、薄い何かがある。


 虫のいない反対側へ注意を向ける。


 何もない床と、冷たい壁。


 戻す。


 虫のいる隅。


 やっぱり、少し違う。


 まさか。


 生き物がいると、何か変わるのか。


 俺は床の石と比べた。


 石の底の圧力はいつでも分かる。


 けれど、虫のいる場所で感じるものとは違った。


 虫が動きを止めても、薄い満ち方は残っている。


 歩く振動だけが理由でもなさそうだ。


 そこまで考えて、やめた。


 条件を揃えられない。


 虫を好きな場所へ動かすこともできないし、数を揃えて比べることもできない。


 これでは、まだ結論は出せない。


 前の現場でも、たまたま同時に起きたことを原因だと決めつけて、余計な部品を交換したことがある。


 もちろん、直らなかった。


 仮説は仮説だ。


 もう少し待てばいい。


 それでも、穴から入ってくる小さな感触を、前より気にするようになった。


 人間だった頃、部屋に虫がいたら窓を開けて追い出した。


 大きさによっては、もっと大騒ぎしていたかもしれない。


 今は、どうぞ、だ。


 居住者の好みがだいぶ変わってしまった。


 あいつらのために何かできないかと思った。


 考えてから、自分でも少し意外だった。


 食べ物。


 水。


 隠れる場所。


 何が必要なのかも分からない。


 石を動かせるといっても、できたのは一ミリだ。


 食べ物を作れるわけでもない。


 それでも、床くらいなら何とかできるかもしれない。


 俺は床の隅にある、小さな突起へ注意を向けた。


 虫がそこを越える時、何度も脚を滑らせている。


 床の亀裂を回り込めばいいのに、毎回同じところで引っかかる。


 そこを少し低くしたら、通りやすくなるだろうか。


 作業を始めた。


 ごく小さい場所だけに力を入れる。


 押し込む分は、少し離れたところへ逃がす。


 昨日よりは迷わずできた。


 途中で虫が来た。


 あ、待て。


 もちろん止まらない。


 俺が動かしている突起と、その脇の細い割れ目の間へ入り込んだ。


 脚の触れ方が乱れる。


 抜けなくなった。


 俺は慌てて力を止めた。


 ただ、止めただけでは元に戻らない。


 細い接触が、何度も同じ場所を叩いた。


 虫が身体をひねっているらしい。


 一部だけが強く床に触れ、すぐ離れる。


 それが続く。


 俺が挟んだのか。


 通り道を少しならすつもりだった。


 それだけだったのに。


 床を戻そうとした。


 引いた方を押し、押した方を緩める。


 うまくいかない。


 さっきできたことでも、急にやれと言われるとできない。


 焦ると、広い範囲に力が入る。


 そうすると、割れ目が余計に狭くなる気がした。


 やめろ。


 自分に言った。


 大きく動かすな。


 意識を散らすな。


 虫のいるところ。


 脚が触れているところ。


 そこから離れた側を、ほんの少しだけ引く。


 時間がかかった。


 その間ずっと、小さな動きが続いていた。


 やがて、圧力が抜けた。


 細い感触が、割れ目の縁を越えた。


 脚が一つずつ床をつかむ。


 それから、かなりの速さで離れていった。


 出た。


 俺は何もせず、その後を感じていた。


 虫は部屋の真ん中を横切り、小さな穴の方へ消えた。


 別に礼を言ってほしかったわけではない。


 そもそも、挟んだのは俺だ。


 ただ、遠くなる脚の動きが、しばらく頭から離れなかった。


 あのまま床を動かしていたら、潰していたかもしれない。


 そう思うと、さっきまでとは違う意味で床を動かしにくくなった。


 別に殺したいわけじゃない。


 あいつがここにいたところで、俺は困らない。


 なら、それでいい。


 俺は途中で止まった床の作業を、そのままにした。


 通りにくい突起は残った。


 むしろ、前より少し変な形になったかもしれない。


 でも、住んでいる最中に床を動かされるよりはましだろう。


 設備の確認に来た人間が、使っている人の足元を見ない。


 そんなことをしていたら、仕事にならない。


 俺はまた、人間だった時の仕事を思い出していた。


 今日は、そのことが少しありがたかった。


 まだ使えるものがある気がしたからだ。


 それからしばらく、床は動かさなかった。


 小さな生き物が戻ってくるのを待った。


 挟まったやつかどうかは分からない。


 別のやつでもよかった。


 壁の隅には、苔かもしれない薄いものが残っている。


 その上を細い脚が通る。


 湿った場所へ寄るものもいる。


 あの薄い満ち方が何なのかは、まだ分からない。


 休んだからなのか。


 温度なのか。


 生き物がいるからなのか。


 今の俺には確かめきれない。


 でも、虫がここにいる間、俺はそいつの動きを追っていられる。


 それだけでも、何もなかった時よりましだった。


 穴から流れ込む空気が、また冷たくなった。


 今夜、と呼ぶことにする。


 壁に小さな脚がある。


 床にもいる。


 薄い苔らしいものは、ずっとそこにいる。


 俺はあいつらの形を知らない。


 あいつらは俺が考えていることを知らない。


 それでも、同じところにいた。


「……好きにしてろよ」


 声にはならなかった。


 小さな脚は止まらず、俺が動かし損ねた突起を、今度は脇から越えていった。

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