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一ミリ

 動かすものを決めた。


 床の端にある、小さな石だ。


 大きさは分からない。ただ、触れている範囲は狭い。人間の頃なら、指でつまめるくらいだと思う。


 もっと大きなものを選ばなかったのは、もちろん、簡単そうだったからだ。


 部屋が自分かもしれないと分かったところで、あの小さな穴へ歩いていけるわけではなかった。


 壁を軋ませられても、それだけでは助けを呼べない。


 なら、何か一つ動かす。


 それができれば、次を考えられる。


 石へ向かって、力を入れた。


 動かなかった。


 まあ、そうだろう。


 昨日も、似たようなことを散々やった。


 石を押す手を想像した。


 指の先。


 手のひら。


 足で転がすところまで思い浮かべた。


 何も起きない。


 代わりに、石の下の床だけが少し張った。


 俺は力を抜いた。


 石ではなく、床。


 昨日、壁が軋んだ時もそうだった。


 俺のつもりで動かそうとすると、硬い面の方が応じる。


 それなら、石を動かそうとするのが間違いなのかもしれない。


 石の下を持ち上げる。


 そう考え直してみた。


 広い面を押し上げるつもりになった途端、部屋のあちこちへ変な圧迫感が広がった。


 穴の近くが軋む。


 慌ててやめた。


 駄目だ。


 広すぎる。


 自分がどれだけ力をかけたのか、加減が分からない。


 動かなかったからといって、何も起きていないわけではなさそうだった。


 人間の時なら、腕を使って重いものを持ち上げれば、肩や腰が疲れる。


 今は、どこかを押すと別の場所へ何かが返ってくる。


 それがどこへ行くのか分からない。


 床の石は、同じところにいた。


「……力任せじゃ駄目か」


 声にならない文句を言って、俺は床の状態を確かめ直した。


 少し待つと、広がっていた張りが薄れていく。


 その間に、昨日から分かったことを並べた。


 床や壁には、自分のものらしい感覚がある。


 上に載った石には、それがない。


 石を直接動かそうとしても、反応するのは床の方だ。


 多分、あの石は俺ではない。


 じゃあ俺は、俺を動かすしかない。


 問題は、どう動かすかだ。


 図面の中なら簡単だ。


 線を少し上へずらせばいい。


 でも、現場ではそうはいかない。


 床を盛り上げるなら、その分の石がどこかから移動しなければならない。


 何もないところから、急に増えるわけじゃない。


 今の俺は、それを考えずに床だけ上へ動かそうとしていたのかもしれない。


 試しに、石の横へ細いくぼみを作るつもりになった。


 床に残っていた張りが、少し向きを変えた。


 押し上げる場所。


 引く場所。


 二つを一緒に考える。


 難しい。


 右手と左手で別のことをやるより、ずっと難しかった。


 そもそも手がない。


 石の下だけを押す。


 少し離れた場所を引く。


 意識を絞る。


 すぐにほどける。


 やり直す。


 今度は広げすぎない。


 またやり直す。


 何度目かで、石の底の圧力が変わった。


 片側の端へ、重さが寄る。


 動いたのか。


 思わず全体へ注意を広げた。


 その途端、床の張りが元に戻った。


 石の重さも、元の位置へ戻る。


 あ。


 今のは、多分。


 動いた。


 ほんの少しだけ。


 でも、戻った。


 俺はさっきやったことを思い出そうとした。


 持ち上げたのか。


 ずらしたのか。


 傾けただけなのか。


 結果だけが分かって、途中が曖昧だ。


 自転車に初めて乗れた時も、どうやってできたかと聞かれたら困っただろう。


 それに近い。


 もっとも、今回の俺は自転車ではなく道路の方だ。


 あまり考えたくない。


 もう一度試そうとしたが、さっきより意識を絞りにくくなっていた。


 身体の内側にある、名前の分からない何かが薄くなっている。


 肩が凝るとか、腕がだるいとかではない。


 考えた先まで、力が届かなくなる。


 残量の見えない電池みたいだ。


 あと何回できるのか。


 全部なくなったらどうなるのか。


 そこを試す気にはなれなかった。


 休むことにした。


 床の上を、虫が通った。


 同じ虫なのかは知らない。


 似た大きさと歩き方だった。


 張りの残っていたあたりを避けるように歩いていく。


 避けてくれて助かった、と虫相手に考えてから、さすがにどうかと思った。


 話す相手が欲しいらしい。


 虫は石にぶつかり、その横を回った。


 何の苦労もなく。


 俺がずっと動かそうとしている石なんて、あいつにはただの障害物でしかない。


 ちょっと押してくれないか。


 もちろん伝わらない。


 虫はそのまま穴の方へ消えた。


 俺は、あいつがいなくなった場所をしばらく感じていた。


 外へ出られるものがいる。


 俺は出られない。


 その差が、今日はやけに腹立たしかった。


 石を動かしたからといって、外へ行けるわけではない。


 分かっている。


 でも、ずっと動けないままなのは嫌だった。


 何かを変えたかった。


 俺がやったから、少し前とは違う状態になったものが欲しかった。


 それが、小石一つでも。


 穴から流れ込む空気の感覚が変わり、やがてまた戻った。


 俺はそれを一日進んだことにした。


 本当に一日かは分からない。


 俺の数え方が正しい保証もない。


 それでも、何も数えなければ、どれだけここにいるのか分からなくなる。


 食べてもいない。


 水も飲んでいない。


 それなのに、まだ考えていられる。


 そのことについては、今は置いておいた。


 石一つも動かせないのに、自分の生き方まで一度に調べられない。


 少し休んでから、元の石へ意識を戻した。


 今度は、すぐに動かそうとはしなかった。


 まず、石がどう置かれているのかを調べる。


 床に触れている範囲。


 重さがかかっている場所。


 周囲の凹凸。


 片側は浅くくぼんでいる。


 反対側には、ほんのわずかな高まりがある。


 石の底も、均等に床へ触れているわけではない。


 今まで、石があるということしか気にしていなかった。


 置かれている向きも、引っかかる場所も確かめず、動けと考えていた。


 それは無理だ。


 俺は、動かす前の状態を覚えることにした。


 水気のない床の端。


 小さな粒の並び。


 石が触れている場所。


 一度注意を外して、戻す。


 同じ場所を探せるか確かめる。


 これがずれていたら、動いたかどうかすら分からない。


 何度か繰り返すうちに、同じ接触を見つけられるようになった。


 これなら、動く前と後を比べられる。


 次は、持ち上げないことにした。


 重いものを運ぶ時、持ち上げる必要があるとは限らない。


 転がせるなら転がす。


 滑らせられるなら滑らせる。


 石は床の小さなくぼみに引っかかっている。


 それなら、片側だけ高くすればいい。


 下を全部押す必要はない。


 石の端。


 そのすぐ下。


 そこに、ごく小さな出っ張りを作る。


 同時に、少し離れた場所を浅く引く。


 盛り上げる分を、そちらから持ってくるつもりだった。


 正しいやり方かは知らない。


 少なくとも、何も考えずに押すよりはましだろう。


 力を入れた。


 床の一部が詰まったように重くなる。


 それを感じながら、少し離れた場所を緩める。


 同時にやろうとすると、すぐに意識が崩れた。


 だから、ほんの少しずつ交互にする。


 押す。


 緩める。


 押す。


 待つ。


 変わらないように感じる。


 でも、やめなかった。


 急いで強く押しても、床に張りが溜まるだけだ。


 今度は、変化が伝わるのを待った。


 床の張りが、石の端へ届く。


 重さが片寄る。


 ここだ。


 俺は今度こそ、そこから意識を離さなかった。


 そのまま。


 もう少し。


 どこかにあるはずの歯を、食いしばりたくなった。


 顎がないので、代わりに頭の中で悪態をついた。


 動け。


 動けよ。


 押す場所を広げない。


 それだけを考え続けた。


 石の底が、こすれた。


 かすかな振動があった。


 そして、重さの位置が変わった。


 俺はすぐには喜ばなかった。


 前も、そこまではできた。


 力を抜く。


 床の張りがほどけていく。


 横へ作った浅いくぼみは、そのまま残った。


 石も。


 元の位置へは戻らなかった。


 移った。


 俺は、さっきまで石が触れていた場所を確かめた。


 わずかな範囲だけ、重さがない。


 新しく重くなったところがある。


 本当に動いた。


 どれくらいだ。


 測るものなんかない。


 けれど、床への接触のずれだけは、はっきりしていた。


 ほんの少し。


 目で見たら、気づかないかもしれないくらい。


 一ミリ。


 人間の感覚に無理やり直せば、それくらいだった。


 たった一ミリ。


 図面の縮尺によっては、線の太さに埋もれるような差だ。


 でも今、俺はその一ミリのために、どれだけ時間を使ったのかも分からない。


 何度も失敗した。


 床の感覚が鈍って、休んで、また試した。


 それでも最後には、違う場所へ移った。


 笑いたかった。


 大声を出して、誰かを呼びたかった。


 見てくれ。


 今の、見てたか。


 誰もいなかった。


 穴へ消えた虫すら、戻っていない。


 それが少し残念で、でも、たいしたことではなかった。


 俺が分かっている。


 動かす前の場所も、今ある場所も、俺には分かる。


 何でもできるようになったわけではない。


 次に同じことをやっても、また失敗するかもしれない。


 それでも、何も変わらなかった部屋に、変わったものが一つある。


 俺は石の重さを、もう一度確かめた。


「……動いた。」

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