三メートル四方の俺
虫が止まった。
それだけのことなのに、俺は困った。
ついさっきまで、あいつの小さな脚だけが、ここに何かあることを教えてくれていたからだ。
止まっていても重さは残る。ただし、気を抜くと分からなくなるくらい薄い。
そこへ意識を寄せた。
虫の重さを、見失わないようにする。
今はそれだけに集中した。
虫の下には硬い面があった。
俺に触れているのは、その硬いものなのか。それとも、その上にいる虫なのか。
順番に考えればいい。
俺の身体。
その上に何か硬いもの。
さらに、その上に虫。
事故の後、瓦礫に埋まっているのなら、それで説明できるかもしれない。
そうだ。埋まっている。
その考えに、少しだけ安心した。
状況は最悪だが、少なくとも知っている言葉で言える。
けれど、虫がまた動き出した途端、安心は終わった。
遠い。
身体のすぐ上から、腕を伸ばしても届かないような場所へ進んでいく。
なのに接触は、さっきと同じ近さで伝わってくる。
皮膚を引っ張られているわけでもない。
痛みもなかった。
俺は、移動する感触の後を追った。
何かの角へ来た。
虫はそこで止まったり、脚の置き場を変えたりして、それまでとは別の面へ移った。
曲がり角だ。
さっきも通った気がする。
今度は、そこに意識を置いたままにしてみた。
虫は先へ進む。
置き去りにした意識の方には、角が残った。
分かる。
虫がいなくても、そこが折れ曲がっていることは分かる。
それまでは、自分を起こしている小さな刺激だけに気を取られていたらしい。
何も触れていないところにも、薄い感覚が続いていた。
ひどく変だった。
目を閉じて、自分の肘の位置を確かめる時に少し似ている。触っていなくても、曲がっているか伸びているかは分かる。
ただ、その肘が長すぎた。
しかも、何か所もある。
「……落ち着け」
返事のない言葉を考えてから、俺は一つずつ確かめた。
一番下だと思う面。
そこから立ち上がる面。
上の方で、さらに曲がる。
上にも同じような硬い広がりがある。
床。
壁。
天井。
試しに、そう呼んでみた。
すると少し楽になった。
正体が分かったわけではない。分からないもの全部に名前がない状態より、ましになっただけだ。
床には細かい凹凸があった。
壁はまっすぐではない。
天井だと思ったところは、真ん中がわずかに高い。
六つの平らな板でできた箱ではなかった。
角を追っていくと、片側だけ感覚が途切れている場所があった。
穴。
俺はそちらへ意識を集中した。
縁は分かる。
その向こうは分からない。
壊れてできた穴というより、そこだけ最初から何もないような感じだった。
外につながっているのか。
ただ、入口と呼ぶには小さすぎる。
人間が通れるような大きさではない。虫なら通れるかもしれないし、空気も抜ける。その程度の開口だった。
そこから、時々冷たさが流れてくる。
流れたものが床をなぞり、虫の脚とは違う、広く弱い触れ方をした。
風。
空気が動いているのかもしれない。
息はできないのに、風らしいものは感じる。
人間の皮膚で感じていた冷たさとは少し違う。ただ、周囲と何かが変わったことは分かった。
俺の方がおかしいのか、周りがおかしいのか。
たぶん両方だ。
とりあえず、全部おかしい。
穴へ向かって、また呼びかけようとした。
「すみません」
何も出ない。
外につながっていると分かっただけで、誰かに届く気がしてしまった。
あの向こうに、人がいるかもしれない。
ここが病院なら、看護師が通るだろう。事故現場なら、救助の人がいるかもしれない。
けれど、そもそも人が通れる穴ではない。
期待するだけ無駄か。
俺は穴から意識を離し、もう一度、自分がいるらしい空間を確かめた。
空間の縦横には、何となく長さの感じがある。
正確な尺度はない。
ここへ来る前の身体の感覚を、無理に重ねてみる。
大股で数歩。
大人が二人、両手を広げたらぶつかるくらい。
3メートル四方。
そう考えると、一番近い気がした。
高さも似たようなものだろうか。
いや、こっちは少し怪しい。
測ったわけじゃない。
見当違いかもしれない。
仕事でそんな寸法を出したら、現地でもう一回測れと言われる。
その通りだ。
測る手と、道具をくれ。
場所を呼び分けることにした。
穴のある壁。
その向かいの壁。
水気の残る隅。
小石のある床。
右と左は使いづらかった。
頭も目もないせいで、どちらを向いているのかという基準そのものがない。
正面も同じだ。
俺が意識する方向を変えれば、正面も一緒に変わってしまう。
だから、動かないものを基準にした。
あの穴は一つしかない。
少なくとも今のところは。
穴のある壁。
その向かい。
それなら、何度確かめても同じ場所へ戻れた。
床の端から端までを、何度も追った。
まるで図面の線を指でなぞるようだった。
俺は設備の人間だ。
部屋があれば、水をどこへ通すか、空気をどこから入れるかを考える。
だから、これを部屋だと思いたかっただけかもしれない。
でも、他の説明が見つからなかった。
しばらくすると、虫は床へ降りた。
壁から床へ移る瞬間、接触が二つの面に分かれた。
そこで、分かってしまった。
俺は壁を感じているんじゃない。
壁に触れた脚を、直接感じている。
床でも同じだった。
重さがそのまま来る。
硬い面を隔てて身体へ伝わる、という一段がない。
床に押しつけられているはずの背中を探した。
ない。
頭があるはずの場所も探した。
どこにもなかった。
部屋の隅なら、何か俺らしいものが転がっているだろうか。
身体の輪郭か。
服の布地か。
床を端から端まで確かめた。
虫。
砂らしい細かな粒。
小さな塊。
人間一人分の重さはなかった。
いない。
この中に、俺がいない。
その言葉が浮かんだ途端、考えるのをやめたくなった。
誰がそう考えているんだ。
俺だろ。
俺はここにいるだろ。
いるということだけは分かる。
分かるのに、どこにもいない。
穴から空気が入った。
広く、弱い感覚が床をなぞっていく。
俺は手を伸ばそうとした。
外へ。
とにかく、あの穴へ。
何も起きない。
右手を伸ばす。
腕を上げる。
肘を。
肩を。
知っている動かし方を、順番に思い浮かべた。
分からなかった。
動かないことより、動かし方がないことが怖かった。
普段、どうやって指を曲げていた?
曲げようと思えば曲がった。
筋肉の場所なんか、いちいち確認していなかった。
今は、その当たり前が全部切れている。
俺は必死に右手を探した。
その時、壁の一か所が軋んだ。
ごく弱い振動だった。
驚いて意識が途切れる。
すると振動も止まった。
虫のものではない。
虫は、まだ床の端にいる。
今、俺がやったのか。
同じことをしようとしてみた。
右手を動かす。
動かない。
さっきと同じつもりなのに、壁は静かだった。
腹が立った。
こういう、たまたま一度できただけの現象が一番困る。
再現できないなら、何が原因か分からない。
ああ、違う。
そういう仕事の話じゃない。
けれど、仕事のように考えている間だけは、怖さが少し離れた。
壁。
どの壁だった。
穴の脇にある面。
その途中の、少しざらついたところ。
そこへ注意を向けると、薄い張りのようなものがあった。
固い。
動かそうとしたから、余計に固くなったのかもしれない。
もう一度、伸ばすつもりで力を入れる。
小さく軋んだ。
今度は間違いなかった。
手ではない。
壁だ。
俺が右手を探すと、壁の一部が応じる。
「……なんだよ、それ」
笑おうとして、笑えなかった。
喉も口もないのだから、そりゃそうだ。
ただ、怖がるのにも少し疲れていた。
何度も同じところへ戻っている。
正体を考えていても、穴は広がらない。
今は、応じた場所が一つある。
分からないなら、一個ずつ確認するしかない。
壁に力をかける。
やめる。
かける。
やめる。
弱い振動だけだった。
形が変わったと言えるほどの違いは、まだ感じ取れなかった。
それでも、やったことに何かが返ってくる。
俺は初めて、その順番をつかめた気がした。
どれほど続けたのか分からない。
途中から、思考の端が薄くなってきた。
眠いのとは違う。
昼飯を抜いて働いた時のような、力が入らない感じに近かった。
腹は減らない。
空腹という場所も、もうない。
それでも、これ以上はやらない方がいいと思った。
壁を放した。
何も変わらなくなった部屋に、虫だけが動いていた。
俺が動かしたせいで驚かせたのか、さっきとは違う隅へ向かっている。
虫に嫌われるところから始めるのか。
いや。
あいつが俺をどう思うかなんて、分かるわけがない。
たぶん、そこに通れる場所があっただけだ。
そういうものだろう。
穴から伝わる感覚が、少し変わった。
流れ込む空気が、さっきよりわずかに温かくなった気がする。
どれくらい経ったのかは分からない。
やがて、それがまた冷たくなった。
外で何かが一巡したのかもしれない。
朝と夜。
そう考えるには、根拠が薄い。
それでも、時間を測るものが他にない。
一日。
とりあえず、そう数えることにした。
時計がないので、本当に一日かは知らない。
何も数えなければ、どれだけここにいたのか分からなくなる。
それが嫌だった。
神谷悠真。
29歳。
昨日まで――いや、その前かもしれないが、会社員だった。
そこまでは変えない。
床に、小さな塊が一つあった。
虫よりずっと重く、動かない。
石だと思う。
俺はそれに注意を向けた。
石の下だけ、床に圧力がある。
つまり、石そのものは床とは別だ。
どこまでが俺で、どこからが俺でないのか。
その境目が、少しだけ分かった気がした。
石の中は分からない。
底が触れているところだけが分かる。
一方で、壁の凹凸は何も触れていなくても分かる。
それなら。
もう避けようがなかった。
「……俺、この部屋なのか?」
問いかけても、当然返事はなかった。
けれど、否定してくれるものもなかった。
床も。
壁も。
天井も。
3メートル四方くらいの、硬い広がり。
そこ全部から、同じように感覚が来ている。
死んだ後に別の何かになる、なんて話は聞いたことがある。
それでも普通、部屋は候補に入らないだろ。
俺は小さな穴を感じた。
その向こうは、やっぱり何も分からない。
外へ出たい。
なのに、部屋そのものが俺かもしれない。
どうすればいいんだ、それ。
しばらく考えたが、いい言い方は見つからなかった。
「転生したら……部屋?」
まだ生まれたです。
よろしくお願いいたします。




