転生したら迷宮でした
最初に聞こえたのは、水の音だった。
雨のような音だと思った。ただ、ここは地下2階だ。天井の上には、配管と床と、まだ内装の入っていない建物がある。
顔を上げると、通路の奥で作業員が振り返った。その足元を水が越えた。
「止めて!」
誰かが叫んだ。
何を、と聞く前に照明が落ちた。
数秒遅れて非常灯がついた。赤みを帯びた灯りの下で、床の水だけが妙にはっきり光っている。排水口へ向かっていた細い流れが、途中で向きを変えた。
排水が追いついていない。
俺は手にしていた図面を丸めた。しまう場所を探して、そんな場合ではないと気づく。
「階段へ。東側の階段、まだ使えます!」
声を出すと、近くの二人が動いた。その背中を追いながら、腰のライトをつける。足元に転がっていた延長コードをまたいだ。水はもう作業靴の底を隠していた。
工事中の地下設備区画。引渡し前の確認に来ただけだった。
配管の位置を見て、図面に赤を入れて、帰ったら修正を頼む。それで終わるはずの日だった。
警報が鳴っている。無線から、途切れた声が重なって聞こえた。
流入口の位置も、ポンプが止まった理由も分からない。
分からないものは後だ。今は出る。
防火扉の前で、資材の台車が斜めになっていた。作業員と二人で押しのける。濡れた車輪が滑り、俺のすねに台車の角が当たった。
痛い。
それで少し落ち着いた。
状況が大きすぎると、頭がうまく追いつかない。すねが痛いくらいのことなら分かる。
「通れます。先に」
最後の一人を扉の向こうへ押し出した。階段を上る足音が続く。上から誰かが人数を数えていた。
俺も足をかけたところで、数える声が止まった。
「設備の若い人は?」
息を切らした男が、階段の下を見た。
尋ねられているのは、さっきまで俺の後ろにいた後輩のことだ。
そういえば、いない。
俺は無線の送信ボタンを押した。名前を呼ぶ。応答はない。
もう一度呼んだところで、雑音の向こうに短い声が入った。
「……西の、機械……」
途切れた。
西の機械室。
今日、点検に入った場所だ。扉の位置も、そこへ続く通路も知っている。
知っているだけだ。
階段の上から、戻るな、と誰かが言った。
その通りだった。
こういう時は自分まで取り残されないことが大事だ。俺は救助の訓練を受けていない。設備の図面が読めることと、人を助けられることは違う。
通路から、水が階段へ流れ込んできた。
戻るなら今しかない、と考えた自分に腹が立った。
今でも遅いかもしれないだろ。
「神谷さん!」
呼び止められた。
俺は階段の手すりから手を離した。
「場所、分かるんで」
それだけ言って戻った。
格好をつけたかったわけじゃない。誰かが行かなきゃいけない、とまで思ったわけでもない。
さっきの声が、無線の向こうに残っていた。
短くて、聞き取りにくくて。
返事をしたのに届かなかったかもしれない声だった。
「……くそ」
水の中を進む。
走ろうとして、足が取られた。壁へ手をつく。ライトの光が天井へ跳ね、吊られた配管の影が大きく揺れた。
図面なら一本の線だ。
実際の通路には、箱も、脚立も、養生材もある。
足を確かめながら進むしかない。
角を曲がると、倒れた作業灯が水の底で消えていた。その先の扉が半分だけ開いている。
「おい!」
返事の代わりに、金属を叩く音がした。
機械室の脇で、後輩が床に座っていた。倒れた仮設の棚に、片足を挟まれている。棚そのものは大きくない。けれど横になった資材が引っかかって、一人では動かせなかったらしい。
「すみません」
最初の言葉がそれだった。
「謝るの後。手、動く?」
「はい」
「じゃあ、ここ持って。俺が上げたら抜いて」
腰を落として棚の端をつかんだ。
持ち上がらない。
思っていたより重い。
俺の腕は図面を持つための腕で、普段から重いものを上げているわけではない。
息を吸って、もう一度。
棚が少し浮いた。
「今!」
後輩が身体を引きずる。
足が抜けたのを確かめてから、棚を落とした。水が顔まで跳ねた。
「立てるか」
「……たぶん」
立たせてみると、たぶんでは済まなかった。右足に体重をかけた途端、膝が折れた。
肩を貸す。
背中が重い。濡れた作業着が腕に張りつく。
元の通路へ出ると、水がさっきより速かった。ライトを向けた先で、養生板が流されてきた。板は角にぶつかり、そこから先の暗がりへ消えた。
あっちは無理だ。
西側にも階段はある。ただ、そこへ抜けるには、資材置場になっている連絡通路を通る必要があった。
今日の午前中、通った。
閉鎖されてはいなかった。
それ以上の保証はない。
「こっち」
後輩を支え直して、機械室の裏へ回った。
途中、図面が脇から落ちた。水に触れた紙が開き、赤で引いた線が見えた。
拾わなかった。
扉は開いた。
それだけで、笑いそうになった。
暗い通路の向こうに、階段を示す誘導灯がある。
人の声もした。
「人、います!」
俺が叫ぶと、向こうの灯りが動いた。
あと少しだった。
後輩の足をかばいながら進んだ。右肩がしびれている。水が膝を打つ。彼の息が、耳元で何度も引っかかった。
「もうちょい」
言いながら、自分にも聞かせた。
大きな音がした。
最初は頭の上だと思った。
振り返る暇はなかった。
背中を押され、身体が前へ倒れた。後輩をつかんでいた腕が外れる。俺は反射的に、目の前の背中を向こうへ押した。
誰かの手が伸びた。
後輩の作業着をつかむのが見えた。
それから、俺の脚に何かが当たった。
床が近づいた。
水が口へ入った。
立とうとする。
左脚が動かない。
ライトの光の中に、崩れた資材と金属の枠があった。どこで引っかかっているのか、よく分からなかった。
分からないと外せない。
腕を伸ばした。
指先が届かない。
さっきまであれほど役に立った通路の位置も、扉の向きも、今の俺には何の助けにもならなかった。
「神谷さん!」
後輩の声がした。
向こうにいる。
階段の方だ。
よかった。
少なくとも、あいつは届いた。
水が顎まで上がった。
息を吸うために首を伸ばす。ヘルメットの縁が何かに当たる。邪魔だったが、外すための手を脚から離したくなかった。
もう一度引いた。
駄目だった。
通路の向こうで、誰かが何かを引きずっていた。
金属の擦れる音。
助けるための道具を探しているのかもしれない。
俺はその音に合わせて脚を引いた。
駄目だった。
向こうからライトが向けられた。
眩しくて、目を細めた。
「ここ、脚が」
言い終わる前に、流れてきた水が唇へ当たった。
腕を上げて場所を示す。
その手が震えていた。
俺がここにいることは、分かってもらえている。
それでも、届かない。
知られていれば助かると思っていた。
声が届けば、誰かが何とかしてくれると。
その先にある距離を、俺は初めて見た。
ほんの数メートルだった。
怖い、と思った。
それまでも怖かったはずなのに、今になって、その言葉だけがはっきりした。
まだ29だ。
こんなところで終わるつもりなんてなかった。
明日の予定があった。
返していない連絡もあった。
机の上には、今日中に片づけるはずの仕事が置いてある。
どれも、もうどうでもいいことになりそうだった。
向こうで名前を呼んでいる。
返事をしようとして水を飲んだ。
胸が勝手に空気を求めた。
それが嫌で、口を閉じた。
あいつの声は、まだ聞こえる。
なら、まあいい。
……やっぱ、人と関わるのって面倒だな。
そう思ったところで、音が遠くなった。
…………暗い。
目を開けようとした。
開かなかった。
まぶたが重いという感じではない。
力を入れる場所が分からない。
水の中だろうか。
そう思って息を止めた。
止めてから、おかしいと気づいた。
その前に、息をしていた覚えがない。
吸おうとする。
胸を広げる。
鼻から、あるいは口から。
何も起きなかった。
なのに苦しくならない。
これは、どういう状態だ。
助かったのか。
運ばれて、どこかで寝かされているのかもしれない。
麻酔。
そういうものなら、身体が動かないこともあるのだろうか。
いや、医学の知識なんてない。
聞きかじりをつなげても分かるわけがない。
とりあえず手だ。
指一本でも動けば、何か変わる。
右手を握ろうとした。
握れない。
左手も。
足も。
さっき挟まれた脚は、痛くなかった。
すねをぶつけたところも。
後輩を支えた肩も。
痛くないのはありがたい。
ありがたいはずだった。
なのに、急に怖くなった。
痛む場所がない。
力を入れる場所もない。
右手を動かせないのではなく、右手がどこにあるか分からない。
「誰か」
声を出したつもりだった。
返ってくるものがない。
自分の声も、喉を震わせた感じもなかった。
「誰か、いませんか」
叫ぼうとしても、何も震えない。
返事を待つより先に、自分の声がどこにも出ていないことが分かった。
暗い。
それだけだった。
目を閉じている時の暗さなら、知っている。
寝室で電気を消せばいい。手を顔にかざしても見えない夜だってある。
でも、その暗闇には自分がいた。
布団に触れた背中も、枕に沈んだ頭も、足先の重さもあった。
今は、何もない。
何もないまま、考えている。
まずい。
何がまずいのかは分からない。
分からないなら、確認するしかない。
俺は神谷悠真だ。
かみや、ゆうま。
29歳。
会社員。
設備の設計をしている。
今日、地下の現場に行った。
水が出た。
電気が消えた。
後輩を――。
そこまで考えて、やめた。
やめても、水が口に入った感覚は残った。
息を吸おうとして吸えなかったことも。
あれで助かったのか。
分からない。
助かっていないなら、今のこれは何だ。
考えても、事故の最後へ戻るばかりだった。
なら、今あるものを一つずつ確かめるしかない。
意識を向ける、という言い方しかできないことをした。
すると、かすかな冷たさがあった。
どこに、と聞かれると困る。
右側でも左側でもなかった。
広い範囲が、薄く冷たい。
そこへ、別の感覚が触れた。
小さい。
針でつつくより弱い。
爪の先で机をなぞるような、細い振動だった。
それが移動した。
少し止まって、また動く。
一つの点が滑るのではない。細かな接触が、いくつも交互に置かれていく。
脚だろうか。
虫。
そう考えると、急にそれらしく感じた。
小さな虫が、どこかを歩いている。
見えない。
姿も大きさも分からない。
それでも、歩いているということだけは妙にはっきり伝わった。
よかった、と思いかけた。
何がよかったんだ。
虫がいるだけだろ。
それでも何もないよりはましだった。
俺以外の何かが、ここにいる。
小さな脚の感触を追った。
端に着いたらしい。
いったん止まり、身体の向きを変えるように接触が乱れた。
そのまま、上へ進んだ。
上。
そう感じた理由は分からない。
けれど確かに、さっきまでとは違う面を歩いていた。
俺は首を動かそうとした。
動かない。
当然だ。
さっきから一度も動かせていない。
虫は止まらなかった。
細かな接触だけが、途切れず続いている。
おかしかった。
音を聞いているのではない。
水の中で聞いた、あの遠い声とも違う。
触られている。
なのに背中でも、腹でも、腕でもない。
虫が場所を変えるたび、触られる場所も変わる。
その広がりが、知っている身体の形に合わなかった。
もっと広い。
俺が横になって、その上を歩かれているにしては、広すぎる。
「……いや、待て」
声にならない言葉が浮かんだ。
虫の脚が、また一つ置かれた。
その下の硬いものに、確かな感触があった。
今、こいつ……。
俺の上を歩いてないか?




