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迷宮

『水』


 意味が来た。


 耳で聞いた言葉ではなかった。


 何と発音したのかも分からない。ただ、水を指す意味が、俺から送った時とは逆に届いた。


 その日、俺は初めて、彼女からの返事を受け取った。


 床に置かれた手。


 俺が何度も示してきた冷たいもの。


 その上へ、何かが返ってきた。


 水。


 俺の中で言葉に置き換えるなら、それが一番近い。


 驚いて、返事を忘れた。


 少女の指が、床を二度叩いた。


 俺は慌てて、水を意識した。


 手が動く。


 浅いところを指先がなぞる。


 同じものを指している。


 俺たちは何度も、それを確かめた。


 次は床だった。


 少女が手を置くと、短い意味が来る。


 俺は、その場所へ意識を向ける。


『石』


『壁』


『穴』


 うまく届くものと、届かないものがあった。


 袋のそばで作業をしている時も、眠る前に身体が震えた時も、意味は来なかった。


 何か声を出していたのかどうかさえ、俺には分からない。


 俺へ何か伝えるつもりで、手を置いて待つ。


 今のところ、意味が届くのはそういう時だった。


 手が触れるからなのか。


 こちらを意識しているからなのか。


 その違いを確かめるほど、まだうまく通じ合えていない。


 少なくとも、彼女の考えていることが勝手に分かるわけではなかった。


 俺が知りたいことを考えても、答えは来ない。


 当たり前だ。


 会話だって、相手が言わなければ分からない。


 その当たり前が、やっと少し始まった。


『ここ』


 手を置いた場所を指す意味が来た。


 少女は床を手のひらで押し、それから水の方へ指を動かす。


『あなた』


 二つ目は、ひどく曖昧だった。


 誰かを指す感じ。


 ここにいる何かへ向けられた意味。


 俺は、その手が触れている場所へ意識を返した。


『ここ』


 今の俺にできるのは、それくらいだった。


 しばらく、意味も動きも返ってこなかった。


 少女は次に、壁を指先で叩いた。


『ここ?』


 さっきとよく似た意味に、確かめるような感覚が重なっている。


 俺はそちらへ注意を移した。


『ここ』


 手が引かれた。


 また怖がらせたかと思ったが、彼女は逃げなかった。


 床へ手を戻す。


 水。


 壁。


 床。


 順番に確かめる。


 俺も、そのたびに返した。


 分かる場所なら返せる。


 彼女が穴の縁へ手を移し、その先を示した時は、うまく返せなかった。


 外は俺ではない。


 そう説明したかった。


『俺』


『外』


『違う』


 短く分けて送ってみる。


 返事はなかった。


 通じたかどうかも分からない。


 言葉の数が増えれば、話が早くなると思っていた。


 違った。


 増えた分だけ、間違える場所も増えた。


 床のどこへ触れても、俺は返事ができる。


 少女は離れた二か所を交互に叩くようになった。


 俺があちこちへ移動していると思ったのかもしれない。


 触れられた場所へそのたび返すと、今度は別の場所へ手を移す。


 試されているのは分かる。


 でも、答え方が分からない。


 俺はずっと、ここにいる。


 床も壁も、全部俺だ。


 それを伝えようとした。


 強く意識しすぎたらしい。


 少女が手を離した。


 俺は慌てて止めた。


 また、待つ。


 その日の話は、そこで終わった。


 次の冷たい時間を一つ挟んでから、彼女は戻ってきた。


 水のところではなく、部屋の真ん中に手をついた。


『迷宮』


 初めて届く意味だった。


 俺の知っている言葉へ置き換えるなら、たぶんそうなる。


 水や床とは違い、一つのものには絞りきれなかった。


 地面の下にある場所。


 暗いというだけではない。


 中に何かがいる。


 危険。


 入ることそのものに警戒が必要な場所。


 いくつもの意味が重なっていた。


 俺はうまく受け取れず、知っているものを返した。


『洞窟?』


 少女は手を少し動かした。


『違う』


 そして、もう一度。


『迷宮』


 今度は別の意味も重なった。


『危険』


 ここが危険。


 そう言われているらしい。


 俺は、そんなことはない、と言いたかった。


 ないか?


 俺は水を通した。


 床に溝を作った。


 壁も動かした。


 それを人がどう感じるかは知らない。


 ここにいる少女だって、最初は壁が軋んだだけで逃げた。


 危険ではないと、すぐに否定できる材料がなかった。


『なぜ?』


 送ってみたが、うまく形にならなかった。


 少女は少し間を置いてから、一つずつ意味を返した。


『魔物』


『生まれる』


『人』


 そこで一度途切れた。


 そして、


『殺す』


 返そうとしていた意味が消えた。


 殺す。


 それだけは、水の場所を教えた時よりずっとはっきり分かった。


 多分、彼女にとって強い意味を持つ言葉なのだろう。


 迷宮では魔物が生まれる。


 その魔物が人を殺す。


 あるいは、迷宮そのものが人にとって危険だということか。


 そこまでは分からない。


 少女は俺の返事を待っていた。


 俺は、違う、と返そうとした。


 でも、何が違うのかまで伝えられない。


 俺は人を殺さない。


 ここには、魔物らしいものもいない。


 そもそも俺は、自分が何なのかさえよく知らない。


 一度に考えると、どれもぼやけた。


 少女が手を離した。


 駄目だ。


 俺は返事を急いだ。


『違う』


『人』


『殺す』


『違う』


 少女はもう一度、床へ手を置いた。


 長い沈黙があった。


 それから、短い意味が一つずつ来た。


『小さい』


『今』


『あと』


 すぐにはつながらなかった。


 今は小さい。


 あとで何かが変わる。


 さっきの『殺す』と並べれば、成長した迷宮はいずれ人を殺す――そんな意味にも思えた。


 文章を受け取ったわけではない。


 俺が勝手につなげただけかもしれない。


 それでも、その組み合わせは嫌だった。


 そんな育ち方をするつもりはない。


 文句を言いたくなった。


 でも、今の俺たちでは長すぎる。


 俺は穴から来る空気を感じた。


 そもそも、ここはどこだ。


 日本ではないのかもしれない。


 いや、魔物なんてものが本当にいるなら、その可能性はかなり低そうだ。


 ただ、彼女から届く『魔物』が、俺の想像しているものと同じかどうかも分からない。


 俺の知っている言葉へ置き換わっているだけで、中身は違うかもしれない。


 俺はもう一度、『迷宮』を返した。


 少女から、途切れ途切れに意味が届いた。


『地面の下』


『魔力』


『核』


 核。


 その言葉だけが引っかかった。


 会社で使うなら、中心とか、重要部分とか。


 ここではどういう意味だ。


『核?』


 意味が途切れた。


 考えているのだろうか。


 手のひらの重さは、床に残っていた。


 やがて二つの意味が続いた。


『迷宮』


『心臓』


 俺が『核』を返すと、また『心臓』が来た。


 迷宮にとっての心臓。


 そういうことだろうか。


『魔力』も気になった。


 床を動かす時に減っていく、あの感じだろうか。


 水が来て、生き物が増えると、少し満ちるように感じるもの。


 似ているかもしれない。


 でも、まだ同じだとは言い切れない。


 呼び方が分かっただけで、仕組みまで分かった気になるのはやめておこう。


 今はまず、核の方だった。


 俺は自分の内側を探した。


 どこかで脈打っているものはない。


 人間だった頃の胸みたいな場所もない。


 床。


 壁。


 天井。


 新しく広がった部分。


 どこも俺だ。


 力を使いすぎると、全体が薄くなるような感じがする。


 それでも、ここだけが中心だと分かる場所はなかった。


 彼女の知っている迷宮には、核と呼ばれる何かがあるのだろう。


 でも、俺にはそれらしい別のものが見つからない。


 石の中に、さらに石があるわけでもない。


 俺とは別の心臓が、どこかに埋まっている感じもしなかった。


 もし、迷宮が生きている中心という意味なら。


 それは、たぶん。


『俺』


 そう送った。


 少女は床に手を置いたまま、動かなかった。


 通じたのかどうか分からない。


 それから、別の意味が来た。


『見つける』


『壊す』


 俺は、そのつながりを理解したくなかった。


 核を見つける。


 壊す。


『誰?』


 問いを送った。


 少女から、またいくつかの意味が来る。


『探索者』


『兵士』


『教会』


 三つとも、俺の中では完全には形にならなかった。


 外に、そういう役割の人たちがいる。


 迷宮の核を探して壊すことがある。


 今分かるのは、それくらいだった。


 彼女は俺を脅そうとしているのではなさそうだった。


 床に置いた手は、弱く震えている。


 この場所を怖がっている。


 でも、この場所へ隠れなければならない。


 床の端を、小さな虫が通った。


 いつものやつかどうかは分からない。


 少女の手を避けるようにして、水の方へ進む。


 俺は、その小さな重さへ意識を向けた。


『魔物?』


『これ?』


 うまい質問にはならなかった。


 少女は手の近くを少し探り、何かを動かした。


 虫が別の方へ走る。


『虫』


 短く、はっきりした意味だった。


 それは俺も、多分そうだと思っている。


 でも、その虫と魔物は何が違う。


『虫』


『魔物』


『違う?』


 少女はしばらく考えたらしい。


 意味がいくつか来た。


『大きさ』


『魔力』


『危険』


 それだけでは、俺の中で形にならなかった。


 大きければ魔物なのか。


 危なければ、そう呼ぶのか。


 多分、彼女の説明より、俺の受け取り方の方が足りない。


 俺は虫を追うのをやめた。


 ここにいる生き物が全部、人を襲うものではない。


 今は、それが分かればよかった。


 少女も虫から離れると、そのまま水をすくった。


 危険だと思っている場所でも、水は飲む。


 手を洗う。


 眠る。


 矛盾しているようで、していないのかもしれない。


 全部が安全なところがなければ、その中から選ぶしかない。


 俺は、ここなら大丈夫だと分かってもらおうとしていた。


 彼女は多分、ここで今日を過ごせるかを考えている。


 同じ場所にいても、気にしていることが違う。


 床へ戻った手へ、俺は一つだけ返した。


『水』


 もう互いに知っている意味だった。


 少女の指が、静かに二度動いた。


 俺は、穴へ届いた重い振動を思い出した。


 あの時、彼女は奥へ隠れた。


 外も危ないのか。


『危険』


『外』


 短く送ってみた。


 少女の手が止まった。


 今までより長く。


 聞き方が悪かったのかと思った。


 やがて返事が来た。


『人』


 また、その言葉だった。


 俺は、人間なら話ができると思っていた。


 ここへ来てくれたら、何とかなると思っていた。


 彼女にとっては、そうではないらしい。


 外にいる人が怖い。


 中にいる俺も怖い。


 その二つから、少しだけましな方を選んだのかもしれない。


 俺は何も返せなくなった。


 しばらくして、一つ、知らない意味が来た。


『魔族』


 音はない。


 何と発音するのかも分からない。


『人』に近い。


 でも、それだけでは重ならない。


 俺の知っている言葉へ置き換えるなら、そんな呼び方になった。


 少女は自分を示しているらしい。


 俺は、以前壁へ触れた二つの硬い突起を思い出した。


 角。


 頭についているもの。


 飾りではなく、身体の一部なのかもしれない。


 それで追われているのか。


 尋ねたかった。


 でも、まだそうだと決まったわけではない。


 言葉にできたとしても、簡単に聞いていいことなのか分からなかった。


 少女の手が床から離れた。


 今日はもう話したくない。


 そういうことなのだと思った。


 俺は追いかけなかった。


 彼女は奥へ戻った。


 袋らしい重さが、身体のすぐそばへ引き寄せられる。


 水が落ちた。


 いつもと同じ水だった。


 床も、壁も、天井も変わらない。


 ただ、呼び方が一つ増えた。


 迷宮。


 最初は、部屋だと思っていた。


 それから、この場所そのものが俺だと知った。


 今度は、人にとって危険なものだと言われた。


 俺は水の道を確かめた。


 虫が一匹、縁にいる。


 少女が作った薄い寝床には、一人分の重さがある。


 俺がここで何をしてきたかは分かる。


 それでも、他の人が何を怖がるかは別なのだろう。


 今すぐ安心しろとは言えない。


 俺自身、自分が何になるのか知らない。


 少女の背中から、壁へ小さな震えが伝わった。


 声に出して何か言ったのかもしれない。


 でも、発声音声の意味は俺には届かなかった。


 念話も来ない。


 俺は何も返さず、その重さが落ち着くのを待った。


 ここは迷宮。


 そういう場所だとしても、今、俺の中には人が暮らしていた。

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