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追手

 少女が戻ってきた。


 水のそばへも寄らず、奥へ進もうとしている。


 小さな穴へ出たばかりだった。


 外にいた時間は短い。


 手と膝が床へつく。


 次の足が、少し滑った。


 急いでいる。


『来る』


 床へ触れた手から、短い意味が届いた。


 それで十分だった。


 俺は穴へ注意を向けた。


 まだ何もない。


 風が来る。


 濡れた土らしい細かなものが、彼女の足から落ちている。


 それから、重い揺れが来た。


 一つではない。


 何人だ。


 数えようとしたが、重なって分からない。


 少なくとも、少女一人分とは違う。


『奥』


 俺が返せたのは、それだけだった。


 少女は動いた。


 寝床の方へ。


 そこで止まると、袋の重さが消え、敷いていた草が床をこすった。


 俺は、その動きで初めて気づいた。


 人が暮らしている跡がある。


 水のそばには、小さな器のようなもの。


 穴に近いところへ置いた枝。


 床に重なった乾いた草。


 一度でも入ってくれば、何もない岩穴ではないと分かるだろう。


 隠せるか。


 俺は、何もない壁を突然作れるわけではない。


 床を少し傾けるだけでも時間がかかる。


 少女は自分で動いた。


 物をまとめ、奥のくぼみへ寄せる。


 穴からずれた、張り出しの向こう。


 外から姿が見えないかどうかは、彼女の判断に頼るしかなかった。


 少女が隠れた後も、俺は一度だけ迷った。


 外の相手を、俺は知らない。


 言葉も分からない。


 ここで転ばせたり、石を落としたりしていいのか。


 そう考えた時、壁に触れた少女の手から短い意味が来た。


『隠れる』


『人』


『嫌』


 つながった言葉ではなかった。


 それでも、穴から離れようとする手の動きと重なった。


 ここにいることを知られたくないのだろう。


 俺は、その手を感じた。


 何週間も、この床で眠っていた。


 痛む足をかばいながら、水のところへ来ていた。


 知らない相手の事情を、何もかも決めつけることはできない。


 それでも、今ここで隠れている人を、勝手に差し出すこともできなかった。


 俺が決めるのは、その程度でいい。


 相手が中へ入れなければ、まずはそれでいい。


 傷つける必要はない。


 俺は、彼女が隠れているくぼみを意識した。


『ここ』


 それだけ返して、穴へ注意を戻した。


 彼女の手が、一度だけ壁を押した。


 床を大きく動かすつもりはなかった。


 穴を狭めれば、相手だけでなく彼女の逃げ道もなくなる。


 部屋を揺らせば、隠れているところにも響く。


 あれも駄目。


 これも駄目。


 できないことを除いた後に、小さいことがいくつか残った。


 俺は穴のすぐ内側の床を確かめた。


 自分になった床が、低い穴の外側まで少し続いている。


 少女がここへ来てからも、休む間に少しずつ広げてきた。


 でも長くはない。


 その床へ、靴の重さが乗った。


 強く。


 ためらいなく。


 靴の圧力とは別に、壁へ細かな震えが伝わった。


 誰かが声を出しているのかもしれない。


 けれど、発声音声の言葉も調子も、俺には分からなかった。


 壁に触れていた少女の背中から、小さな揺れが伝わらなくなった。


 息をひそめたのだろうか。


 俺は、あの最初の日を思い出した。


 何もできなかった。


 壁を動かそうとして、彼女を驚かせただけだった。


 今日も、大したことはできない。


 でも、何も知らなかったあの時とは違う。


 床がどこへ傾いているか。


 どの石が独立して載っているか。


 どこを動かすと、どこへ力が逃げるか。


 少しだけ分かる。


 俺は穴のすぐ内側へ注意を絞った。


 高い縁がある。


 最初に少女が転がり込んだ場所だ。


 その先へ水が少し染みている。


 俺は、石の縁を支える床へごく弱い張りをかけておいた。


 足が来てから準備するのでは間に合わない。


 歩く人は、足を高く上げる必要がある。


 入った直後は、まだ頭を低くしているはずだ。


 はず。


 見えない。


 図面で考えるようにはいかなかった。


 靴が離れた。


 入ってこないのか。


 次に、硬い先が床へ触れた。


 接触する場所が、少しずつ奥へ移る。


 棒か。


 剣か。


 先が左右に動いた。


 確かめている。


 相手も、いきなり入ってくるほど馬鹿ではないらしい。


 当たり前だ。


 彼女の話では、ここは危険な迷宮だ。


 入る前に足元を調べる。


 つつく。


 まともなことをしている。


 その先が水の溝へ触れた。


 そこで止まった。


 穴の縁へ、短い震えが続いた。


 足が止まったまま、何か声を交わしているのかもしれない。


 まずいのか。


 水があることを見つけただけかもしれない。


 人工の溝だと思ったのかもしれない。


 俺には、どちらも分からない。


 少女の指が、壁を弱く押した。


 念話は来なかった。


 言葉にしようとしていないのか。


 それとも、怖くてそこまで意識が回らないのか。


『奥』


 俺はもう一度送った。


 伝わったかどうかは分からない。


 彼女は動かなかった。


 硬い先が引かれた。


 続いて、手が穴の縁にかかった。


 入ってくる。


 靴が高い縁を越えた。


 俺は、その少し先の床を押した。


 ほんのわずかだ。


 新しい段差を作れるほどではない。


 元から出ていた小さな石の縁を、少し強く出す。


 さっきから、そこの張りだけは準備していた。


 動け。


 石が傾いた。


 次の足が、そこへ触れた。


 滑った。


 大きな重さが、一気に内側へかかる。


 手が床を叩いた。


 膝も。


 床についた腕から、強い震えが来た。


 俺はすぐに力を抜いた。


 転んだ。


 それだけだった。


 骨が折れたのか。


 頭を打ったのか。


 俺は触れ方を追った。


 手をついている。


 膝を引いた。


 靴を踏み直す。


 立とうとしている。


 よかった。


 そう思ってから、何がよかったんだと思った。


 入ってきた人間を転ばせた。


 多分、少女を助けに来たわけではない相手を。


 それでも、大きな身体が落ちた瞬間、俺は頭を打つなと思っていた。


 自分でも面倒なことを考えている。


 相手は穴へ下がらなかった。


 しばらく床を硬いものでつつき、それから慎重に進んだ。


 同じ手はもう通じない。


 穴のところでもう一つの重さが動いた。


 二人目が、覗き込むように寄っているらしい。


 壁へ熱が触れた。


 じりじりした、細かい熱さだった。


 火か。


 灯りを持ち込んだのかもしれない。


 見える相手には、見えるようになる。


 俺には、何も増えない。


 不公平だろ。


 そう思っても、どうにもならなかった。


 少女のいる張り出しまで、相手の足が近づいてくる。


 濡れた靴底が、床へ交互に押しつけられる。


 俺は、その先のくぼみを感じた。


 彼女の膝。


 手。


 薄い布。


 近い。


 ここから何を動かす。


 床を閉じる。


 そんなことはできない。


 大きく沈める。


 できない。


 壁を倒す。


 そこまで考えて、ぞっとした。


 倒れたら少女も巻き込む。


 相手だって、どうなるか分からない。


 大きなことはできない。


 できたとしても、やっていいことではない。


 俺は穴と反対側の壁へ注意を向けた。


 そこには古い割れ目がある。


 水を探した時に見つけたものだ。


 隙間に、小さな石が挟まっている。


 石そのものは俺ではない。


 直接動かすこともできない。


 でも、それを支えている割れ目の縁は俺だ。


 そこを少し緩めれば、重さで落ちるかもしれない。


 ただ、落とすだけ。


 誰かの頭の上ではない。


 俺は、石を支えている壁の縁を少しずつ緩め始めた。


 遅い。


 相手が一歩進む。


 間に合え。


 壁へ力を入れると、床の方へ注意を残すのが難しくなった。


 どっちも見ていないといけないのに。


 少女が動いた。


 ほんの少し、膝を寄せた。


 衣服が岩に擦れる。


 相手の足が止まった。


 その時、石が落ちた。


 小さいものだった。


 床へぶつかり、一度跳ねた。


 俺には床の衝撃として伝わった。


 相手には、音が聞こえたらしい。


 靴の向きが変わった。


 重さが移る。


 穴の方から、また細かな震えが伝わった。


 相手の足は止まったままだった。


 俺は割れ目のそばを、もう少しだけ軋ませた。


 落とせる石は、もうない。


 今度は壁そのものへ細い震えを作る。


 相手が一歩、そちらへ寄った。


 少女から離れた。


 それだけで、俺は少し楽になった。


 でも、終わっていない。


 相手は部屋を一周するつもりかもしれない。


 落ちたものを確かめれば、ただの石だと分かる。


 ごまかせる時間は短い。


 俺は水の道を思った。


 そこを深くする余裕はない。


 水を大量に出すこともできない。


 自分を、あの事故のような場所にするつもりもなかった。


 小さいことしかできない。


 なら、小さいことを重ねる。


 相手が近づいた壁を、さっきより少し強く軋ませた。


 張りが一点に集まる。


 壁はそれ以上動かず、周りの感覚が鈍り始めた。


 割れた感触はない。


 それでも、このまま続ければ床の足取りまで追えなくなりそうだった。


 すぐに止めた。


 相手の足が引かれた。


 穴の縁へ、不規則な震えが続いた。


 怒っているのか。


 怖がっているのか。


 それを区別する手がかりはなかった。


 少女が、この場所を危険だと伝えてきた時のことを思い出した。


 迷宮。


 この相手にも、そういう場所だと思われたのだろうか。


 確かめるために、もう一度動かす気にはなれなかった。


 俺は壁をそれ以上動かさなかった。


 相手が少しずつ穴へ戻った。


 硬い先で床をつつく。


 足を置く。


 またつつく。


 急がない。


 俺が最初に動かした石を越える時は、ずいぶん慎重だった。


 穴へ着いても、すぐには出なかった。


 足は止まっているのに、細かな震えがしばらく続いた。


 声を出しているのだろう。


 少女の背中が、壁へ強く押しつけられた。


 俺には、その発声音声の意味が分からない。


 彼女には、多分分かる。


 脅されたのか。


 呼ばれたのか。


 聞き返すこともできなかった。


 やがて靴が床から離れた。


 もう一つの重さも離れた。


 振動だけが残り、それも少しずつ遠くなる。


 俺は何も動かさなかった。


 張りの残った壁を今すぐ戻したくなったが、やめた。


 また軋めば、外の相手を呼び戻すかもしれない。


 穴の足場も、そのままにした。


 逃げようとした少女まで転ばせないように、あとで必ず伝えなければならない。


 自分で変えた場所の始末が、まだ残っていた。


 少女も動かなかった。


 最初の日と同じように、待った。


 床へ届く振動が消えただけで終わりではない。


 それは、彼女から覚えた。


 壁の細かな感覚が、まだ戻りきっていなかった。


 広く動かそうとしなかったのに、かなり疲れた。


 もし、あと一歩進まれていたら。


 もし、落ちた石に気を取られなかったら。


 どうなったか分からない。


 勝った、とは思えなかった。


 ただ、まだ少女がここにいる。


 それを何度も確かめた。


 しばらくして、彼女が壁へ手を置いた。


『あなた』


 こちらを確かめるような、短い意味だった。


 俺は返すまでに時間がかかった。


『ここ』


 床。


 石。


 全部俺だ。


 そこまで伝わったかは分からない。


 少女の指が少し曲がった。


『人』


 その後に、輪郭の弱い意味が重なった。


 死。


 外。


 そこまでが彼女から届いたものなのか、俺が勝手につなげたのかは分からない。


 外へ戻った相手のことを聞いているのだろうか。


『違う』


『歩く』


『外』


 最後に靴が離れた場所を意識しながら送った。


 長い間、意味が返ってこなかった。


 安心したのか。


 がっかりしたのか。


 どちらかだと決めることはできなかった。


 追ってきた相手が生きている。


 それは、また来るかもしれないということでもある。


 俺が怪我をさせたくなかったことは、彼女の安心と同じではない。


 そのことが、遅れて分かった。


 少女は床の上の袋を引き寄せた。


 周りの小さな重さが一つずつ消え、袋の重さが増していく。


 荷物をまとめているらしかった。


 俺は、それを止める言葉を、まだ持っていなかった。

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