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出ていけばいい

 床に散らばっていた小さな重さが、一つずつ消えた。


 そのたびに、袋の底へかかる重さが増える。


 敷いていた草は残った。


 水のそばの器は、なくなった。


 出ていくのだろう。


 聞かなくても、それくらいは分かった。


 少女は何度も手を止めた。


 袋の底が動き、また止まる。


 床の小さなものに指が触れても、すぐには重さが消えなかった。


 迷っているのかもしれない。


 俺も、何も言わなかった。


 追手は去った。


 俺の分かる範囲には、彼女以外の人間の重さはない。


 けれど、それは外に誰もいないという意味ではなかった。


 少女は、そのことを俺よりよく知っている。


 穴へ行っては戻り、荷物を確かめ直していた。


 ここにいては危ないのだろうか。


 だったら、出た方がいい。


 俺が寂しいからという理由で、引き止めるわけにはいかない。


 そう考えると、話は簡単になった。


 元気になったら出ていけばいい。


 もともと、そういう場所だ。


 雨をしのぐ。


 水を飲む。


 怪我した足を休める。


 岩穴なんて、そのくらいでいいはずだった。


 少女が床へ手を置いた。


『ごめんなさい』


 謝っている。


 その一つだけは、はっきり届いた。


 何に謝っているのかまで分かるわけではない。


 俺は返事を考えた。


 何に。


 何が悪い。


 短くしようとすると、言いたいことが崩れる。


 彼女は続けた。


『人』


『ここ』


 追手のことだろう。


『私』


 そこで意味が乱れた。


 怖さと、何かを終わらせたいようなものが重なっている。


 俺が勝手にそう受け取っただけかもしれない。


 彼女が伝えようとしていないことまで、分かるわけではない。


 だから俺は待った。


 少女は、ゆっくり伝え直した。


『出ていきます』


 今度は、ばらばらにならなかった。


 誰がどうするのか、短い一つの意味になって届いた。


 来た。


 予想していた言葉だった。


 なのに実際に届くと、少しだけ困った。


 分かった、と返せばいい。


 外で気をつけて。


 そういうことまで言えたら、なおいい。


 それで終わる。


 俺はまた水の道を確かめて、虫が来るのを待てばいい。


 壁を広げることだって続けられる。


 一人なら、自分の都合だけで床を動かせる。


 気楽だ。


 それは本当だった。


 少女がいると、何かをする前に彼女の位置を確かめる必要があった。


 眠っている時は大きな振動を起こしたくない。


 水を止めて何かを直す時も、勝手にはできない。


 ほかの誰かがいるというのは、面倒なことだった。


 人間だった頃と同じだ。


 俺は『分かった』と返しかけた。


 その前に、聞きたくなった。


 どこへ。


 行く場所。


 できるだけ短くまとめる。


『どこへ?』


 意味が途切れた。


 床には、まだ手がある。


 届かなかったのか。


 答えられないのか。


 俺には区別できなかった。


 もう一度、外を意識する。


『外』


『その先』


『行くところ』


 少女から返事が来た。


『山を、越えて』


 届いたのは、そこまでだった。


 山の向こう。


 何がある。


 別の町だろうか。


 知っている人がいるのだろうか。


 俺は、彼女の知っている世界を何も知らない。


 父。


 母。


 家。


 そういうものをまとめて考えてしまった。


 うまく送れなかった。


 少女が手を動かした。


『……家は』


 止まった。


 次は来なかった。


 俺は待った。


 いつもなら、分かりにくいところを彼女が言い直してくれる。


 今はそうしなかった。


 話したくないのだろう。


 俺は、それ以上押さなかった。


 少女の手が床から離れた。


 それから、小さな水滴が落ちた。


 水の溝から離れた場所だった。


 一つ。


 しばらくして、もう一つ。


 俺は、そこを細かく確かめるのをやめた。


 涙かもしれないと思った。


 そうなら、確かめられたくないこともあるだろう。


 袋の重さが床から消えた。


 足へ、それまでより重さがかかる。


 まだ片方をかばっていた。


 最初ほどではない。


 でも、元通りではない。


 その足で山を越える。


 外に、追ってきた人たちがいるかもしれないのに。


 俺は黙っていられなくなった。


『待って』


 今度は届いた。


 少女が止まった。


 俺は、その先を考えた。


 危ないから。


 足が痛むから。


 外に誰かいるかもしれないから。


 どれも、彼女が知らないことではない。


 それでも出るつもりなのだ。


 なぜ。


 俺に迷惑がかかるから。


 そういうことかもしれない。


 だったら、違う。


『違う』


 送ってみたが、それだけでは意味にならなかった。


 何が違うのか。


 出ていくことを止めたいのか。


 荷物を持つなということなのか。


 少女は袋を下ろした。


 ゆっくり、床へ手を戻す。


『壊れた?』


 続けて、いくつかの意味が届いた。


『迷宮』


『壁』


『私のせい』


 俺は、さっき無理をした壁を感じた。


 まだ張りが残り、細かな感覚が鈍かった。


 割れた感触はない。


 押し続けるのをやめてから、少しずつ分かる範囲も戻ってきている。


 彼女が俺を削ったわけでもない。


 俺が、自分でやった。


『俺』


『した』


 送ってみる。


 うまくつながらない。


 言いたいことが多すぎる。


 少女は、また謝った。


 俺は、自分の中にこれだけ言葉があるのに、必要なことを渡せないのが腹立たしかった。


 怒鳴れば伝わるというものではない。


 そもそも、俺には怒鳴る声もない。


 強く念じれば怖がらせる。


 それも、もう知っている。


 俺は一度、何も伝えようとしないことにした。


 水が落ちる。


 少女の手が床にある。


 それだけを確かめる。


 外。


 行く。


 駄目。


 いや、駄目ではない。


 外へ行くなと命令したいわけではない。


 行きたければ行っていい。


 俺の都合で閉じ込めるつもりはなかった。


 ただ、出なければいけないと思っているなら、それは違う。


 俺は、その違いを何度も考えた。


 出ていく。


 必要。


 ない。


 短くする。


 余計なものを削る。


 少女の手へ向けて、一つの意味にまとめた。


『出ていかなくていい』


 少女の指が止まった。


 さっきまでとは違う止まり方だった。


 もう一度、同じ意味を送る。


『出ていかなくていい』


 少女の指が、少しだけ曲がった。


『……でも』


 届いた。


 俺はすぐに返しかけて、やめた。


 最後まで聞く。


『また、来ます』


 それは分かる。


 今日、俺がやったことは、相手を遠ざけただけだ。


 この場所を知られたことは変わらない。


 次は、もっと人数が増えるかもしれない。


 道具を持ってくるかもしれない。


 俺では止められないかもしれない。


 必ず守る。


 その言葉は送れなかった。


 できるか分からないからだ。


 今日だって、あと一歩進まれていたら何もできなかったかもしれない。


 でも、それなら出ていけというのも違う。


 手のそばに柔らかいものが触れ、それから、あの硬い突起の片方が床を軽く押した。


 額を寄せたのだろうか。


『ここが、なくなる』


 それが、彼女の心配だった。


 自分がいると追ってくる。


 追ってくれば、迷宮も壊される。


 だから去る。


 俺は、長い間答えられなかった。


 助けてほしいと言われると思っていた。


 少なくとも、そういう立場にいるのは彼女の方だと思っていた。


 違った。


 この少女も、俺が壊されることを考えていた。


 自分の居場所がなくなるからかもしれない。


 もう一度逃げなければならないのが嫌なのかもしれない。


 そこまでは分からない。


 それでも、俺は初めて、自分のことを誰かに心配されていた。


 人間の身体を失ってから、初めてだった。


『俺は』


 少しだけ届いた気がした。


 その先は、また崩れた。


 俺はここから動けない。


 彼女がいなくなっても、この場所は残る。


 相手が来たければ来る。


 少女一人が消えれば全部元通りになる、とは限らない。


 そこまで説明することは、まだできなかった。


 だから、今伝えられることだけを選んだ。


『ここに、いていい』


 少女は動かなかった。


 俺は、同じ意味を急いで繰り返さなかった。


 届かなかったのなら、聞き返してくれるかもしれない。


 長い時間だった。


 やがて、小さな問いが来た。


『いても、いいんですか』


 それが、ようやく言えた本当の言葉のように思えた。


 俺は返した。


『好きなだけいればいい』


 今度は、途中でほどけなかった。


 何が変わったのかは分からない。


 同じことを短くして、確かめて、相手の返事を待った。


 その積み重ねの先に、短い文をひとまとまりにして渡せた。


 長く説明しようとすれば、まだほどける。


 何でも話せるようになったわけではない。


 声が出たわけでもない。


 それでも少女には、伝わったらしかった。


 袋が床へ置かれた。


 底が床へ触れ、一人分の足の重さが少し軽くなった。


 俺はその感触で、やっと少し落ち着いた。


 それでも、明日の問題がなくなったわけではない。


 少し休んでから、俺は穴を意識した。


『穴』


 少女が床へ手を置き直した。


『閉める?』


『違う』


 閉められないし、閉じ込めたくもない。


『外に出る時』


『先に』


 そこまで送って、少し待った。


『……確かめる?』


 彼女が補ってくれた。


『そう』


 俺は外のずっと先までは分からない。


 見えている人の判断が要る。


 少女は短く答えた。


『いつも、見ています』


 また、知っていることを言っただけだった。


 俺は何か役に立つことを言いたくて、相手がもうしている仕事を、自分が思いついたように話してしまった。


 少し恥ずかしかった。


『俺には、見えない』


 そう伝えると、少女はしばらく黙った。


『全然?』


『外は』


 少し考える。


『中も、目では』


 どこまで伝わったかは分からない。


 けれど彼女は、何度か場所を変えて床へ触れた。


 触れたところが分かる。


 足も分かる。


 だから、何でも知っているわけではない。


 その違いを、少しずつ渡した。


 少女は最後に、こう返した。


『外は、私が見ます』


 頼もしい言葉だった。


 同時に、その役を彼女へ渡すしかないことが少し怖かった。


 それでも俺は返した。


『うん』


 もう一つ、伝えておくことがあった。


 穴のところにある、俺が動かした石だ。


『ここ』


『足元』


 少女の手が一度離れた。


 穴へ寄った足が止まり、硬い先が石の縁をつつく。


 それから、手が床へ戻った。


『避けます』


 今は疲れていて、すぐには戻せない。


 通る彼女に分かってもらうまでが、俺の始末だった。


 袋の底が少し動き、水の器らしい重さが元の場所へ戻った。


 ほかの荷物が広げられる気配はなかった。


 水へ触れた手が離れ、しばらくして足が奥へ戻る。


 いつもの動きだった。


 俺は食べ物を作れない。


 彼女も、それを知っている。


 ここにいていいと決めても、毎日の困りごとがなくなるわけではなかった。


 それでも、荷物を置いたのは彼女だった。


 俺が穴を閉じたからではない。


 それでよかった。


 まだ、怖いのだろう。


 外も。


 ここも。


 明日も。


 全部をなくしてやることはできない。


 俺にできたのは、彼女が荷物を置く場所を、もう一度渡すことだけだった。


 しばらくして、少女が床へ手を置いた。


 短い言葉が届いた。


『ありがとう』


 俺は返事を考えた。


 どういたしまして。


 気にするな。


 別に。


 どれも、少し大げさだったり、冷たすぎたりした。


 結局、一番よく知っている言葉を返した。


『ここ』


 水が落ちる。


 器の横へ、小さな手が残っている。


 彼女は今度、床を二度叩かなかった。


 手のひらを、しばらく置いたままにしていた。

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