幕間01 袋の置き場所
袋の口は、結んだままだった。
少女はそれを膝に抱え、外へ続く小さな穴を見ていた。
奥からでは、外の様子はほとんど分からない。冷たい空気だけが、ときおり頬を撫でていく。
この部屋から出ようと思えば、出られる。
小さな穴を抜け、山へ出てからどうするかは、まだ決められなかった。
穴は塞がれていない。
さっき人が転んだところには、石の縁が残っている。通る時は気をつけるよう、床から教えられた。
教えられた、と考えることには、まだ慣れなかった。
壁の向こうから声がするのとは違う。
手を置き、こちらから意味を送ると、言おうとしていることが返ってくる。うまく受け取れない時は、ひどく短くなる。
水。
ここ。
奥。
その先に、今日は短い文が届いた。
『出ていかなくていい』
少女は袋を抱く腕に、少し力を入れた。
聞き間違えたのかもしれないと思った。
だから、聞き直した。
『いても、いいんですか』
返ってきた意味は変わらなかった。
『好きなだけいればいい』
袋の中で、硬いものが脇腹に当たった。
少し位置を直す。
巻き直した足が引きつれ、息が漏れた。
明日になれば、もっと歩けるだろうか。
何度も、そう考えていた。
今日は昨日より歩けた。それでも、山を越えられるかと聞かれれば、答えられない。
行く場所を聞かれた時も、その後に『待って』と伝えられた時も、穴へ続く床は開いたままだった。
出るなとは言われなかった。
ここにいていい、と伝えられた。
少女は袋の結び目に指をかけた。
山の向こう、としか答えられなかったことを思い出す。
家のことも聞かれた。
けれど、答えられずにいると、それ以上は尋ねられなかった。
水が落ちた。
さっき袋から出した器が、溝のそばに置いてある。
それをしまえば、また出ていく支度になる。
少女は立ち上がった。
痛む方の足を急に伸ばさず、壁へ手を添える。
何も返ってこなかった。
こちらから問いかけなければ、何も来ないことが多かった。
それでも時々、危ないところを教えられる。
どこまで分かっているのだろう。
外は見えないと言っていた。
中も、目では見えないと。
触れた場所は分かる。
その説明を聞いてから、壁への手のつき方が少し変わった。
強く押しすぎた気がすると、力を緩めてしまう。
追手が引き返す前に、壁が鳴った。
その音を思い出して、少女は手を離した。
自分を隠してくれたものが、どこか傷んでいるのかもしれない。
けれど、確かめ方が分からなかった。
暗い岩肌を覗き込んでも、さっきと違うところは見つけられない。
怪我をした足なら布を巻ける。
迷宮には、何をすればいいのだろう。
少女はしばらく立ったままでいた。
やがて、水のそばへ座り直した。
ここを触っても痛くないだろうか。
そう問いかけようとして、長いと思った。
手のひらを床へ置く。
意味を短くする。
『ここ』
『痛い?』
すぐには何も来なかった。
少し間があって、短い意味が返った。
『違う』
少女は、手のひらを置き直した。
それ以上は聞かなかった。
何もかも答えられるわけではないのだと、今日は少し分かった気がした。
何でもできるのなら、あんなふうに言い直したりしない。
こちらの言葉を待つこともないはずだった。
少女は器を取り、水を口へ運んだ。
飲み終えて、同じ場所へ戻す。
袋にはしまわなかった。
奥へ戻ると、敷いた草を手で寄せた。
片側が薄くなっていたので、そこへ少し重ねる。布を広げ、硬い小石が下にないか確かめた。
寒さは残っている。
夜になれば、もっと冷えるだろう。
穴の方へ目を向けた。
誰も来ないとは言われなかった。
必ず助かるとも。
少女は袋を引き寄せた。
結び目をほどき、手を入れて中を一度確かめる。
結び直そうとした指を止め、袋の口だけをそっと寄せた。
枕元へ置く。
いつものように、すぐ手の届くところへ。
ただ、今日は抱えて眠らなくてもいい気がした。
横になると、草がかすかに鳴った。
足を曲げ直す。
痛みが薄れる位置を探して、ようやく身体を落ち着けた。
頬の近くに、冷たい壁がある。
少女はそちらへ手を伸ばしかけた。
何を言えばいいのか考えて、途中で止めた。
ありがとうは、もう言った。
うまい返事は来なかったけれど、『ここ』という意味は届いた。
だから今は、手を戻した。
水が落ちる。
その音を聞きながら目を閉じると、袋を抱いていない腕の置き場に困った。
迷った末に、布の上へ置いた。
何も起こらなかった。
床は静かだった。
眠れそうだと思った。
そう思えることが、まだ少し不思議だった。




