家
『寒いです』
最初の要望は、それだった。
出ていかなくていいと伝えてから、何日か経っていた。
少女は水のそばに手をつき、少し言いにくそうに意味を送ってきた。
『夜』
『床が、冷たいです』
『……うん』
そうだろうなと思った。
俺だって、人間だったら寝たくない床だ。
薄い草と布を敷いても、その下は岩だった。小さな穴から冷たい空気が入り、壁には水の染みるところもある。
雨に当たらないだけで、寝心地がいいわけではなかった。
『どうにかなりますか』
その聞き方が慎重だった。
追手の時に床が動いたので、何かできると思ったのかもしれない。
俺は正直に返した。
『すぐは、無理』
言葉はまだ、長く続かなかった。
水のある場所で手をつき、お互いに向き合うつもりで話す。それでも、途中で意味が切れることがある。
さっきの寒い、は分かりやすかった。
壁の温度と、少女の困っていることがうまく重なる。
けれど複雑な説明をしようとすると、何から伝えればいいのか分からなくなる。
『床は、動く』
『はい』
『温めるのは、まだ』
できない。
そこまで送ると、少女は少し黙った。
それから手を引いた。
がっかりさせたらしい。
何でもできると思われても困る。
でも、がっかりされると何とかしたくなる。
便利な性格をしている。
誰にとって便利なのかは、考えないでおいた。
俺は彼女の寝る場所を調べた。
穴から入る冷たい空気が、床に沿って来る。その先に、薄い寝床がある。
まず場所が悪かった。
『もう少し、奥』
『奥は濡れます』
そうだった。
あちらには、俺が作った水の道がある。
広い部屋ではない。
乾いているところへ行くと風が来る。
風を避けると湿っている。
選択肢がどちらも悪い。
人間一人住ませるだけで、設備が多すぎるだろ。
水を入れて、床に溝を作った。
そこで、だいぶ生活できそうな気になっていた。
寝床。
食事。
暖かさ。
まだ最初の方だった。
俺は、水の道を少し壁際へ寄せることにした。
少女が使っている間には動かさない。
先に、そのつもりだと伝える。
『ここの草』
『どけて』
『全部ですか』
『そこだけ』
指で示せないので、場所を意識する。
少女の手が、少し違うところへ来た。
『そっちじゃない』
また言い直す。
通じたつもりで進めたら、寝床の下を水路にしてしまう。
それは嫌だった。
少女は草を持ち上げ、袋と一緒に穴の方へ運んだ。
俺は空いた床へ力を入れた。
動かした分を壁際へ寄せる。
水の入るくぼみは変えない。
溝の途中だけを、少しずつ。
一度にできると思っていたらしい少女は、長い間じっとしていた。
それから水のところへ手をついた。
『今、やっていますか』
『やってる』
『……すみません』
謝らなくていい。
実際、見ても分からないくらいなのだろう。
俺には、床の中で少しずつ形が変わっていく感覚がある。
彼女には、それがない。
『遅いんだよ』
『知りませんでした』
それもそうだ。
俺は今まで、できた時しか彼女に見せていなかった。
それも、石が滑ったり、壁が鳴ったりする瞬間だけ。
何日も失敗していた方は、誰も知らない。
少し悔しかったが、説明するほどのことでもなかった。
その日は、途中までで終わった。
少女は乾いた草を多めに持ってきた。
外の湿ったものも混じっていたらしく、穴の近くに広げている。乾くまで使わないのだという意味が届いた。
全部を俺が作る必要はないのだ。
当たり前なのに、また忘れていた。
次の問題は、火だった。
少女が穴の近くへ何かを並べ始めた。
小さな石。
枝。
柔らかく乾いたもの。
硬いものを打ち合わせる細かな振動が続いた。
やがて、床の一部の温度が上がった。
俺は驚いた。
火だ。
『待って』
少女が動きを止めた。
火は止まらない。
大きくはなかった。
でも、床に触れる温度が少しずつ上がっていく。
熱は穴の近くから上へ広がっていた。
少女が何か声を出した。
床に手をついていない。
壁へ細かな震えは伝わったが、発声音声の意味は分からなかった。
俺は熱の近くへ注意を集めた。
消せない。
水の場所は奥だ。
すぐにそこまで流すこともできない。
天井に近い部分の温度が、少しずつ上がっていく。
空気の流れも弱い。
少女が咳をした。
俺は、その時になって腹が立った。
自分に。
寒いと言われて、床の場所だけを考えていた。
火を使うなら、煙をどう出す。
人がいる地下で、最初に考えることだろう。
『穴』
『もっと、外』
何度か送った。
少女が水のところへ来て、意味を確かめるように手を置いた。
『火を?』
『外へ』
『煙』
彼女はすぐに動いた。
燃え始めた枝を長い棒で少しずつ寄せたらしい。
熱が穴の方へ移る。
それでも、天井近くに残った熱はなかなか引かなかった。
俺は上の割れ目を確かめた。
そこには弱い空気の動きがある。
以前から知っていた。
外まで続いているかは分からない。
少女に、その場所を伝えた。
『上』
『割れ目』
『届きません』
見上げているのだろう。
俺には顔の向きまでは分からない。
『そうだよな』
身長というものを、また忘れていた。
俺は割れ目の手前だけを、少し広げようとした。
すぐに空気が通るわけではなかった。
先がどこかで詰まっていれば意味がない。
この小さな割れ目一つで、何でも解決すると思わない方がいい。
『今日は』
『火、外』
少女は少し迷った。
それから床へ手をつく。
『外だと』
『見つかるかもしれません』
それも、そうだ。
暖まりたい。
煙を避けたい。
外に気づかれたくない。
どれか一つなら、まだ簡単なのに。
俺たちは、その日の火を大きくしなかった。
彼女は穴のすぐ外で何かを温め、終わると残りを片づけた。
全部外へ出ている間、俺には彼女の様子がほとんど分からなかった。
それが落ち着かなかった。
けれど、だから中で焚けとは言えない。
部屋を貸すというのは、相手を自分の分かるところへ閉じ込めることではない。
俺は天井近くの温度が下がるまで、何度も確かめた。
あとで少女が床へ手を置いた。
『怒りましたか』
『俺が』
『考えてなかった』
その意味を渡すのに、少し時間がかかった。
『火、駄目ですか』
『今は』
『煙が残る』
『……分かりました』
それで終わらせるのは、少し申し訳なかった。
駄目と言うだけなら簡単だ。
寒いことは変わっていない。
俺は翌日から、壁際に小さな段を作り始めた。
高くはできない。
足元を通る冷たい空気から、少し離せる程度でいい。
動かした石は、その下のくぼみへ寄せるようにした。
余計に湿る場所へ寝かせても意味がないので、水の道からは離す。
草を敷く。
その上に布を置く。
少女が試しに座った。
しばらくして、床へ手をついた。
『前より、冷たくないです』
それだけで、かなり報われた。
実際に温かくしたわけではない。
冷たい空気の通り道から、少しずらしただけだ。
それでも違うらしい。
少女は一度立ち上がり、敷いた布を裏返した。
『ここ』
『引っかかります』
手で触れて場所を示してくれた。
俺が押し寄せた石の細い縁だった。
俺には硬いものの続きとして感じられる。
でも、布はそこに引っかかるらしい。
そこだけ、少し丸くした。
また座ってもらう。
『今は?』
彼女が布を引いた。
『大丈夫です』
完成。
そう思いかけた。
でも、明日の朝も同じとは限らない。
寝てみたら、別のところが痛いかもしれない。
『また、言って』
そう伝えた。
少女はすぐに返事をせず、それから小さく返した。
『はい』
人の感想というものは、ありがたい。
俺には、使ってみることができない。
俺だけで完成を決めるわけにはいかなかった。
その後、少女がなかなか話しかけてこない日があった。
穴へ何度も行く。
戻ってくる。
また外へ出る。
足は前よりよくなっているが、まだ長く歩くと重さが偏る。
水を飲む量も、少し減っていた。
『足、痛い?』
聞くと、『違う』という返事が来た。
何か言おうとして、やめる。
俺は待った。
やがて、ひどく小さな意味が届いた。
用を足すところ。
俺は黙った。
完全に考えていなかった。
いや、頭では知っている。
人が食べて、飲めば、当然必要になる。
俺が必要としないせいで、抜けていた。
しかも床や壁への接触が俺に伝わることを、少女も知っている。
それで言いにくかったのだろう。
『……外の方がいい?』
彼女の返事は、すぐだった。
『はい』
俺は少しだけ傷つきかけて、馬鹿かと思った。
そういうことではない。
外に、彼女が使っている場所があるらしい。
雨の時や、誰かが近くにいる時に困るのだという。
俺には外の形が分からない。
その場所を勝手にどうにかすることもできない。
少女に少しずつ説明してもらい、穴の脇にある窪地とは別にすることだけを確かめた。
雨水の通るところや、水を汲むところへ汚れが入るのは避けたい。
彼女は、乾いた土や草を使っていると教えてくれた。
今すぐ立派な便所を作れるわけではない。
でも、何が必要かは分かった。
分からないまま我慢させるよりはいい。
俺は彼女が外へ出た後、その先を探ろうとしないことにした。
もともと、ほとんど分からない。
それでも、探ろうとしないという違いはある。
戻ってきた時、穴を通る足の重さだけを受け取った。
何をしてきたかは聞かなかった。
水の道を作り直した頃、部屋の中の使い方が少し変わっていた。
水を取るところ。
流れていくところ。
草を敷いて眠るところ。
荷物を置くところ。
少女は汚れたものを洗う時、水をすくって別の場所へ持っていくようになった。
飲み水用のくぼみに俺が気を配る理由は、全部は伝わっていないかもしれない。
でも、同じところへ汚れを戻さないことは分かってくれた。
全部きれいになったわけではない。
相変わらず湿っている。
火は不自由。
食べ物も、彼女が外で手に入れたものに頼っている。
床の形だって、まだ途中だった。
それでも少女は、戻るたびに荷物を同じ場所へ置いた。
その重さで、帰ってきたと分かるようになった。
ある日、穴の近くで短い声がした。
「ただいま」
床へ手をついていない。
俺に分かったのは、声による細かな震えが伝わったことだけだった。
発声音声の意味は分からない。
それでも、俺へ向けたものらしかった。
少女はそのまま中へ入り、水を飲みに来た。
手が床へ触れる。
『さっき』
『帰った、って?』
少女の手が少し動いた。
『……言っても、いいですか』
いいに決まっている。
そう返そうとして、少し長すぎると思った。
俺は短くした。
『おかえり』
届いたらしい。
袋が、いつもの場所へ置かれた。




