名前
『迷宮さん』
呼ばれているのだと気づくまで、少しかかった。
少女の手が、水のそばに置かれている。いつもの場所だ。
『……俺?』
『ほかに、いません』
その通りだった。
俺はそこで初めて、自分がずっと、まともに名乗っていないことに気づいた。
水。
ここ。
危ない。
出ていかなくていい。
伝えなければならないことを、できる順に渡していた。
名前は後回しになっていた。
それでも不自由はなかった。この部屋には二人しかいない。床へ手を置かれれば、俺への話だと分かる。
彼女も、俺が何か伝えようとすれば、自分へ向けたものだと分かる。
それで済んでしまっていた。
名前を呼ぶ必要がないことと、名前がなくていいことは違う。
俺は、その違いをしばらく考えた。
彼女が次の返事を待ってくれる間に。
『迷宮さん、でいいですか』
俺は少し考えた。
さんをつけてくれるのか。
初めて話した時には、迷宮は人を殺すものだと教えられた。
出世した方かもしれない。
『名前が、ある』
伝えると、少女の手が止まった。
『迷宮にも?』
『俺には』
言い直した。
ほかの迷宮のことは知らない。
彼女は、続きを促すように手のひらを置き直した。
俺は自分の名前を考えた。
神谷悠真。
いつも頭の中で確かめていた名前だ。
ここへ来たばかりの頃も、何度も繰り返した。
言えばいい。
そう思った。
でも、渡そうとすると、うまくいかなかった。
水のように、場所や冷たさがあるわけではない。危ない、のように、何かを避けてほしいという意図もない。
神谷悠真というものを、どう渡せばいい。
俺。
まず、それを送ってみた。
少女の指が少し動いた。
『ここに、いるのは、分かります』
そうじゃない。
俺は笑いそうになった。
名前を教えたいのに、居場所を教えたことになっているらしい。
まあ、水の場所から会話を始めたのだ。急に人名を理解しろという方が無理なのかもしれない。
『呼ぶ、言葉』
何度か考え直して、そう伝えた。
少女は黙った。
それから、意味を確かめるように返してくる。
『お名前?』
『そう』
やっと重なった。
俺はもう一度、自分の名前を考えた。
神谷悠真。
意味ではない。
音だ。
何度も呼ばれた。
学校で。
会社で。
実家で。
神谷。
神谷さん。
悠真。
人間だった頃に聞いた響きは、今も頭の中に残っている。
字の形も覚えていた。
けれど床へ字を書いたところで、彼女が読めるとは限らない。俺自身、書いたものを目で確かめることもできない。
そもそも、床を削って文字を作るのにどれだけかかる。
名前を教えるために何日も待ってくれというのは、ちょっと面倒だ。
俺は音の方へ戻った。
か。
み。
や。
ゆう。
ま。
頭の中では、ちゃんと分かる。
それを相手へ渡そうとすると、途端に形が崩れた。
少女は返事をしなかった。
通じていないらしい。
それでも、今までとは違う沈黙だった。
手を離さずに待っている。
聞こうとしてくれている。
そのことが、ありがたかった。
俺はいったん、自分の名前を送るのをやめた。
『君は?』
少女が少し指を曲げた。
『私?』
『名前』
短い沈黙があった。
少女は床へ置いた手に、少し力を込めた。
「リリア」
声による細かな震えが床へ伝わる。
それだけなら、俺には何と言ったのか分からない。
けれど同時に、触れている手から意味が届いた。
『リリア』
自分を呼ぶ音。
そんな感覚が、発声の震えに重なった。
リリア。
俺は頭の中で繰り返した。
少女の名前だった。
ここに来てから、ずっと少女と呼んでいた。
俺しか聞かない、俺の中だけで。
ちゃんと名前があった。
当たり前だ。
俺が知らなかっただけだ。
『リリア』
そのつもりで返した。
床の指が二度動いた。
最近は、分かったとか、それでいいという時にする動きだった。
通じた。
俺は嬉しくなった。
自分の名前はまだ渡せないくせに、彼女の名前が言えただけで嬉しかった。
少女はもう一度、声を出した。
「リリア・アルヴェーン」
今度は長い。
同時に、手から名前を伝えようとしてくる。
途中でほどけた。
『もう一度』
頼むと、彼女は急がずに繰り返してくれた。
「アルヴェーン」
手からも同じ名前が届く。
アルヴェーン。
俺は全部をつなげてみた。
『リリア・アルヴェーン』
間違えていないか確かめる。
床が二度叩かれた。
よかった。
何度も聞き返す俺に、彼女は苛立たなかった。
俺は、水が来た日に、誰かへ話したかったことを思い出した。
あの頃は、誰かに伝える方法さえなかった。
今は名前を一つ教わるのに、こんなに時間がかかる。
でも、急がなくてもよかった。
彼女は、ここにいる。
リリアは名前を伝えた後も、すぐには手を引かなかった。
俺がもう一度『リリア』と送ると、指がわずかに床をなぞった。
笑ったのかもしれない。
そう思ったが、確かめようがなかった。
俺は、彼女の顔を一度も見ていない。
名前と一緒に顔が浮かぶことが、普通だった。
会社の人も、家族も、しばらく会っていない友人も。
今は違う。
リリア、と考えて思い浮かぶのは、片足をかばう歩き方だった。
水のところへ来る手。
寝床へ荷物を置く、小さな重さ。
それも、その人を知っているということなのかもしれない。
足りないものは、たくさんある。
でも、何も知らないわけではなかった。
俺はもう一度だけ、名前を送った。
『リリア』
指が二度、床を叩いた。
『あなたは?』
リリアが聞いた。
俺はもう一度、神谷悠真を思った。
さっきより、やり方が少し分かった気がした。
何かの意味を渡すのではない。
リリアが自分の名前を渡してくれた時の感覚を思い出す。
俺の名前。
俺を呼ぶ時の音。
まずは、神谷。
かみや。
音の並びを崩さないように意識して送る。
途中で切れた。
『カ……?』
そこまでは合っている。
『か』
『み』
『や』
今度は一つずつ送った。
リリアが確かめるように、声に出す。
「カミヤ」
震えだけでは、正確な発音は分からない。
それでも、触れている手から返ってくる音の感覚は近かった。
大きく間違っていなければ、それでいい。
次は、悠真。
ゆうま。
今度は、さっきより少しうまく届いた。
「ユーマ?」
声の震えと一緒に、手から名前が返ってきた。
『ユーマ?』
俺は返事を忘れた。
水の滴が落ちる。
器に触れる。
そのそばに、彼女の手がある。
何も変わっていない部屋だった。
でも、今。
「ユーマ?」
もう一度、声がした。
同時に、手から俺の名前が届く。
俺を呼んでいる。
身体がないことも。
壁が自分だということも。
迷宮だと呼ばれたことも。
その一つ一つを、何度も考えてきた。
それでも、名前だけは変えなかった。
変えなければ、何か残るような気がしていた。
神谷悠真。
俺が俺に言うだけだった名前を、今、別の誰かが呼んでいる。
『……ああ』
やっと返せた。
『それ』
リリアは、しばらく手を置いたままだった。
『ユーマ、さん』
さん。
俺はまた笑いそうになった。
迷宮さんより、ずっとよかった。
『ユーマで、いい』
『でも』
『長いから』
何が長いのか、自分でも少し変だと思った。
たった二文字分の敬称だ。
でも彼女は、それ以上言わなかった。
『ユーマ』
今度は問いではなかった。
俺は床にある感触を、もう一度確かめた。
彼女の手。
指の先。
その向こうにある、薄い寝床。
俺は今、この場所だ。
それでも、呼ばれる名前がある。
その日は、名前だけで終わると思っていた。
けれど、しばらくしてリリアが聞いた。
『誰が、つけたんですか』
俺は戸惑った。
俺の名前を。
そんなこと、最近は考えたこともなかった。
父親か、母親か。
二人で決めたのだろう。
聞いたことがあるような気もする。
でも、すぐには思い出せなかった。
適当なことを言いたくなかった。
『親』
そう返した。
リリアの手が止まった。
『迷宮の?』
違う。
どう説明する。
俺は人間だった。
ここではない場所で、人の身体で暮らしていた。
地下の事故で死んだ。
そこまで一度に考えると、あの時の息苦しさが戻ってきそうになった。
俺は短くした。
『前は』
『人だった』
リリアは何も言わなかった。
信じたのか。
分からなかったのか。
俺には見えない。
彼女の顔も、目の向きも。
ただ、床にある手は離れなかった。
『……人?』
『うん』
長い沈黙だった。
俺は、証拠を探したくなった。
仕事の話ならできる。
水の流し方も、空気の通し方も知っている。
神谷悠真という名前だってある。
でも、それで人間だったことが分かるのか。
分からない。
俺が何かを知っているというだけだ。
リリアは、信じますとは言わなかった。
『そう、なんですか』
それだけだった。
俺は少しほっとした。
今すぐ何かを決めてもらわなくていい。
名乗ったばかりなのに、自分が何者かまで全部分かってもらおうとするのは欲張りだ。
俺だって、リリアがどういう人なのか、まだ少ししか知らない。
『いくつ?』
今度は俺から聞いた。
何度か意味を確かめてもらい、身体の大きさではなく年齢だと伝える。
俺は29と返そうとして、少し迷った。
人間だった時は29。
ここに来てからの時間まで足せば、もう少し増えている。
とはいえ、空気の変化を数えていただけなので正確な日付なんて分からない。
リリアに季節のことを聞き、彼女がここへ来てからの日数も確かめた。
俺が覚えている曖昧な時間と重ねると、目覚めてから3か月前後らしい。
長かった気もする。
短かった気もする。
『人の時』
『29』
数字も一度では通じなかった。
何度かやり取りして、ようやく伝わった。
『私は、15です』
若い。
思っていたより、ずっと若かった。
床にある手が小さいことは知っている。
身体が軽いことも。
でも、その年齢で外から一人で逃げてきたのだ。
何か言いたくなったが、やめた。
若いから大変だったね、とでも言うのか。
それで何が変わる。
俺は水の道を確かめた。
少し詰まりかけている。
あとで直そう。
寝床の脇も、もう少し平らにできるかもしれない。
今は、その方が役に立つ。
やがてリリアが袋を持って立ち上がった。
今日は外で何か取ってくるらしい。
戻るのが遅くなっても、待っていてほしいという意味が届いた。
外へ迎えに行くことはできない。
せめて、帰ってくる場所は整えておこう。
『足』
『気をつけて』
今度は一度で届いた。
『はい』
リリアは穴へ向かった。
途中で立ち止まり、床へ手をつく。
『行ってきます』
少し間を置いて、もう一つ届いた。
『ユーマ』
俺はすぐに返した。
『行ってらっしゃい』
手が離れた。
足の重さが、俺の床の端まで進んでいく。
そこから先は、分からなくなった。
部屋が静かになった。
水が落ちる。
虫の小さな重さもある。
さっきまでリリアが手を置いていた場所には、もう何も触れていない。
それでも、呼ばれた名前が残っていた。
ユーマ。
俺は穴から入ってくる冷たい空気を感じた。
俺、まだ神谷悠真なんだな。
誰かに聞かせるためではなく、そう思った。
それから、リリアが戻る前に水の道を直そうと、床へそっと力を入れた。




