ミア
リリアの足が、小さな穴のところで止まった。
帰ってきた、と分かった。
いつもより遅い。外へ出る前に頼まれていた水の溝の修正は、もう終わっている。
少しして、床へ手が置かれた。
『ユーマ』
『おかえり。そっち、直った』
『……一人、います』
俺は穴の方へ注意を戻した。
リリアの靴。
床へついた手。
その向こうに、もう一つ、軽い接触がある。
裸の指だろうか。
穴の縁へ小さな範囲で触れ、すぐ離れた。
『怪我?』
『少し』
『水を』
それだけ返すと、リリアは外へ向かって何かを言った。
相手に向けた発声音声の意味は、俺には分からない。
短い声が返ってきた。
それも、壁を伝う弱い震えでしかなかった。
俺は水のくぼみを確かめた。
今日は十分に溜まっている。
『ここへ』
『怖がっています』
『……そりゃそうか』
リリアが初めて来た時も、俺は壁を動かして驚かせた。
今度は動かさない。
穴の縁も、誰かが触れているところはそのままにした。
待つ間に、先ほど完成した溝のことを考える。
あそこを越えるには、慣れたリリアなら何も困らない。でも、初めて入る人には違う。
『水の手前』
『段がある』
『はい』
リリアの手が離れた。
奥へ来るはずの足は、まだ動かない。
穴の向こうから、二人分の声による震えが伝わってきた。
何を話しているのかは分からない。
一方の声が止まると、しばらく間があり、もう一方が返す。
やがて、穴の縁へ別の手が触れた。
接触する範囲が小さい。
リリアの手より、さらに軽かった。
一歩だけ中へ来て、止まる。
リリアが動くと、その足も動いた。
近づきすぎると、また止まる。
俺は、知らない誰かの足取りを数えていた。
二人いる。
そのことを嬉しいと思うより先に、何があったのかが気になった。
新しく来た人は、水の手前でしゃがんだ。
床についた膝から、狭いところへ集中した重さが伝わってくる。
ひどく軽い。
リリアが器を置いた。
水をすくう音は聞こえない。ただ、器がくぼみに入り、水の揺れが床へ伝わったあと、底が戻ってきた。
しばらく、動きはなかった。
『飲まないのか』
『今、待ってください』
リリアの指が、水のそばを押した。
俺は黙った。
彼女が先に器を持ち上げる。
口へ運んだのだろう。
戻した器へ、もう一度水を入れる。
今度は、小さな手が伸びた。
器の重さが床から消えた。
いくつかの滴が落ち、その小さな振動が続く。
リリアが短く声をかけた。
俺に向けた言葉ではない。
何を言ったのかは分からなかった。
器が床へ戻った時、小さな手はそれを放さなかった。
リリアが水を足そうと近づく。
器が引かれた。
爪らしい硬いものが、床を擦った。
俺はその振動を受け取ったまま、何も言えなかった。
器を取られると思ったのだろうか。
リリアは少し離れたところへ座った。
いつもの荷物置き場から、自分の袋を持ってくる。
中身を出す時も、相手へ近づきすぎない。
そこへ、二人分の間ができた。
俺なら、多分、何か言っていた。
大丈夫だとか。
誰も取らないとか。
伝わらなければ、もっと説明しただろう。
リリアは言わなかった。
器が空になるまで、待っていた。
小さな手が、ようやく底を離した。
リリアが溝の場所を示すように床を触ると、その手が水へ伸びる。
今度は、自分ですくった。
よかった。
そこまでできたことに、俺はようやく安心した。
リリアが床へ手をついた。
『ミアです』
『今、来た子?』
『はい』
『十二歳です』
『狼の獣人です』
一つずつ、確かめ直した。
ミア。
十二歳。
狼の獣人。
人の形をしているのだろうか。
いや、俺が知っている人間の手や足に似た接触は、確かに床へ来ている。
狼という意味に引かれて、耳や牙を思い浮かべた。
それが合っているかどうかは知らない。
『怪我は?』
『足に擦り傷が』
そこで、リリアの指が止まった。
『あと……首に』
『首輪の、跡が』
俺はミアのいる方へ注意を向けた。
首は、俺のどこにも触れていない。
見えない跡を想像しそうになって、やめた。
『今も、ついてる?』
『いいえ』
外れている。
そこまで分かって、少し息をつきたくなった。
俺には必要のない動きだった。
リリアは何かを言い足しかけた。
でも、ミアの足が動くと、そちらへ注意を戻した。
袋でも抱えたのだろうか。
床に載っていたいくつかの接触が、一か所へ寄る。
俺たちの話が分かっているのだろうか。
少なくとも、自分について何か話されていることくらいは分かるのかもしれない。
『どこで会った?』
『水の流れるところです。外の』
『一人だった?』
『はい』
『近づいたら、逃げようとして』
そこで言葉が切れた。
リリアの指が、床に触れたまま動かない。
俺は、その先を勝手に補わないことにした。
『追ってる人が、いる?』
『分かりません』
答えは短かった。
リリアにも、全部は分からない。
分からないまま連れてきたのだ。
『ユーマ』
『私、先に聞かないで……』
意味が途中でほどけた。
それでも、何を言いたいのかは分かった。
俺は、あの時の袋を思い出した。
自分がいると迷惑がかかるからと、出ていこうとしたリリアの袋だ。
『今は』
『水を飲んでもらおう』
『……いいんですか』
『もう飲んでるし』
間が空いた。
何か違う返事だったかと思ったが、リリアの指から少し力が抜けた。
『寝る場所も、要るな』
『私のところを』
『二人、入る?』
リリアが寝床を確かめに行った。
布を持ち上げ、草を寄せる。
できたばかりの段へ、二つの膝が載った。
試しているのだろう。
しばらくして、リリアの手が床へ戻った。
『狭いです』
『だよな』
俺一人の時には、広すぎると思った部屋だった。
人が二人来ただけで、寝る場所が足りなくなる。
しかも俺は、人数には入るが寝床を使わない。
ややこしい家だ。
今日は広げられない。
穴の向こうの岩を俺の一部として馴染ませるのだって、何日もかかる。
『今夜は』
『草を分けるか』
『持ってきます』
リリアが立ち上がった。
その途端、ミアも動いた。
器が床へ置かれる。
小さな足が滑るように動き、穴へ向かうリリアの後ろへ続いた。
リリアが止まると、ミアも止まる。
離れたくないのか。
置いていかれたくないのか。
どちらにしても、一人でここへ残すのは無理そうだった。
『二人で行って』
『俺は床を』
『動かしますか』
『少しだけ』
『戻ったら教える』
リリアはミアへ話しかけた。
発声音声の意味は分からない。
返事も、すぐにはなかった。
やがて二人の足が並んで穴へ向かった。
一人分の重さが消える。
そのあと、もう一人分も消えた。
部屋が空になった。
俺は水のそばの器があった場所を確かめた。
縁に引っかき傷がついたかどうかまでは分からない。
ただ、さっき強く押しつけられた底の位置は覚えていた。
まだ、ここにいていいとは、ミアには伝わっていないのだろう。
飲んでいい水。
使っていい器。
帰ってきてもいい場所。
俺には一つのつもりでも、相手には別々なのかもしれない。
俺は床へ力を入れた。
寝床の横にある出っ張りを、ほんの少し低くする。
そこだけなら、今のうちにできそうだった。
二人が戻った時、草の束が新しい場所へ置かれた。
濡れていないものをリリアが選び、ミアも運んだらしい。
俺は、まだ少し張り出している床の場所をリリアへ伝えた。
『ここ』
『平らにした』
リリアがミアへ声をかける。
「ミア、こっち」
続けて、俺の名前を混ぜて何かを説明した。
その瞬間、ミアの膝が床から離れた。
穴の方へ一歩。
もう一歩。
『……何て言った?』
リリアが床へ手を置いた。
『ユーマが』
『寝るところを作ったって』
『床が話すって?』
『……はい』
そうだった。
そこがまだだった。
リリアはもう、俺と話すことに慣れている。
俺も、彼女が俺の言葉を受け取ることに慣れていた。
だから次に来た人も同じように、と思ってしまった。
ミアにとっては、逃げ込んだ岩穴で、助けてくれた相手が床と話し始めたのだ。
説明された方が怖いこともある。
俺は床を動かすのをやめた。
『今』
『返さない方がいい?』
『少しだけ』
『待ってください』
リリアはミアへ近づかなかった。
草の上へ自分から座る。
壁へ背中をつけた。
それから、何か短く声をかけた。
ミアの足が、少しずつ戻ってくる。
でも、新しい寝床までは来ない。
穴に近いところへ座り、膝を寄せた。
そこは冷たい空気が通る。
そう言いそうになって、俺は止めた。
今のミアには、奥の暖かさより、穴の近さが必要なのかもしれない。
俺がいい場所だと思ったからといって、そこへ座らせるわけにはいかなかった。
リリアが草を少し運んだ。
ミアはそれを受け取った。
穴を塞がないように、草を自分の脇へ寄せる。
小さな手が、床の上を何度も往復した。
リリアが手伝おうとすると、動きが止まる。
リリアが手を引く。
すると、また草を動かし始めた。
その場所で、今夜は寝たいのだろう。
俺は、さっき平らにした奥の床へ注意を向けた。
使われていない。
少し残念だった。
でも、俺が作ったところへ寝るために、この子は来たわけではない。
空いていれば、別の時に使える。
『そこの出っ張り』
『今日は、そのままでいい?』
リリアへ聞くと、少しして返事が来た。
『そのままが、いいそうです』
『分かった』
俺は床に力を入れなかった。
ひとつ、終わった。
手当ても同じだった。
リリアが布を出すと、ミアは足を引いた。
そこでやめる。
しばらくしてから、濡らした布だけを渡す。
今度はミアが、自分で足を拭いた。
俺はその間、水の道にも床にも手を加えなかった。
何かをしてやれないことには、少し慣れたつもりだった。
二人になったら、また最初からだった。
夜と呼んでいる冷たい時間が来た。
リリアは寝床へ戻ったが、ミアは穴寄りの草の上にいた。
荷物はほとんどないらしい。
器だけを、手の届くところへ置いている。
眠ったかどうかは、すぐには分からなかった。
身体が動くたび、指や足が床を強く押す。
リリアも、ときどき起きていた。
やがて、床へ指が触れた。
『ミアが……』
『寝ていいよ』
『でも』
『俺、起きてるから』
俺自身、眠っているのかどうか怪しい。
けれど、ここから出ようとする足には気づける。
『動いたら』
『教える』
『……お願いします』
リリアの手が離れた。
しばらくして、ミアの小さな身体が横になった。
身体の向きまでは分からない。
ただ、穴に近い場所を離れず、時々そこへ手を伸ばしている。
俺は何も送らなかった。
そもそも、俺の言葉がミアへ届くのかも分からない。
名前を呼ぼうとする必要もない。
水の場所は知っている。
今夜は、それでいい。
床に、二人分の重さがあった。
リリアが連れてきた人。
俺が何も言わなくても、水を渡し、待っていた相手。
初めてここへ転がり込んだ時、リリアにはそんな余裕はなかった。
俺は二つの寝床の間を感じた。
どちらも狭い。
明日、考えることが増えた。
それでも、今は動かさなかった。




