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所有物

『返せと、言っています』


 リリアの手が、穴の近くの床にあった。


 誰を、とは聞かなかった。


 ミアは奥の張り出しの脇にいる。


 昨夜はあれほど穴から離れたがらなかったのに、今は一番遠いところへ身体を寄せていた。


 穴の向こうから、声による震えが伝わってくる。


 何を言っているのかは分からない。


 一人分らしい振動が何度か続き、その間にリリアの声が入る。


 俺に意味が分かるのは、彼女が床へ手をついて伝え直してくれた分だけだった。


『その子を』


『こっちへ出せ、と』


 穴の向こう側に、靴が触れていた。


 二つ。


 同じ人間の左右なのか、二人が片足ずつ近づけているのか。


 次に動くまで、俺には区別がつかない。


 俺は、その重さから少し離れた場所へも注意を残した。


 奥のミアは動かない。


 壁際に寄せた身体の震えが、触れているところから伝わってくる。


『ミアを知ってる人?』


『連れ戻すために来たと』


 リリアの指が止まった。


『売る人の、使いです』


 俺は、返す意味を見失った。


 売る。


 何を、と聞き返す必要はなかった。


 分かってしまったから、次が出てこなかった。


 リリアが穴の向こうへ何かを言った。


 すぐに強い震えが返ってくる。


 穴の近くにある靴が動き、石を擦った。


 奥で、ミアの爪らしい硬いものが壁を掻いた。


 リリアの手が床へ戻る。


『首輪を外しても』


『同じだと』


『同じって』


『……その人の、ものだと』


 俺は水の落ちる場所を確かめた。


 何も考えたくなくなった時、最近はそうしていた。


 一滴落ちる。


 くぼみに触れる。


 浅い溝を通って、低いところへ流れていく。


 いつもと同じだった。


 奥にいる人を返せと、外の人間が言っている。


 その理由が、自分たちのものだから。


『家族じゃ、ないんだな』


『はい』


 リリアは短く答えた。


 もう分かっていることを聞いていた。


 違う答えが来てほしかったのかもしれない。


 穴の向こうで、何か薄いものを扱っているらしい震えがあった。


 俺には、それが何なのか分からない。


 リリアが手を置き直す。


『印があると』


『買った証明の』


 証明。


 その言葉に、腹の底が冷えるような気がした。


 俺の知っている契約書なら、会社に山ほどあった。


 誰が何を頼み、いくら払う。


 それがなければ困る仕事も知っている。


 今、証明されるものの場所に、ミアがいた。


『そんなもの』


『通るのか』


 リリアは、すぐには答えなかった。


 意味が届かなかったのかと思った。


 違った。


『この国では』


『奴隷は、合法です』


 意味が届いた後も、俺はしばらく黙っていた。


 違法なことをしているから、見つかれば逃げる。


 そういう相手だと、どこかで考えていた。


 でも、外にいる人間は隠れていない。


 ミアを連れ戻す権利が自分たちにあるつもりで、ここまで来ている。


『兵士に言えば』


『その人たちが』


『呼ぶと言っています』


 俺は返事をやめた。


 そうか。


 そっちなのか。


 リリアが今まで、すぐに人へ助けを求めなかったこと。


 ミアが器一つを放さなかったこと。


 それで全部が説明できたわけではない。


 けれど、俺の考えていた手段が、この場所では手段にならないことは分かった。


 穴の向こうから、また声の震えが続いた。


 リリアが短く返す。


 その後、彼女の手が床へ戻った。


『ユーマ』


『うん』


『渡さなければ』


『盗んだことになると』


 盗む。


 また、人に使ってほしくない言葉だった。


『リリアは』


『連れてきただけだろ』


『向こうは、そうは……』


 言葉が途中でほどけた。


 俺の正しいと思う説明が、そのまま向こうへ通るわけではない。


 昨日、水を飲ませた。


 それが悪いことになると言われている。


 俺は壁へ力を入れかけた。


 奥でミアが動いた。


 やめた。


 ここを揺らして、一番怖がるのは、今そこにいる人だ。


 怒っているからといって、自分の身体を好きに揺らしていいことにはならない。


 穴の向こうの声が途切れた。


 奥から短い声が返った。


 ミアだった。


 リリアの足が、そちらへ向かう。


 俺は、彼女が戻ってくるのを待った。


 床へ手が触れるまでの時間が、ひどく長く感じた。


『出ると、言っています』


『自分で?』


『……私たちを』


『捕まえないなら』


 俺はミアのいる壁際へ注意を向けた。


 背中の接触がなくなっている。


 立とうとして、手へ重さをかけていた。


 リリアが間に入ったらしい。


 二人の足が近づき、発声音声の震えが何度か続く。


 俺は何も言えなかった。


 ミアが帰りたいのなら、止める理由を考えなければならない。


 でも、今の言葉は、そうではなかった。


 誰かを捕まえない代わりに、自分が出ていく。


 選べたのだろうか。


 それしかないと思っているのだろうか。


 俺には、ミアの考えていることは分からない。


 だから、聞いてもらうことにした。


『リリア』


『はい』


『戻りたいか』


『それだけ、聞いてくれる?』


 リリアは少し黙った。


 それからミアへ、短く話しかける。


 返事はなかった。


 ミアの手が床についている。


 爪の先が、何度も同じところを滑った。


 俺は急かさなかった。


 穴の向こうから、強い声の震えが来た。


 リリアがそちらへ何かを返す。


 その後で、ミアの声がした。


 小さな震えだった。


 リリアが奥の床へ手をつく。


『戻りたくない、と』


『分かった』


 それだけ返した。


 リリアの指が動かなくなった。


『何があったか』


『聞かなくていいんですか』


『今は、いい』


 首輪の跡があると聞いた。


 逃げようとしていたことも知っている。


 それ以上を話させなければ水を渡せない、ということにはしたくなかった。


 俺は穴の近くの床を確かめた。


 外の人間がいる場所。


 そこから中へ続く狭い穴。


 水の溝。


 その先にいるミア。


 守れる広さではない。


 もし無理に入り込まれたら、止められるとは限らなかった。


 前にリリアの追手を遠ざけた時だって、ぎりぎりだった。


 だから渡す。


 そうつなげることだけは、できなかった。


『リリア』


『外へ出ないで』


『はい』


『そこから、伝えて』


 俺は意味を短く分けた。


『ミアを』


『渡さない』


 リリアが穴の向こうへ声を向けた。


 返事は早かった。


 短い震えが何度か続く。


 リリアの手が床へ戻った。


『あなたが買うのか、と』


 一瞬、値段を聞きかけた。


 払えば済むのかもしれない。


 何も持っていないくせに、そんなことを考えた。


 俺の代わりに金を出す人もいない。


 それに。


 払った後は、誰のものになる。


 俺は考えるのをやめた。


『買わない』


 リリアの指が少し動いた。


『誰のものにも』


『しない』


『でも、それは』


 リリアの言葉が止まる。


『向こうには、通らないか』


 返事は来なかった。


 通らないのだろう。


 リリアの手が床から離れかけた。


 外へ返事をしようとしている。


『待って』


 彼女が止まった。


『怖いなら』


『奥にいていい』


 俺が決めたことを、外へ伝えなければならないのはリリアだ。


 相手に顔を覚えられるのも。


 声を聞かれるのも。


 俺ではない。


 少しして、手が置き直された。


『私も』


『渡したくありません』


 俺は、その返事を受け取ってから続きを考えた。


 俺はこの国の仕組みを知らない。


 法律を作る人にも会えない。


 外へ出て、人を集める足もない。


 今ここで何かを決めたからといって、遠くにいる誰かの首輪が外れるわけでもない。


 それでも、俺の床へ来た人がいる。


 自分の足で逃げてきて、水を飲んだ人が。


 合法なら、何をしてもいいのか。


 それはリリアへ送らなかった。


 答えを求めてもいなかった。


 俺は、自分が分かる範囲を確かめた。


 床。


 壁。


 穴から、こちら側。


 俺の身体。


 ここでなら、少なくとも俺がどうするかは決められる。


『ここでは』


 リリアの手が動かない。


『人を』


『誰かのものには、しない』


 一度では、全部は届かなかった。


 俺は少しずつ言い直した。


『買わない』


『売らない』


『誰かのものだからって』


『連れ出させない』


 最後まで伝わるのに、何度もかかった。


 その間にも、穴の向こうでは足が動いている。


 待ちきれなくなったらしい。


 リリアが立った。


 穴の内側から、外へ声を返す。


 いつも俺と話す時より長かった。


 何をどう言ったのかは分からない。


 けれど、彼女は途中でやめなかった。


 外の人間の足が動いた。


 一つの靴が穴のすぐ近くへ来る。


 身体を入れようとしているのか、穴の縁へさらに重さがかかった。


 俺はそこへ注意を絞った。


 来る。


 リリアの足が下がった。


 奥で、ミアの小さな重さがさらに壁際へ寄る。


 俺は、外の人間が次に触れそうな穴の内側へ、ごく弱く力を入れた。


 転ばせるためではない。


 触れる前に、分かるように。


 硬い石の面が、細く軋んだ。


 近づいていた靴が止まった。


 俺はすぐに力を抜いた。


 ただし、注意は外さない。


 穴の向こうから、強い声の震えが来た。


 今度は、それに別の震えが重なった。


 二人いる。


 少なくとも、声は二人分だ。


 相手の足が少し離れたところで、リリアの手が戻ってきた。


『迷宮だと』


『話しています』


『さっき、そう言った?』


『ユーマが』


『ここにいると』


 彼女は少し言いよどんだ。


『床も、壁も』


『あなたで』


『入らないように、と』


 相手がそれを信じたのかは分からない。


 だが、穴へ身体を入れようとしたところで、内側の石が動いた。


 少なくとも、何もない洞窟ではないとは思っただろう。


 俺には、それ以上のことをする余裕があまりなかった。


 長い意味をリリアへ渡しながら、穴の周囲へ力を残しているだけで、身体の遠いところが曖昧になる。


 また入ろうとしたら。


 その時に考えるしかない。


 穴の向こうで、しばらく声が続いた。


 やがて一つの足が離れた。


 少しして、もう一つも俺の分かる範囲から消える。


 リリアは動かなかった。


 俺も、まだ終わりだとは思わなかった。


『何て?』


『戻ると』


 少し間があった。


『今度は』


『こんなことでは済まない、と』


 その約束だけは、守らないでほしかった。


 水が落ちた。


 奥で、ミアがゆっくり座った。


 逃げるために立ち上がりかけていた足が、草の上へ戻る。


 俺はようやく、穴の周囲に入れていた力を抜いた。


 追い返した、と言えるかどうかは分からない。


 少なくとも今は、連れていかれなかった。


 それだけを、リリアへ伝えた。


 彼女は少ししてから、ミアに話しかけた。


 返事は短かった。


 ミアの手が床へつく。


 もちろん、そこから俺へ意味が届くことはない。


 リリアの指が、そのすぐそばへ置かれた。


 しばらくして、彼女から意味が届いた。


『何をすればいいか、と』


『誰が?』


 聞いてから、すぐに分かった。


『ミアが?』


『はい』


『水と』


『寝るところの』


 俺は答えを探した。


 助けた代わりに何をする。


 ここに置くから、何を返す。


 そういう話を、まだ一つもしていなかった。


 しなかったことが、ミアには分からないのかもしれない。


『今日は』


『寝て』


 リリアがミアへ伝える。


 短いやり取りの後、また床へ手を置いた。


『それだけ、ですかって』


『それだけ』


 働くことの話は、また先にあるだろう。


 一緒に暮らすなら、頼むことも増える。


 でも、水を飲んだ分だけ誰かのものになるのは違う。


 リリアがそう伝えると、ミアはしばらく手を床へ置いていた。


 それから、ゆっくり引いた。


 信じてもらえたかは分からない。


 明日も同じことを言えばいい。


 明後日も、聞かれたら。


 俺は水の道へ注意を戻した。


 くぼみの縁で、細い流れが少し滞っている。


 そこへ力を寄せる。


 誰のものでもない人が、次に水を飲みに来る。


 俺は、詰まりかけたところを小さく直した。

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