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幕間02 迷い込んだ少女

 もう、どれくらい歩いたのか分からなかった。


 足が痛い。喉が渇いた。お腹も空いている。


 転んだ時に擦りむいた膝は、歩くたびに痛んだ。それでもミアは歩いた。


 止まるのが怖かった。


 後ろから誰かが来るような気がして、何度も振り返る。


 誰もいない。


 木々と岩。


 風に揺れる草。


 それだけだった。


 ミアはまた歩いた。


 どこへ向かっているのかは、もう分からない。


 最初は、とにかく遠くへ行こうと思っていた。


 道から離れる。


 人がいそうな場所を避ける。


 見つからないようにする。


 それだけを考えていた。


 今は、自分がどちらから来たのかさえ怪しい。


 戻るつもりはなかった。


 戻りたくない。


 でも、どこへ行けばいいのかも分からない。


「……おなか、すいた」


 掠れた声に、答える人はいなかった。


 持っていた食べ物は、もうない。


 最後の一欠片を食べたのがいつだったのかも、よく覚えていない。


 水もない。


 眠い。


 横になりたい。


 けれど、ここでは駄目だった。


 外で眠ったら危ない。


 何がいるか分からない。


 誰が来るかも分からない。


「どこか……」


 声がうまく出ない。


「隠れるところ……」


 家じゃなくていい。


 村じゃなくていい。


 人がいるところには行きたくない。


 雨や風を避けられて。


 外から見つかりにくくて。


 少しだけ眠れる場所。


 それだけでいい。


 ミアは歩いた。


 何度も立ち止まり、そのたびに、もう歩けないと思った。


 でも止まると怖くなって、また足を出す。


 首の辺りが気になった。


 手を伸ばす。


 そこには、もう何もない。


 硬いものも。


 締めつけるものも。


 ない。


 それでも指は、何度も同じところへ行った。


 ミアは慌てて手を下ろした。


 後ろを見る。


 誰もいない。


 大丈夫。


 まだ来ていない。


 そう思ってから、違うと思った。


 来ていないんじゃない。


 来ないでほしい。


 絶対に。


 足を速めようとして、膝に痛みが走った。


「……っ」


 よろけて、近くの木へ手をつく。


 休んだ方がいい。


 分かっている。


 でも、座ったら立てなくなる気がした。


 ミアは木から手を離した。


 もう少し。


 あと少しだけ。


 何があるのかも分からないのに、そう考えて歩いた。


 やがて、木々の間から細い音が聞こえた。


 ミアは足を止めた。


「……?」


 風ではない。


 葉の擦れる音でもない。


 じっと耳を澄ます。


 もう一度。


 水。


 そう気づいた途端、喉の渇きが急に強くなった。


 ミアは音のする方へ向かった。


 急ぎたいのに、足が動かない。


 枝を避け、岩を回り、低い草を踏む。


 しばらく進むと、岩の間を細い水が流れていた。


「……水」


 走り寄りそうになって、止まった。


 周囲を見る。


 誰もいない。


 獣も見えない。


 水のそばに足跡があるかまでは分からなかった。


 それでも、すぐには飲まない。


 ミアはしゃがみ込んだ。


 水を見る。


 変なものが浮いていないか。


 臭いはおかしくないか。


 流れは止まっていないか。


 指先をつけた。


 冷たい。


 少しだけすくって、口に含む。


 飲み込んでから待った。


 変な味はしない。


 もう一口。


「……っ」


 冷たい水が喉を通った。


 それからは我慢できなかった。


 両手ですくう。


 飲む。


 もう一度。


 何度飲んだのか分からなくなった頃、ようやく息をついた。


「……おいしい」


 小さく呟く。


 もう一度だけ水を飲んだ。


 身体から力が抜けた。


 そのまま座り込みそうになって、ミアは慌てて顔を上げた。


 周囲を見る。


 誰もいない。


 追ってくる足音もない。


 怒鳴る声もない。


 捕まえる手もない。


 水だけが流れている。


 ここなら、少しくらい休んでもいいかもしれない。


 ほんの少しだけ。


 ミアがそう思った時だった。


 草を踏む音がした。


 身体が固まった。


 考えるより先に立ち上がる。


 足に力が入らなかった。


「あ……」


 膝が崩れかける。


 それでも逃げようとした。


 水から離れる。


 一歩。


 もう一歩。


「待って!」


 女の子の声だった。


 ミアは振り返らない。


 走る。


 走ろうとした。


 でも、速くならない。


「追わないから!」


 足音が止まった。


 ミアも止まった。


 息が苦しい。


 逃げなければならない。


 そう思うのに、後ろから足音は来なかった。


 ミアはゆっくり振り返った。


 少し離れたところに、一人の少女が立っていた。


 自分より年上に見える。


 銀灰色の髪。


 その間から、小さな黒い角が出ていた。


 魔族。


 少女は近づいてこなかった。


 両手も見えるところにある。


「水を飲んでただけ?」


 ミアは答えなかった。


 少女の視線が、膝へ落ちた。


「怪我してる」


「……平気」


 ミアは反射的に足を引いた。


 久しぶりに誰かへ言葉を返した気がした。


 声が掠れていた。


 少女の視線が、膝から首元へ動いた。


 ミアは反射的に首を隠した。


 少女の表情が変わった。


「……その首の跡……もしかして……」


 ミアは答えなかった。


 身体を固くしたまま、少女を見る。


 少女はそれ以上聞かなかった。


 少しの間があった。


「……逃げてきたの?」


 ミアは答えなかった。


 少女はしばらく待った。


 それから、何も聞かなかった。


「そこ、水は飲んで大丈夫」


 ミアは水場を見る。


 それから少女を見る。


 何も言わない。


「私も、そこで汲んでるから」


 少女は持っていたものを少し持ち上げて見せた。


 水を入れるための器らしい。


 ミアは一歩下がった。


「……水」


「え?」


「飲んだから……何をすればいいの」


 少女が黙った。


 ミアはその反応を見て、聞き方を間違えたのかと思った。


 ただで使っていいものなんてない。


 食べ物も。


 水も。


 眠る場所も。


 誰かのものを使えば、その分は返さなければならない。


 何も返せないなら、別のもので払う。


 ミアにとって、それは聞くまでもないことだった。


「何もしなくていいよ」


 ミアは答えなかった。


 意味が分からなかった。


 何もしなくていい。


 そんなことがあるのだろうか。


 少女はミアの顔を見たあと、それ以上説明しなかった。


 代わりに、自分から水場へ近づいた。


 ミアは身構えた。


 少女は少し離れたところでしゃがみ、自分の器へ水を入れる。


 それだけだった。


 ミアが飲んだことを咎めるわけでもない。


 何かを要求するわけでもない。


 少女は水を汲み終えると、また距離を取った。


「お腹は?」


 ミアは答えなかった。


 腹が鳴った。


 最悪だった。


 少女は少し困ったような顔をした。


 それから腰につけていた袋を開けた。


 ミアの身体に力が入る。


 出てきたのは、小さな食べ物だった。


 少女は近づいてこなかった。


 岩の上へ置く。


 それから二歩ほど下がった。


「食べる?」


 ミアは動かなかった。


 食べたい。


 今すぐ取りたい。


 でも、取った後に何を言われるのか分からない。


 水は何もしなくていいと言った。


 だからといって、これも同じだとは限らない。


「いらないなら、そのままでいいから」


 少女は待った。


 ミアは食べ物を見る。


 少女を見る。


 また食べ物を見る。


「……これは?」


「食べていいよ」


「だから……何をすればいいの」


 もう一度聞いた。


「何も」


「どうして」


 今度は少女の方が答えに困った。


「お腹、空いてるから」


 理由になっていない。


 ミアにはそう思えた。


 でも少女は、それ以上何も言わなかった。


 近づいてもこない。


 ミアはゆっくり岩へ近づいた。


 少女が動かないことを確かめる。


 食べ物へ手を伸ばす。


 取る。


 すぐに離れた。


 少女は追わなかった。


 ミアは少しだけ口に入れた。


 飲み込む。


 待つ。


 何も起きない。


 残りも食べた。


 もっと欲しかった。


 でも、言わなかった。


「もう一つあるよ」


 少女が袋から出した。


 また、同じ岩へ置く。


 ミアはすぐには取らなかった。


「……どうして?」


「私も、前に助けてもらったから」


 ミアには意味が分からなかった。


 この少女が誰かに助けてもらったことと、自分が食べ物をもらうことに、どんな関係があるのだろう。


 少女はそれ以上説明しなかった。


 ミアは二つ目も食べた。


 身体が少しだけ戻ってきた気がした。


 同時に、眠気も強くなった。


 少女がそれに気づいたのか、少し考えてから言った。


「休める場所があるよ」


 ミアはすぐに顔を上げた。


「どこ」


「ここから、少し歩く」


「人は?」


 少女はすぐには答えなかった。


「私以外は、いない」


「……本当に?」


「うん」


 少女はそこで少し迷った。


「でも、何もいないわけじゃない」


 ミアは一歩下がった。


「魔物?」


「……違う」


「じゃあ、何?」


 少女は困ったような顔をした。


「説明するの、難しい」


 余計に分からなくなった。


「水もある」


 少女は続けた。


「雨も入らない。寝るところもある」


「あなたの?」


 少女は少し考えた。


「私が使わせてもらってる場所」


 意味がよく分からない。


 誰に。


 そう聞こうとして、やめた。


 人はいないと言った。


 でも、何もいないわけではないとも言った。


「来る?」


 ミアは答えなかった。


 行かない方がいい。


 知らない場所だ。


 知らない少女だ。


 食べ物を二つももらった。


 水も飲んだ。


 何も求められていない。


 それが一番分からなかった。


「嫌なら、いいよ」


 少女はそう言った。


「私は水を持って帰るから」


 器を持ち上げる。


 本当に行くらしい。


 ミアは焦った。


 ここに残れば、一人になる。


 また歩かなければならない。


 どこへ行くかも分からないまま。


 でも、ついていけば、逃げられなくなるかもしれない。


 首へ手が行った。


 何もない。


 それでも指先に、硬い輪の感触が残っているような気がした。


 少女は急かさなかった。


 ミアを見ているだけだった。


「……遠い?」


「そんなに」


「人、いない?」


「うん。私以外は」


 ミアは後ろを見た。


 森。


 自分がどこから来たのかも、もう分からない。


 前には、知らない少女がいる。


 どちらも怖い。


 でも一つだけ違う。


 少女は、ミアが逃げようとした時に追ってこなかった。


 水を飲んでも怒らなかった。


 食べ物を取っても、何も求めなかった。


 怪我を見ても、触ってこなかった。


 首の跡を見ても、それ以上聞かなかった。


 それだけだった。


 信じていい理由には、足りない。


 でも、ついていってみる理由には、少しだけなった。


「……行く」


 少女は笑った。


「私はリリア」


 ミアはすぐには答えなかった。


 名前を聞かれている。


 答えていいのか分からなかった。


 それでも、リリアは待っていた。


「……ミア」


「ミア」


 名前を繰り返されて、身体が固くなる。


 けれど、その後には何も続かなかった。


「行こうか」


 リリアが歩き始めた。


 手は差し出さなかった。


 ミアは少し離れて、その後ろを歩いた。


 リリアが速くなりすぎると、途中で止まった。


 ミアが追いつくまで待つ。


 また歩く。


 何度か、それを繰り返した。


 途中でミアが立ち止まると、リリアも止まった。


「足、痛い?」


「平気」


「……分かった」


 それ以上は聞かなかった。


 森を抜け、岩の多い場所へ入る。


 ミアは何度も後ろを見た。


 追ってくる人はいない。


 それでも、胸の奥の怖さは消えなかった。


 しばらく歩いたところで、リリアが止まった。


「ここ」


 岩の間に、小さな穴があった。


 少し離れれば、ただの岩の隙間にしか見えない。


 ミアも足を止めた。


「……ここ?」


「うん」


 暗い。


 中がどうなっているのか分からない。


 人はいないと言っていた。


 でも、何もいないわけではない。


「安全なの?」


 リリアはすぐには答えなかった。


「私は、ここで寝てる」


 安全だとは言わなかった。


 ミアは穴を見る。


 リリアを見る。


 逃げるなら、今だった。


 後ろには森がある。


 前には、知らない場所がある。


 リリアは手を伸ばさなかった。


 早くしろとも言わなかった。


 ただ、穴のそばで待っていた。


 ミアは首へ手をやった。


 そこには、もう何もない。


 それから手を下ろした。


 一歩。


 自分で、穴へ近づいた。

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