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三人

 二人で同時に水を飲もうとして、肘がぶつかった。


 器が床へ当たった。水がこぼれる。


 小さな足が、すぐに後ろへ引かれた。


 小さな声がリリアへ向けられる。言葉の意味は届かなかったが、その後にリリアの足が動いた。


 やがて、彼女の手が床へ触れる。


『水のところ、少し狭いです』


 俺は、二つの器が置かれた場所を確かめた。


 一つはくぼみのすぐ脇。もう一つは、その少し後ろ。


 俺には両方分かる。だから使えるつもりになっていた。


 手を伸ばす人間の肩が、どこへ来るかまでは考えていなかった。


『交代で、って言いたいところだけど』


『ミアは、待っています』


『待てるかじゃなくて、待たせてるのか』


 誰も使っていなくても、ミアは水の前で一度止まる。


 リリアが頷くか、器を寄せるまで、手を伸ばさない。


 昨日も、その前もそうだった。


 水を飲んでいいと伝えた。


 それで終わったと思っていたのは、俺だけらしい。


『手前にも、置くところを作る』


『水を、二つに?』


『いや。器だけ』


 増やせばいいというものでもない。


 溝を分ければ、その先も直さなければならない。今ある水の量は変わらないのだ。


 俺は、くぼみの脇にある小さな出っ張りを感じた。


『そこに、石が』


『どけます』


 リリアの手が伸びた。


 だが、その前に別の指が石へ触れた。


 ミアだった。


 持ち上げられた石の重さが床から消える。


 少しして、リリアがミアへ何か言った。


 石が壁際へ戻された。


 それだけの仕事だった。


 俺が床を押して動かすなら、もっと時間がかかる。


 助かった、と伝えたかった。


『ミアに、ありがとうって』


 リリアがミアへ話しかけた。


 小さな足が、また半歩引かれた。


 俺は続きをやめた。


 褒めれば近づけるわけでもない。


 床から何か言われること自体が、まだ落ち着かないのだろう。


『今から動かす。そこは離れて』


『分かりました』


 二人が離れた後で、俺は出っ張りを少しずつ均した。


 石をどけた場所を丸ごと平らにするのは難しかった。器が安定すればいい。


 高いところだけを、ほんの少し押す。


 リリアが一度、器を置いてくれた。


 揺れる。


 直す。


 また置く。


 今度は、底が落ち着いた。


『大丈夫です』


『そっちは、ミアの分にしよう』


 言ってから、固定しすぎたかと思った。


 でもミアは、器をそちらへ移した。


 その器を、リリアは使わなかった。


 昼と夜が何度か過ぎた。


 水を飲む前の間は、まだ残っている。


 けれど、誰かが頷く前に手が伸びることも出てきた。


 俺は、そのたびに何か言わないようにした。


 飲んだね。


 自分でできたね。


 言われたら、俺だって落ち着かない。


 会社の給湯室でそんなことを言う上司がいたら、別の階へ行く。


 ミアがどこへ行けばいいのか、俺には分からない。


 だから、いちいち見張られているような気にさせたくなかった。


 そう考えているくせに、足が水の前へ来ると、つい気になってしまう。


 難しい。


 放っておくことと、困っているのに気づかないことの間が、まだうまくつかめなかった。


 ある日、リリアが布を干す場所を探していた。


 穴の脇。


 水の溝から離れた壁。


 使っていない出っ張り。


 候補を一つずつ確かめるうちに、俺が知らなかったことを聞かれた。


『ユーマは、これも分かりますか』


 布が床から持ち上がった。


『今は、重さがなくなった』


『持っているのは?』


『リリア、だろ』


『……今は、ミアです』


 外れた。


 俺は、しばらく返事をしなかった。


 近くで小さな振動があった。


 ミアの足が少し動いたらしい。


『分からないんだよ。床から離れたら』


『でも、歩くところは?』


『それは分かる。今、ミアが器の横』


 足が止まった。


 怖がらせたかと思った時、リリアがミアへ何か話した。


 床へつく足が、順に動く。


 説明しているのだろう。


 やがて指が一本、床へ触れた。


『今のは?』


 リリアが聞いた。


『指』


『誰の?』


『……ミア?』


 リリアの身体から、小さな揺れが床へ伝わった。


『私です』


 困った。


 少しは当てたいと思い始めたところで、俺はやめた。


『全部は分からない。ミアにも、そう言って』


『はい』


 相手の手を言い当てることより、その方が大事だった。


 俺は二人を、頭の中にある絵として見ているわけではない。


 触れられたところを追い、さっきの足とつなげて考えている。


 途中で持ち替えられれば、外す。


 説明を聞いた後、ミアはしばらく足を動かしていた。


 壁にも触れる。


 今度は、何も聞かなかった。


 俺も、何も返さなかった。


 布は結局、穴寄りの乾いた出っ張りにかけられた。


 そこを使うなら、水の器へ垂れない。


 家の設備としては、小さすぎる改善だった。


 けれど、その布をミアが自分で取りに来た。


 リリアを呼ばずに。


 俺は、それを少し覚えておきたくなった。


 寝床の方は、うまくいかなかった。


 二つの草の場所を、近づけすぎたらしい。


 リリアが寝返りを打つ。


 ミアの手が、すぐに床へつく。


 しばらく動かず、それからまた横になる。


 一度なら偶然かもしれない。


 何度も続くと、気になった。


 翌日、リリアへ尋ねた。


『狭い?』


『私は、平気です』


『ミアの方は』


 彼女は、その場では答えなかった。


 外から戻った後、床へ手を置いた。


『間を、少し空けたいそうです』


 そうか。


 俺は、二人分あればいいと考えていた。


 身体が収まる場所の他に、空いていてほしい場所が要るのだ。


『どっちへ動かす』


『穴の近い方へ』


『風が来るけど』


『布を、もう一枚敷きます』


 ミアが選んだのなら、それで試すしかない。


 草を移してもらい、床の尖ったところを確かめる。


 新しい寝床の端だけを、少し丸めた。


 広くはならない。


 その代わり、二人の間に、人が一人通れるほどの細い道が残った。


 ミアは自分の器を持ってきて、寝床の脇へ置いた。


 水を汲む時には、それを持っていく。


 荷物置場に預けるのは、まだ嫌らしい。


 俺が気を回して、荷物置場へまとめる必要はなかった。


 次に水を汲む時、その器は自分で持っていくのだろう。


 冷たい時間になった。


 リリアが先に寝床へ戻る。


 しばらくして、ミアも横になった。


 間にある道は、誰も通らなかった。


 それでも、空けてよかったのだろう。


 その夜は、床へ急に手をつく回数が少なかった。


 俺は、穴の方へ注意を移した。


 外から来る靴の重さは、まだない。


 また来ると言われたことは、忘れていない。


 忘れていないからこそ、いつも奥まで緊張していなくても済むようにしたかった。


 床は静かだった。


 その静けさの中で、俺は少しずつ戻ってくるものを感じていた。


 壁を動かした後の、遠くなった感覚。


 細かいところへ注意が届きにくくなる、あの薄さ。


 それが、前より早く埋まる気がした。


 虫が長くいる場所でも、似た感覚はあった。


 水路を作ってから、身体の調子が変わった気もする。


 けれど、今度は少し違う。


 リリアの寝ているあたり。


 そこから離れた、ミアの小さな重さ。


 どちらかへ注意を向けていると、身体の内側が少し濃くなっていくようだった。


 俺は、確かめるために床を動かそうとして、やめた。


 寝ている下だ。


 何をしている。


 試すなら、明日にすればいい。


 翌日、二人が外へ出た後で、水路の端を少し直した。


 昨日より楽に力が届いた。


 ただ、それがミアのおかげかどうかは、まだ分からなかった。


 最近は、二人を驚かせないよう、作業の間を空けている。


 その分、休んでいるとも言える。


 二人が戻れば、すぐに強くなるのか。


 そうではなかった。


 二人の足が戻っても、急に何かが流れ込む感じはない。


 そのまま水を飲み、草を直し、眠る。


 俺が気づくのは、ずっと後だった。


 生き物がいると、回復する。


 そう考えていいのだろうか。


 リリアへ聞いてみたが、彼女も答えられなかった。


『迷宮のことは、そんなには』


 当然だった。


 俺が設備の仕事をしていたからといって、人間の身体の仕組みを説明できたわけではない。


 まして彼女は、俺が普通の迷宮と同じかも知らない。


 俺は、その話をそこでやめた。


 分からないものに、名前だけつけて安心するのも違う。


 ただ、部屋に人がいると、俺にも変化がある。


 今は、そのくらいでいい。


 それからも、リリアは俺へ話しかけるたび、よく名前を呼んだ。


『ユーマ、水を汲んできます』


『ユーマ、ここを使ってもいいですか』


『ユーマ、戻りました』


 ミアの前でも変わらない。


 だから、ミアも俺の名前くらいは覚えているはずだった。


 それでも、ミア自身から呼ばれたことは一度もない。


 俺も、呼んでほしいとは言わなかった。


 ある時、ミアが水のところへ来た。


 手には自分の器。


 リリアは寝床で、何か細かな作業をしているらしい。


 器がくぼみの縁へ触れた。


 水をすくう。


 置く。


 いつもの順番だった。


 最後に、小さな指が床へついた。


 俺は何も返さずに待った。


 手が離れかけて、戻る。


「……ユーマ」


 小さな声が床を震わせた。


 それだけなら、意味は分からない。


 けれど今は、指先から別の何かが重なっていた。


 薄い。


 リリアと最初に言葉を探していた頃より、もっと薄い。


 それでも、俺を呼ぼうとしている。


 そう感じた。


『……ユーマ』


 名前が届いた。


 俺は、すぐには長い返事をしなかった。


『ここ』


 指のある場所へ、短く返す。


 ミアの手が引かれた。


 少し離れたところで、リリアの動きが止まる。


 ミアは逃げなかった。


 しばらくして、器の横へもう一度指を置いた。


「みず」


 声と一緒に、さっきより少しだけはっきりしたものが届く。


『水』


 今度は分かった。


 俺も同じものを返した。


『水』


 それだけだった。


 やがてミアは器を持ち上げ、自分の寝床へ戻った。


 リリアが何か話しかける。


 短い返事があった。


 俺には、その意味は届かなかった。


 少しして、リリアの手が床へ来た。


『話しましたか』


『少し。水って』


『そうですか』


 彼女は、それ以上聞かなかった。


 俺も、もう一度呼んでみようとは思わなかった。


 ミアが次に話しかけたくなった時に、返せばいい。


 しばらくして、穴から入る空気が冷えてきた。


 二つの器が置かれた。


 食べるものを分けているのか、床へ小さな重さが置かれては動く。


 俺は食べない。


 器も要らない。


 それでもリリアが、床へ手を置いた。


『ユーマも、ここで』


 聞いていて、という意味だろうか。


 俺は短く返した。


『ここ』


 ミアの指が、器の脇へ触れた。


「三人」


 リリアが言った。


 二人、と訂正しかけた。


 水を飲む人。


 草の上で眠る人。


 外へ出て、また戻ってくる人。


 その数なら二人だ。


 けれど、今の返事を待っている相手には、俺も入っていた。


『ああ』


 短く返した。


 三人になった。

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