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壁の向こう

『みんな、奥にいてくれ』


 ユーマにそう言われた時、リリアは大したことだとは思っていなかった。


 王国から調査の人たちが来たらしい。ただ、カイルがまだ来ていないから、それまで待ってもらう。


 聞いたのはそれだけだった。


 だからリリアはミア、アルスと一緒に前室から離れ、居住区側へ戻っていた。


 ガルドだけは残った。


 ユーマと調査隊の人たちは直接話せない。その間に入って話を伝えるためだった。


「調査って、何するんだろうね」


 ミアが不安そうに聞く。


「さあ。前にもカイルさんたちが来たでしょう? たぶん、あんな感じじゃないかな」


「そう……」


 納得したようには見えなかった。


 リリア自身も少し気になっている。


 ユーマがわざわざ奥にいるように言ったからだ。


「カイルさんが来るまで待ってもらうんだろ?」


 アルスが入口の方を見る。


「だったら、すぐ終わるんじゃないか」


「たぶんね」


「ならいいけどな」


 アルスも気にはしているらしい。


 それでも、カイルが来れば大丈夫だろう。


 リリアもそう思っていた。


 しばらくして、通路の奥から足音が聞こえてきた。


 早い。


 一人分だ。


 リリアが振り向くと、ガルドが姿を見せた。


「ガルドさん?」


「どうしたの?」


 ガルドはすぐには答えなかった。


 一度、入口の方を振り返る。


 それから低い声で言った。


「壁を壊しおった」


「え?」


「ユーマが通路を塞いだんじゃ。入ってくるなとな。それを魔法と人の手で壊して、入ってきおった」


 リリアは言葉を失った。


「調査の人たちが?」


「そうじゃ」


「どうして?」


「知らん。ワシも止めた」


 ガルドが苛立ったように髭を撫でる。


「ユーマもカイルが来るまで待てと言うた。それでも進むと言うんじゃ」


 アルスが眉を寄せた。


「それ、調査なのか?」


「向こうはそう言っとる」


「でも、ユーマは嫌だって言ったんだろ?」


「言うた」


「それでも壁を壊した?」


「そういうことじゃ」


 ミアがリリアの服を掴んだ。


 その手に力が入っている。


「……ここに来るの?」


「来させんためにユーマが止めとる」


 ガルドはそう言って、床へ手をついた。


「ユーマ」


 声に出して呼びながら、意識を向けている。


 少しして顔を上げた。


「ワシらはここにおれ、じゃと」


「でも――」


 リリアも壁へ手をついた。


『ユーマ、何があったの?』


 返事はない。


『ユーマ?』


 数秒待った。


 ようやく意味が返ってくる。


『……大丈夫。奥にいて』


 短い。


『でも――』


 返事はなかった。


 いつものユーマなら、もう少し何か言う。


 それだけで、嫌な予感がした。


 リリアは壁から手を離した。


「私、ちょっと見てくる」


「待て」


 ガルドだった。


「でも、何かあったみたいだよ」


「だからじゃ」


「だったら――」


「行って何ができる?」


 言葉に詰まった。


 ガルドは立ち上がる。


「あいつが奥にいろと言ったんじゃろ」


「……うん」


「なら、今はそうしとけ」


「俺も気になるけど、ガルドさんの言う通りだ」


 アルスが続ける。


「ユーマがわざわざ俺たちを奥に下げたんだ。前に出てほしくない理由があるんだろ」


 分かっている。


 自分が行ったところで何ができるのか。


 戦えるわけでもない。


 むしろユーマの邪魔になるかもしれない。


 それでも、じっとしているのは嫌だった。


 その時だった。


 腹の底に響くような衝撃が走った。


「きゃっ!」


 ミアが身体を縮める。


 リリアも反射的に壁へ手をついた。


 床が震えている。


 天井から細かな砂が落ちた。


「何だ、今の!」


 アルスが入口側を見る。


「魔法じゃろうな」


 ガルドの顔が険しくなる。


「入口の方じゃ」


 リリアの胸がざわついた。


 もう一度、衝撃。


 さっきより大きい。


 壁が震え、何かが砕ける音が遠くから響いた。


 ミアがリリアの服をさらに強く掴む。


「……また」


「うん」


 今度は一度では終わらなかった。


 低い衝撃。


 硬いもの同士がぶつかる音。


 人の叫び声。


 遠すぎて、何を言っているのかまでは分からない。


 それでも、入口の方で何かが起きていることだけは分かった。


「……戦ってるの?」


 ミアの声が震えている。


 リリアは答えられなかった。


 アルスが入口側を睨む。


「たぶん……そうだ」


「誰と?」


「さっき来た調査隊だろ。他に誰がいる」


「でも、調査に来たんでしょう?」


 リリアが聞く。


「俺に聞くなよ。俺だって分からない」


 アルスも戸惑っている。


 ガルドが壁へ手を当てた。


 しばらく黙っていたが、やがて眉を寄せる。


「これは……魔法だけじゃないな」


「どういうこと?」


「壁か床が動いとる」


 リリアはガルドを見る。


「それって……」


「ユーマじゃろ」


 また衝撃が走った。


 今度は、さっきとは違う。


 爆発ではない。


 硬い何かが、何かにぶつかったような音。


 それが何度も続く。


 リリアは壁へ手を触れた。


 ユーマが戦っている。


 人間と。


 今までユーマが動かしてきた岩は、いつも誰かのためだった。


 水を流すため。


 道を作るため。


 自分たちが眠れる場所を作るため。


 その同じ壁と床を、今は誰かを止めるために動かしている。


「……ここまで来る?」


 小さな声がした。


 ミアだった。


「え?」


「その人たち……ここまで来るの?」


 服を掴んでいる手に力が入る。


「来させないよ」


 考えるより先に答えていた。


「でも……」


 ミアの顔はまだ強張っている。


 リリアには、その理由が分かる気がした。


 誰かがやって来る。


 自分たちの意思とは関係なく。


 連れていかれるかもしれない。


 ミアにとって、それはただの想像ではない。


 アルスが二人の近くへ寄った。


「もし来ても、俺たちもいる」


 ミアがアルスを見る。


「ユーマだけに全部やらせるつもりはない。ここまで来たら、俺たちで止める」


「お前さん、何で止めるつもりじゃ」


 ガルドが聞く。


 アルスが一瞬黙った。


「……何か探す」


「考えてなかったんじゃな」


「今から考えるんだよ」


 ガルドが鼻を鳴らした。


 リリアは思わず小さく笑った。


 ミアの表情も、ほんの少しだけ緩む。


 そのアルスが、ふと入口へ続く通路を見た。


 笑いが消えた。


「……待てよ」


「どうしたの?」


 アルスは答えず、入口の方向から自分たちがいる場所までを目で追っている。


「ここって……入口からずっと、ほとんど一本道だよな」


 リリアも通路を見る。


 入口。


 前室。


 そこから居住区へ続く通路。


「そうじゃな」


 ガルドが答える。


「今はユーマが前で止めてる。でも、そこを抜かれたら?」


 誰も答えなかった。


 アルスが周囲を見回す。


「次に止める場所がない」


 リリアは初めて、そのことに気づいた。


 今までは何とも思わなかった。


 人が歩きやすいように。


 荷物を運びやすいように。


 暮らしやすいように。


 そうやって少しずつ作ってきた場所だ。


「……確かにな」


 ガルドの表情が変わった。


 今度は彼が通路を見回す。


「住むことばかり考えて作っとったからな。守る造りにはなっとらん」


「じゃあ、もしユーマが止められなかったら……」


 ミアが呟く。


「ここまで一気に来られる」


 アルスが答えた。


 リリアの背中が冷たくなる。


 また振動が伝わってきた。


 今度は近い。


 金属が岩にぶつかる音。


 走る足音。


「……怖い」


 思わず声に出ていた。


 アルスが入口を見る。


「ガルドさん。もし抜かれたら?」


「ここで止めるしかないじゃろ」


「分かった」


 アルスは周囲を見回し、使えそうなものを探す。


 ガルドも近くに置いてあった工具を手に取った。


「ミアは一番後ろじゃ」


「う、うん」


「リリアもミアと――」


「私はここにいる」


 アルスがリリアを見る。


「でも」


「私だって、ここに住んでるんだから」


 アルスは何か言いかけた。


 それから諦めたように息を吐く。


「……分かった。じゃあ、無茶はするなよ」


「アルスもね」


「俺はするかもしれない」


「しないでよ」


「分かってるって」


 アルスが前へ出る。


 ガルドがその隣に立った。


 リリアはミアの前へ出る。


 戦えるとは思っていない。


 それでも、もし誰かがここまで来たら。


 その時は――。


 大きな衝撃が走った。


 リリアは身体を固くする。


 もう一度。


 さらにもう一度。


 壁が震える。


 ミアが息を呑んだ。


 ガルドが工具を握り直す。


 アルスも入口から目を離さない。


 そして。


 何も聞こえなくなった。


「……」


 誰も動かなかった。


 静かすぎる。


 さっきまで続いていた振動も、叫び声も、何もない。


 リリアは壁へ手をついた。


『……ユーマ?』


 返事がない。


『ユーマ?』


 数秒だったと思う。


 でも、ずっと長く感じた。


『大丈夫』


 リリアは息を吐いた。


『終わったの?』


『たぶん』


 たぶんって何。


 そう言いそうになった。


『大丈夫。みんな生きてる』


 その一言で、言葉が止まった。


 ユーマも。


 来た人たちも。


 誰も死んでいない。


『……何があったの?』


 今度は聞いた。


 少し間があった。


『王国の調査隊が来た。カイルが来るまで待ってくれって言ったんだけど、待ってくれなかった』


『それで?』


『壁を作って止めたら、壊して入ってきた』


 簡単な説明だった。


『そのまま進んできたから、最初は怪我させないように止めようとした』


『……うん』


『でも、俺が床を動かしたら、向こうから見れば実力行使になったらしい』


 リリアは壁へ触れたまま黙った。


『それで、向こうも反撃するってことになった』


『ユーマは?』


『俺も止めた』


 それだけだった。


 でも、入口側から聞こえてきた音を思い出せば、それだけではなかったことくらい分かる。


『怪我した人は?』


『いると思う』


『死んだ人は?』


『いない。十人とも生きてる』


 リリアは目を閉じた。


 よかった。


 何がよかったのか、自分でもよく分からない。


 ユーマが無事だったことなのか。


 誰も死ななかったことなのか。


 たぶん、両方だ。


 アルスがリリアを見る。


「何て?」


「全員、生きてるって」


「調査隊も?」


「うん」


 アルスはしばらく黙った。


「……そっか」


 ガルドも何も言わない。


 ミアがリリアの服を掴んだまま聞いた。


「……また来るの?」


『分からない』


 ユーマはすぐに答えた。


『だから、まだこっちには来ないでくれ』


「……うん」


 ミアが小さく頷く。


 しばらくして、入口の方から新しい声が聞こえてきた。


 リリアは顔を上げる。


 聞き覚えがある。


「カイルさんだ」


「やっと来たか」


 ガルドが工具を下ろした。


「行っていいかな」


「まだ待っとけ」


 今度はアルスが止めた。


「怪我人がいるんだろ。俺たちが行っても邪魔になる」


 ガルドがアルスを見る。


「今度はお前さんが止めるんじゃな」


「俺だって考える時くらいある」


「そうかそうか」


「何だよ、その言い方」


 リリアは少し笑って、座り直した。


 遠くから何人かの声が聞こえる。


 何を話しているのかは分からない。


 ただ、さっきまでとは違った。


 怒鳴り声も、爆発もない。


 やがて、人の声や足音が少しずつ遠ざかっていった。


 ユーマから、もう大丈夫だと伝えられたのは、それからだった。


 リリアたちは前室へ向かった。


 最初に見えたのは、砕けた壁だった。


「……」


 思わず足が止まる。


 壁の一部が大きく崩れている。


 天井には抉れた跡。


 床は何か所も歪み、焦げた場所もある。


 血も残っていた。


 ミアがまた服の裾を掴む。


「カイルさんたちも一緒に引き上げたの?」


 リリアが壁へ触れながら聞いた。


『ああ。怪我人もいるから、一度戻るって』


『また来る?』


『カイルは、一度戻って話をつけるって言ってた』


『王国の人たちは?』


『それは分からない』


『……そっか』


 アルスは入口の方を見た。


 さっき自分が気づいた一本道の通路が、その先まで続いている。


「ユーマ」


『何だ?』


 アルスが砕けた壁を指した。


「これ、最初に作った壁か?」


『そう』


「どうやって壊された?」


『魔法を何発か当てられて、そのあと人の手でも崩された』


 アルスの顔が険しくなる。


 ガルドも破断面へ近づいた。


 手で岩肌を確かめる。


「かなり厚くしたんじゃろ?」


『そのつもりだった』


「それでも抜かれたか」


『うん』


 アルスがもう一度、通路を見る。


「じゃあ、壁をもう一枚作るだけじゃ駄目なんじゃないか?」


『……どういうこと?』


「一枚壊されたら、また次を作る。それも壊されたら、また作る。それじゃ、ずっと同じことになるだろ」


 ガルドがゆっくり頷いた。


「こいつの言う通りじゃ」


 今度は入口から前室までを確かめるように見渡す。


「壁そのものを厚くするだけじゃ足らんな」


『それは俺も思った。じゃあ、どうする?』


「壁だけじゃない。中の造りから考え直さんと駄目じゃな」


 アルスが頷く。


「とりあえず、入口からここまで真っ直ぐ来られるのがまずいと思う」


「曲げるか?」


「それだけじゃ足らんじゃろうな」


「じゃあ、途中で止められる場所を作るとか」


「それは使えるかもしれんな」


『なるほどな……』


 ユーマの返事が少し遅れた。


 もう考え始めているのかもしれない。


 リリアは壁に手を触れた。


 冷たい岩だった。


 いつもと同じ、ユーマの身体。


『……ユーマ』


『ん?』


『怖かった?』


 少し間があった。


『まあ、ちょっとな』


 リリアは壁に触れたまま、小さく笑った。


『私も』


『そっか』


『うん』


 それだけだった。


 ガルドとアルスは、もう入口を見ながら話している。


「入口から真っ直ぐ奥が見えるのもよくないな」


「前室の前に、もう一つ区切りがいるかもしれん」


「人が来た時に、そこで止まってもらう?」


「そうじゃな。住んどる場所まで簡単に来られんようにする」


 二人の話を聞きながら、リリアはもう一度、砕けた壁を見る。


 今まで入口は、人が入ってくる場所だった。


 外へ出るための場所でもあった。


 今日、それだけではなくなった。


 その向こうから、入ってきてほしくない人が来ることもある。


 そしてユーマは、そこで十人の人間を止めた。


 自分たちのいる場所まで来させないために。


『ユーマ』


『ん?』


『……ありがとう』


 少し間があった。


『どういたしまして』


 リリアは壁から手を離した。


 その向こうでは、アルスとガルドが入口を見ながら、まだ話を続けていた。

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