幕間08 王国の判断
アルセリア王国軍特務局。
その会議室に集められた六人の前には、一冊の報告書が置かれていた。
探索者協会の迷宮専門家、カイル・レヴァンが提出したものだ。
シルヴァン・レイグは最後のページまで目を通すと、報告書を机へ置いた。
「では、始めよう」
低い声とともに、室内の空気が変わった。
「今回の議題は、先日発見された知性を持つ可能性のある迷宮についてだ」
シルヴァンは出席者を見回す。
探索者協会から呼ばれたカイルのほか、軍務、魔術、迷宮災害への対応に関わる者が席についている。
その中には、今回の追加調査が決まった場合、現地指揮を任される予定の男もいた。
ダリウス・ベルグレン。
四十二歳。王国軍で迷宮災害や魔物討伐に携わってきた軍人だ。
「まず確認しておく」
シルヴァンが続ける。
「現時点で、この迷宮による人的被害は確認されていない。カイル、それで間違いないな?」
「ああ」
カイルは椅子に深く座ったまま答えた。
「少なくとも、俺たちが確認した範囲ではな。人間を誘い込んだ形跡もない。積極的に襲ってきたこともない」
「それだけで安全とは言えん」
ダリウスが口を挟んだ。
カイルはそちらへ視線を向ける。
「言ってない」
「だが、報告書からは随分と好意的な印象を受ける」
「見たものを書いただけだ」
ダリウスの眉が僅かに動く。
「会話が成立した。こちらの質問にも答えた。敵対行動もなかった。それを報告書に書くのが好意的だっていうなら、好きに解釈してくれ」
「カイル」
シルヴァンが名前を呼ぶ。
カイルは肩をすくめ、それ以上は言わなかった。
シルヴァンは机の上の資料を一枚めくる。
「問題は知性の有無だけではない。この迷宮には、従来の迷宮とは異なる特徴が複数確認されている」
指先で項目を追う。
「意図的と見られる内部構造の変化。周辺の植生に影響を与えている可能性。そして、人間との意思疎通」
「変化の速さも無視できません」
別の席から静かな声が上がった。
「最初に侵入した兵士たちの証言と、探索者協会の調査結果を比較すると、すでに内部構造に複数の変化が見られます。前室や扉もその一つです。本人の説明が正しいなら、必要に応じて自ら構造を変えていることになります」
シルヴァンが頷く。
「つまり、現時点では情報が足りない」
「その通りです」
短い沈黙が落ちた。
やがてダリウスが腕を組む。
「だからこそ、早いうちに処理すべきではないのか」
カイルの視線が動いた。
「処理?」
「迷宮だ。成長する前に破壊する。それが従来の対応だろう」
「知性があるかもしれない相手でもか?」
「知性があるからこそだ」
ダリウスは即答した。
「考える迷宮。学習する迷宮。自ら構造を変え、人間と会話する迷宮。そんなものが成長した後で敵対したらどうする」
カイルはすぐには答えなかった。
その懸念自体は理解できる。
迷宮が災害となった時、どれほどの被害が出るのか。
カイル自身、知らないわけではない。
「危険性は否定しない」
やがてカイルは答えた。
「だが、危険かもしれないって理由だけで、今すぐ壊すのには反対だ」
「被害が出てからでは遅い」
「だから調べるんだろ」
二人の視線がぶつかる。
ダリウスの考えは単純な敵意ではない。
未知のものが成長してからでは手遅れになるかもしれない。
軍人として、その可能性を無視するわけにはいかないのだろう。
シルヴァンは二人のやり取りをしばらく見てから、机を指先で軽く叩いた。
「討伐の是非を決めるには早い」
ダリウスがシルヴァンを見る。
「しかし――」
「同時に、安全と認定するにも早い」
その一言で反論を止める。
「我々が知っているのは、現時点では意思疎通が可能であり、明確な人的被害を出していないということだけだ。今後もそうである保証はない」
今度はカイルを見る。
「異論は?」
「ない」
カイルは即答した。
「俺も安全だなんて言うつもりはない」
「ならば、追加調査が必要だ」
シルヴァンは資料へ目を落とした。
「特に確認すべきは迷宮核だ」
室内が静かになる。
迷宮核。
一般的な迷宮で確認される、魔力が局所的に集中した中枢。
「探索者協会の調査では、許可された範囲から迷宮核に相当するものは発見されなかった。ただし、存在しないと結論づけられる段階でもない」
「ああ」
カイルが頷く。
「エミルもそう言ってる。俺たちが調べてない場所にある可能性は残ってる」
「本当に核が存在するのか。存在するなら、どこにあるのか。既知の迷宮核と同じ性質を持つものなのか」
シルヴァンは一度言葉を切った。
「追加調査では、その確認を優先する」
「そこまでは賛成だ」
カイルが答える。
「ただし、壁を壊して探せって話なら別だぞ」
何人かの視線がカイルへ向いた。
「報告書にも書いた。あそこの床も壁も扉も、本人は自分の身体だと言ってる」
「本人?」
ダリウスが聞き返す。
「ユーマだよ」
「迷宮の呼称か」
「本人が自分の名前として認識してる」
ダリウスが僅かに眉を寄せる。
「迷宮を人間のように扱うのは、判断を誤らせる可能性がある」
「名前で呼んでるだけだ」
「名前を持つものとして接すれば、情が入る」
「だからって番号でも振るのか?」
「カイル」
再びシルヴァンが止める。
カイルは口を閉じた。
「呼称について議論するつもりはない。報告書との統一を図るため、当面はユーマと呼称する」
ダリウスは何も言わなかった。
シルヴァンは続ける。
「構造物への接触、および内部調査については、原則として対象の許可を得た範囲に限定する」
カイルが僅かに姿勢を直した。
「壊すなってことか?」
「許可なく破壊するな、ということだ」
「ならいい」
「理由は二つある。一つは、お前の報告どおり構造物そのものが対象の身体である可能性があること。もう一つは、現時点で意思疎通が成立している以上、こちらから敵対行動と受け取られる行為をする必要がないことだ」
ダリウスが口を開く。
「調査に必要な場所への立ち入りを拒否された場合は?」
「まず交渉する」
「それでも拒否されたら?」
「その時点で持ち帰れ」
ダリウスの目が細くなる。
「それでは調査にならん場合もある」
「だからといって、討伐命令も出ていない相手を軍の判断だけで破壊していい理由にはならん」
シルヴァンの声は変わらなかった。
「今回の目的は調査だ。敵を作ることではない」
「……了解した」
ダリウスは短く答えた。
シルヴァンはカイルへ視線を移す。
「ただし、調査隊の安全を犠牲にするつもりもない。対象が明確な敵対行動を取った場合、現地指揮官には部隊を守るための判断が必要になる」
カイルは少し考える。
「その線引きが曖昧だな」
「現場で起こり得る全てを、この場で規定することはできん」
「まあ、そうだろうな」
「だから、お前にも同行してもらう」
カイルが顔を上げた。
「俺が?」
「この中で、実際に対象の意思を確認し、調査を行った迷宮専門家はお前だけだ」
シルヴァンは机の上で両手を組んだ。
「迷宮調査の要員と護衛を合わせ、十名前後を選抜する。現地指揮はダリウスが担当する」
ダリウスが黙って頷いた。
「カイルは対象との交渉、および迷宮に関する専門判断を担当する。指揮系統には入れない」
「俺が止めろと言った場合は?」
「対象との交渉に関する判断は尊重させる。ただし、部隊の安全に関する最終判断はダリウスが行う」
「……面倒な分け方だな」
「意図的だ」
シルヴァンは表情を変えなかった。
「お前一人に軍事判断を任せるつもりはない。逆に、軍人だけに知性ある可能性のある迷宮との交渉を任せるつもりもない」
カイルは少し考えてから頷いた。
「それなら分かった」
ダリウスも異論は挟まなかった。
シルヴァンは他の出席者を見る。
「ほかに意見は?」
少しの沈黙の後、ダリウスが口を開いた。
「一つだけ」
「言え」
「今回の調査とは切り離して、緊急時の対応計画は準備しておくべきだ」
カイルがダリウスを見る。
「対象が安全と確認されたわけではない。成長速度も、最終的な規模も、能力の全容も不明だ。万一敵対した場合、何も準備していなかったでは済まん」
シルヴァンは頷いた。
「同意する」
カイルは何も言わなかった。
それは討伐命令ではない。
軍が未知の危険に備えることまで否定するつもりもなかった。
「今回の派遣とは切り離して準備する。現地の調査隊に討伐任務は与えない」
シルヴァンは資料を閉じた。
「結論を確認する」
室内が静まる。
「第一に、現時点で対象を討伐対象とはしない。同時に、安全とも認定しない」
一つ。
「第二に、追加調査を実施する。迷宮核の有無と性質、成長の状況、周辺への影響を優先して確認する」
二つ。
「第三に、対象との意思疎通を優先する。内部への立ち入り、構造物への接触および調査は、原則として許可された範囲に限定する」
三つ。
「第四に、対象が将来危険となった場合に備え、緊急時の対応計画を今回の調査とは別に準備する」
四つ。
シルヴァンは全員を見回した。
「調査隊は半月以内を目安に編成する。現地指揮はダリウス・ベルグレン。カイル・レヴァンを迷宮専門家として同行させる」
誰からも反対は出なかった。
「以上を暫定方針とする」
会議が終わる。
椅子が引かれ、出席者たちが資料をまとめ始めた。
カイルも報告書を手に取り、立ち上がる。
「カイル」
シルヴァンに呼び止められた。
「なんだ」
「お前は、あの迷宮をどう見ている」
カイルは少し考えた。
「分からん」
シルヴァンが僅かに眉を動かす。
「迷宮専門家の答えとは思えんな」
「専門家だから分からないって言ってるんだ」
カイルは報告書を軽く持ち上げた。
「今までの迷宮なら、ある程度は分かる。どう成長するか。何を危険と見るか。核をどう探すか」
一度、言葉を切る。
「あいつは、そのどれにも当てはまらない」
「だから危険か?」
「それも分からん」
カイルは扉へ向かう。
「ただ、一つだけ言える」
「何だ」
「あいつは、こっちが何をしたか覚えてる」
シルヴァンは黙った。
「最初に入った兵士を捕まえた。でも殺さなかった。食わせて、水も与えて、最後には武器まで返して外へ出した」
カイルは報告書へ目を落とす。
「俺たちが話をしに行った時は、調査もさせた。触っていい場所と駄目な場所を決めてな」
「つまり?」
「こっちの出方を見て、自分の対応を変えてるってことだ」
カイルはシルヴァンを見る。
「敵として扱えば、それも覚えるだろうな」
それだけ言って、カイルは会議室を出た。
扉が閉まる。
残されたシルヴァンは、机の上の報告書へ視線を落とした。
表紙には、今回の対象を示す名が記されている。
ユーマ。
討伐対象ではない。
安全と認められたわけでもない。
既存の迷宮と同じものなのかさえ、まだ分からない。
だから調べる。
話が通じる間は、話をする。
それが、王国の出した最初の判断だった。
この日から王国は、ユーマという名を持つ迷宮を、正式に一つの「未知の対象」として扱い始めた。




