正しい歴史
朝になった。
俺には太陽も見えないし、外が明るくなったのかも分からない。
でも、一つずつ生命が動き始める。
リリア。
ミア。
ガルド。
アレン。
壁際には、隊長と若い兵士、それからもう一人の兵士。
七人全員、昨日と同じ場所にいる。
ただ、空気は少し違うらしい。
ガルドが床へ手をついた。
『昨日の話、覚えとるか』
『人間が魔族に何かされたってやつ?』
『そうだ』
『覚えてる』
『アレンが話を聞きたいそうだ』
『リリアに?』
『両方だ』
『両方?』
『リリアと兵士だ』
なるほど。
俺も気になっている。
人間から逃げてきたと言ったリリア。
人間が魔族に何をされたと思っている、と怒った若い兵士。
同じ話をしているようには思えなかった。
『俺も聞きたい』
『なら聞いとけ』
『聞こえないけど』
『ワシが拾ってやる』
『全部?』
『大体な』
『頼む』
ガルドが、近くで交わされる言葉の意味を俺へ伝えてくれる。
声そのものは分からない。
でも、何を話しているのかは分かる。
アレンがリリアへ向き直ったらしい。
「昨日、人間から逃げてきたと言ったな」
「……うん」
「なぜ追われていた」
「分からない」
「分からない?」
「私が魔族だからだと思う」
アレンが黙った。
「それだけか」
「それだけって?」
「何かしたわけじゃないのか」
「してない」
床へ触れているリリアの手から、僅かな揺れが伝わる。
怖いというより、嫌なことを思い出しているような感じだった。
「見つかって、追いかけられて……逃げた」
「誰にだ」
「人間」
「兵士か?」
「分からない」
「武器は持っていたか」
「持ってた」
「何人いた」
「分からないって!」
リリアから強い感情が流れてきた。
怒り。
それから、少しの恐怖。
アレンも気づいたらしい。
「……悪い」
「必死だったから、覚えてない」
「そうか」
「逃げて、ずっと逃げて……ここに来た」
その先は、俺も知っている。
弱ったリリアが小さな穴を通って、俺の中へ入ってきた。
水を飲んだ。
眠った。
あの時は、人間から逃げてきたなんて知らなかった。
「でも」
若い兵士が口を挟んだ。
「追われて当然だろ」
リリアの感情が止まる。
「何で?」
「魔族だからだ」
「それの何が悪いの!」
「何が悪い?」
若い兵士が立ち上がろうとしたらしい。
「座ってろ」
隊長が止めた。
「隊長、でも――」
「話をするんだろう。座れ」
若い兵士は座り直した。
アレンがそのまま若い兵士へ話を向ける。
「昨日、お前は人間が魔族に何をされたと思っている、と言ったな」
「言いました」
「何の話だ」
「紅月戦争のことに決まってるでしょう」
紅月戦争。
昨日、初めて聞いた名前だ。
「魔族が国境を越えた。村を焼いて、人を殺した。俺たちはそう教えられてきた」
「俺もだ」
アレンが答えた。
俺は少し引っかかった。
『アレンも?』
ガルドが俺の言葉を伝える。
アレンが何か答えた。
『ああ、だと』
『知ってる話?』
またガルドが伝える。
少しして返事が来た。
『知っているというより、それが自分たちの知っている歴史だそうだ』
『どういうこと?』
ガルドが聞き返す。
アレンの声が続く。
『アレンの一族にも、紅月戦争で死んだ者がいるらしい』
『……そうなの?』
『本人が生まれるより、ずっと前の話だとよ』
『魔族に殺された?』
少し間があった。
ガルドが答えを返す。
『そう聞いて育ったそうだ』
知らなかった。
だから、初めてリリアと会った時から、アレンは警戒していたのかもしれない。
話ができると分かっても、すぐには信用しなかった。
『だからリリアを警戒してた?』
ガルドが伝える。
アレンは少し黙ってから答えた。
『それだけじゃないが、否定はしない、と』
それだけじゃない。
少し気になった。
でも、今は聞かなかった。
リリアの手から、戸惑うような感情が流れてくる。
「違う」
リリアが言った。
若い兵士が反応する。
「何が違う」
「今の話」
「だから、何が違う!」
「私が聞いてる話と違う!」
「何?」
「先に攻めてきたのは人間だよ」
若い兵士が大きく動いた。
「ふざけるな!」
「ふざけてない!」
リリアの感情が一気に強くなる。
「人間が私たちの土地に入ってきた。土地を取って、魔族を追い出した。だから戦争になったって教わった!」
「だったら、何で人間の村が焼かれた!」
「知らない!」
「都合が悪くなったら――」
「知らないものは知らない!」
さっきまで人間兵を怖がっていたリリアが、今は引かなかった。
怒りが、床を通して俺にまで伝わってくる。
若い兵士も、また立ち上がろうとした。
「座れ!」
隊長が止める。
若い兵士の動きが止まった。
リリアはまだ怒っている。
『ちょっと待って』
ガルドへ伝える。
『何だ』
『どっちが本当なの?』
『知らん』
『え?』
あまりにも早い返事だった。
『ガルドも知らないの?』
『知らん』
『でも、長く生きてるんだろ?』
『お前さん、ワシを何歳だと思っとる』
『結構なお爺ちゃんだろ』
『殴るぞ』
少しだけ空気が緩んだ。
でも、ガルドから届く意思はすぐに真面目なものへ戻る。
『そもそも、ワシが聞いとる話はどっちとも少し違う』
『え?』
ガルドが床から手を離す。
今度はアレンたちへ声で話し始めた。
「ドワーフの話じゃ、人間だけが攻めたとも、魔族だけが攻めたとも聞いとらん」
若い兵士が問い返す。
「どういう意味だ」
「最初は土地の取り合いだったと聞いとる」
「土地?」
「鉱山もあった。水もあった。どこからどこまでが誰の土地かで揉めた。それが何度も続いた」
ガルドが少し間を置く。
「人間も進んだ。魔族も進んだ」
「そんな話、聞いたことがない」
若い兵士が言う。
「ワシもお前さんらの話は聞いたことがある」
「なら――」
「魔族側の話もな」
若い兵士が黙った。
今度はリリアが尋ねる。
「ガルドは、どれが本当だと思う?」
「知らん」
「また?」
「知らんものは知らん」
ガルドはあっさりしている。
「ワシが見たわけじゃねえからな」
「じゃあ、誰なら分かるの?」
「当時そこにいた奴じゃねえか」
「その人たちは?」
「ほとんど死んどるだろ」
「……そっか」
考えてみれば当たり前だ。
昔の戦争。
その時そこにいた人間は、もうほとんどいない。
残っているのは。
『話だけ?』
ガルドが床へ触れた。
『記録もある』
『じゃあ、記録を見れば分かる?』
ガルドはすぐには答えなかった。
『それも、どうだろうな』
『何で?』
『国が残した記録なら、人間側から見たもんだ』
『あ』
『魔族の記録なら、魔族側から見たもんになる』
『じゃあ、ドワーフの記録は?』
『ドワーフから見たもんになるだろうな』
『……全部違うじゃん』
『そういうこともある』
『困るんだけど』
『ワシに言うな』
俺は考える。
人間は、魔族が攻めてきたと言う。
魔族は、人間が攻めてきたと言う。
ドワーフは、どちらも進んだと言う。
『誰かが嘘ついてるとか?』
『かもしれん』
『かもしれない?』
『嘘をついとらんかもしれん』
『どういうこと?』
『自分が見たことだけなら、どっちも本当になることがある』
よく分からない。
『例えば?』
『人間の村から見れば、ある日突然、魔族が攻めてきた。それは本当かもしれん』
『うん』
『その前に別の場所で、人間が魔族を追い出していたとしても、その村の奴は知らん』
『ああ……』
『逆も同じだ』
何となく分かってきた。
全部を知っている人がいない。
それぞれ、自分が見たところから話が始まっている。
『面倒だな……』
『今さら気づいたか』
『前は、そんなこと考えたことなかった』
学校で習った歴史には、最初から文章があった。
何年に何が起きた。
誰が勝った。
誰が負けた。
俺は、それを覚えればよかった。
でも、今ここにいる人たちは違う。
リリアは、自分たちが追われたと教えられてきた。
若い兵士は、人間が襲われたと教えられてきた。
アレンも同じ歴史を知っている。
ガルドは、そのどちらとも少し違う話を聞いている。
アレンがリリアへ話しかけた。
「リリア」
「何?」
「お前が知っている紅月戦争の話を、もう少し聞かせてくれないか」
リリアの手から、警戒するような感情が届く。
「私の話、信じるの?」
「まだ分からん」
アレンはすぐに答えた。
「ただ、俺が知っている話だけで決めるのも違う気がしてきた」
「……」
「だから聞きたい」
少し間があった。
「分かった」
リリアが答える。
「私が知ってることだけでいいなら」
「ああ」
若い兵士は何も言わなかった。
隊長も。
もう一人の兵士も。
ガルドも黙っている。
俺も考えていた。
誰か一人が嘘をついているなら簡単だった。
こっちが正しい。
あっちが間違っている。
それで終わる。
でも、そうは思えない。
アレンも。
リリアも。
若い兵士も。
みんな、自分の知っていることを本当だと思っている。
『……何が正しいんだろうな』
誰からも答えは返ってこなかった。
ただ、リリアは話そうとしている。
アレンは、それを聞こうとしている。
正しい歴史が何なのかは、まだ分からない。
でも。
少なくとも、聞かないよりはましなんだろう。




