兵士
最初に気づいたのは、俺だった。
いつもの穴がある方へ広げた身体の端に、何かが入った。
『……誰か来た』
近くにいたミアが床へ手をつく。
『誰か?』
『一人。多分』
リリアとミアは今日は中にいる。
ガルドもいる。
なら、知っている誰かではない。
ミアの隣で、リリアも床へ触れた。
『どこ?』
『いつもの穴の方。まだこっちには来てない』
生命の位置へ意識を向ける。
ゆっくり動いている。
リリアたちが帰ってくる時とは違う。
進んでは止まり、また進む。
『こっちに向かってる』
リリアの手から意思が返る。
『人?』
『そこまでは分からない』
生命があることと、大まかな位置は分かる。
でも、それだけだ。
大きさや動き方から想像することはできても、人間かどうかまでは断定できない。
ガルドが床へ手をついた。
『嬢ちゃんら、奥へ行っとけ』
リリアからすぐに返る。
『ガルドさんは?』
『ここにいる』
『でも』
『いいから行け』
俺もリリアへ意識を向けた。
『俺も、その方がいいと思う』
返事がない。
『リリア?』
少し間があった。
『……分かった』
リリアとミアが奥へ移動する。
ガルドは残った。
『ガルドも下がった方がよくないか?』
俺が聞くと、ガルドは床へ手をついたまま答えた。
『誰が来たかも分からんのに、全員で隠れてどうする』
『危ないかもしれない』
『だからワシが見る』
『爺さんなのに?』
『うるせえ。誰が爺だ』
少しだけ力が抜けた。
でも、近づいてくる生命は止まらない。
俺の身体になった場所を、一歩ずつ進んでいる。
ここまで広げておいてよかった。
以前なら、もっと近くまで来なければ気づけなかった。
『もう少しで来る』
ガルドが一度床へ触れる。
『分かった』
さっきまでとは違う。
短い返事だった。
警戒しているのだろう。
俺も、できることを考える。
床も壁も天井も、前より速く動かせる。
浅い溝なら、それほど時間はかからない。
岩を動かして音を出すこともできる。
小石を落として驚かせることもできるだろう。
でも、まだ何もする必要はない。
相手が誰なのかすら分からないのだから。
知らない生命が、居住空間へ続く場所まで入ってきた。
止まる。
動かない。
ガルドも黙っている。
何をしているのか、俺には分からない。
やがてガルドが床へ手をついた。
『人間だ』
『一人?』
『ああ』
『武器は?』
『剣。防具も着けとる』
『兵士?』
『多分な』
兵士。
その言葉だけで、リリアを追ってきた奴らを思い出した。
俺は奥にいるリリアへ意識を向ける。
『リリア』
少しして、リリアが床へ触れた。
『聞こえてる』
『知ってる奴?』
『ここからじゃ見えない』
『そっか』
武器と防具を持った、知らない人間。
警戒する理由としては十分だった。
男がまた動く。
一歩進んでは止まり、また一歩。
ガルドが床へ触れた。
『慎重だな』
『何してる?』
『そこら中見ながら歩いとる』
『何を探してるんだろ』
『知らん』
男が俺の中を進んでくる。
微光苔が増えた場所まで来たところで、また止まった。
今度は長い。
ガルドが床へ触れる。
『……気づいたな』
『何に?』
『ここが自然にできた洞窟じゃねえってことにだ』
そりゃそうか。
水路。
棚。
食卓。
寝床。
少し前までなら、ただの岩穴に近かった。
今は違う。
誰かが暮らしている。
そう見える場所になっている。
男が何か声を出した。
俺には意味は分からない。
ガルドが床へ触れる。
『誰かいるのか、だとよ』
『いるけど』
『ワシが答える』
ガルドが声を出す。
男が反応し、何かを返した。
すぐにガルドが床へ手をつく。
『そこで止まれと言っとる』
『ガルドに?』
『ああ』
『止まる?』
『止まってやった』
『素直だな』
『剣に手ぇかけとる奴を刺激してどうする』
『それもそうか』
ガルドと男が声で話す。
俺には言葉そのものは分からない。
会話が一度途切れると、ガルドが床へ触れた。
『何者だとよ』
『ガルドが?』
『ワシらがだ』
『何て答えるの?』
『ただの石掘り』
『絶対怪しまれるだろ』
『何でだ』
『こんなところに住んでる石掘りがいるか?』
『ここにいる』
『そうだけど』
ガルドがまた男へ声をかける。
しばらくやり取りが続いた。
やがて、ガルドが俺へ触れる。
『名前はアレンだとよ』
『アレン』
『アレン・クロード。元兵士らしい』
『元?』
『今は軍を離れとるそうだ』
元兵士。
それでも剣と防具を持って山の中を歩いている。
『何でここに?』
『聞いとる』
ガルドがアレンへ声をかける。
何度か言葉が行き来した。
少しして、ガルドが床へ触れた。
『この辺りを調べとるらしい』
『何を?』
『人の痕跡だ』
『人?』
『山の中で人が動いとる形跡が増えたんだと』
思い当たる。
リリアもミアもガルドも外へ出て、食料や石を探している。
俺自身も、少しずつ身体を外側へ広げている。
外から見れば、以前とは違う。
『俺たちか』
『多分な』
『それで一人で来たの?』
『近くを通ったついでに確かめに来たらしい』
『行動力あるな』
『元兵士なんぞそんなもんだ』
『そうなの?』
『知らん』
『適当だな』
ガルドがアレンと話を続ける。
しばらくは問題なかった。
でも、不意にガルドの手から伝わる意思が強くなった。
『嬢ちゃんら、出てくるな』
奥にいる二人へ向けた言葉だった。
少ししてリリアが床へ触れる。
『どうしたの?』
『いいから、そこにいろ』
俺はガルドへ意識を向けた。
『何があった?』
ガルドから返ってくる。
『こいつ、魔族を探しとる』
リリア。
『……何で?』
『この辺りで、魔族の娘を見た奴がいるらしい』
嫌な感じがした。
リリアを追ってきた連中。
あれから時間は経っている。
でも、完全に終わったとは限らない。
『リリアを探しに来た?』
『本人は、そこまで知らんようだ』
『どういうこと?』
『人の痕跡を探してる途中で、魔族の娘を見たって話も聞いた。それだけらしい』
なら、まだリリアのことだと決まったわけじゃない。
奥で、リリアが動いた。
床へ手をつく。
『……私、出る』
『待って』
『隠れてたら、余計に怪しまれる』
『それはそうだけど』
『大丈夫』
『大丈夫じゃなかったら?』
返事が止まる。
俺も止める言葉を探した。
その前に、ガルドが床へ手をついた。
『ワシがいる』
『だけど……』
『少なくとも、いきなり斬らせはせん』
『止められる?』
『止める』
短い返事だった。
迷いはない。
俺はリリアへ意識を戻した。
『……分かった』
リリアがこちらへ歩いてくる。
その後ろで、ミアも動いた。
『ミアは待っててもいいよ』
ミアが一度立ち止まり、床へ手をついた。
『一緒に行く』
『怖くない?』
少し間があった。
『……怖い』
『じゃあ――』
『でも、行く』
それ以上は言わなかった。
リリアが決めた。
ミアも決めた。
なら、俺が勝手に止めるのも違う。
二人が近づいてくる。
アレンは動いていない。
ガルドもその場にいる。
やがて、リリアとミアが居住空間へ入った。
その直後。
ガルドの手から強い意思が届く。
『止まれ』
『何?』
『お前さんじゃねえ』
アレンが動いたらしい。
ガルドが声を出す。
短く、強い。
俺には意味は分からない。
しばらくして、ガルドが床へ手をついた。
『剣から手ぇ離せと言った』
『どうなってる?』
『嬢ちゃんを見て、剣に手ぇかけた』
やっぱり。
俺は床と壁へ意識を向ける。
まだ動かさない。
ただ、何かあればすぐに動かせるように意識だけを広げる。
アレンが何か言う。
ガルドが返す。
リリアとミアは動かない。
ガルドが床へ手をついた。
『……面倒だな』
『何て?』
『魔族だぞ、だとよ』
その言葉だけで十分だった。
リリアから何も届かない。
ミアも床には触れていない。
『だから?』
『あ?』
『ガルド。そのまま言って』
少し間があった。
『……お前さんが言ったことにするぞ』
『いいよ』
ガルドがアレンへ声を出す。
アレンが何かを返した。
ガルドが床へ触れる。
『誰の言葉だと聞いとる』
『俺』
『そう言っていいのか?』
『いいよ』
ガルドが答える。
沈黙。
アレンが周囲を見回しているらしい。
ガルドが床へ触れた。
『どこにいる、とよ』
『ここ』
『ここじゃ分からん』
『今、アレンが立ってる場所』
ガルドが伝える。
今度の沈黙は長かった。
やがてアレンが何か言う。
『……ふざけているのか、だと』
『真面目なんだけどな』
『普通は信じん』
『じゃあ、触ってもらえば?』
ガルドから返事が来ない。
『ガルド?』
『いいのか?』
『話さないと何も分からないだろ』
『まあな』
ガルドがアレンへ説明する。
何度か声が行き来した。
簡単には信じていないらしい。
当然だ。
俺だって、床と話せと言われたら困る。
やがて、知らない手が床へ触れた。
何かがこちらへ向けられる。
意思。
警戒。
疑問。
でも、形にならない。
言葉としては届かなかった。
『……駄目だな』
俺が言っても、相手から返事はない。
ガルドが床へ手をつく。
『繋がらんか』
『何となく何かは来る。でも、話せるほどじゃない』
『昨日のワシみたいなもんか』
『多分』
すると、リリアが俺の近くへ来た。
床へ手をつく。
『私がやる』
『いいの?』
『ガルドさんの時と同じでしょ』
『そうだけど』
リリアは一度手を離した。
アレンへ何かを説明する。
しばらくして、また俺へ触れた。
同時に、もう一方の手でアレンへ触れたらしい。
繋がりが変わる。
リリアを通して、さっきよりはっきりした意味が届いた。
『……誰だ』
アレンだ。
ガルドの時と同じで、少し遠い。
でも、今度は言葉になる。
『ユーマ』
『魔術師か』
『違う』
『どこにいる』
『だから、ここだ』
『姿を見せろ』
『無理』
『なぜだ』
少し考える。
『今、立ってる場所が俺だから』
繋がりが大きく揺れた。
アレンが動いたらしい。
リリアの接触も外れ、意味が途切れる。
少しして、リリアがもう一度俺へ触れた。
『離れた』
『やっぱり?』
『うん』
ガルドが床へ手をつく。
『いきなり床が自分だと言われりゃ、誰でも離れるわ』
『他に説明の仕方ある?』
『知らん』
しばらく声でのやり取りが続く。
やがてリリアがまた床へ触れた。
アレンとも接触したらしい。
繋がりが戻る。
『……迷宮なのか』
『多分』
『多分?』
『俺も分からないことが多い』
『迷宮が意思を持つのか』
『少なくとも俺は持ってる』
アレンの警戒が強くなる。
『魔族を中に入れている』
『リリアのこと?』
『名前まで知っているのか』
『一緒に暮らしてるからな』
アレンの意思がさらに強くなる。
『魔族だぞ』
『さっきも聞いたけど、それがどうした?』
『魔族との戦争を知らないのか』
『知らない』
今度は驚きが伝わった。
『……何だと』
『俺、この世界のこと、あんまり知らないんだよ』
アレンの疑いが強くなる。
無理もない。
迷宮が喋る。
この世界のことを知らない。
その中に魔族と獣人が住んでいる。
俺が逆の立場でも怪しいと思う。
『俺は軍にいた。魔族が関わる戦場も見た』
アレンから硬い意思が届く。
『だから、何も知らずに信用しろと言われても無理だ』
『信用しろとは言ってないよ』
少し間があった。
『じゃあ、なぜ中に入れている』
『本人に聞けば?』
リリアの手から、わずかな迷いが伝わった。
『私が話す』
『無理しなくていい』
『大丈夫』
今度はリリアが自分の声でアレンへ話し始めた。
俺には内容そのものは聞こえない。
ただ、リリアが話している振動だけが床へ伝わる。
しばらくして、リリアが俺へ意味を送った。
『逃げてきたって言った』
『うん』
『ここに住ませてもらってるって』
『住ませてるというか、一緒に住んでる感じだけど』
『同じじゃない?』
『そうかな』
リリアがまたアレンと話す。
今度はミアにも声をかけたらしい。
ミアの動きが止まる。
アレンが何かを尋ねる。
すぐには返事がなかった。
俺は何も言わない。
リリアも急かさなかった。
やがて、ミアが短く声を出した。
何度か言葉が交わされる。
その後、ミアが俺へ触れた。
『ここに、いたい』
『うん』
それだけだった。
リリアが床へ触れ、続きを教えてくれる。
『外に出たら、また捕まるかもしれないって。ミアが自分で言った』
『そうか』
アレンは何も言わない。
俺には見えないけれど、目の前には水路がある。
食卓がある。
棚がある。
寝床がある。
壁には微光苔が広がり始めている。
リリアとミアの荷物が置かれている。
ガルドの道具まである。
俺が何を言っても信じないかもしれない。
でも、人がここで暮らしている痕跡は、俺が説明しなくても見えているはずだった。
少しして、リリアを介してアレンの意思が戻ってきた。
『お前が、この二人を囲っているのか』
『違う』
『では、なぜここにいる』
『本人たちに聞いたばっかりだろ』
『迷宮が人を住まわせる理由を聞いている』
『住みたいって言ったから』
『それだけか』
『他に何がいる?』
アレンが黙る。
『俺が二人を閉じ込めてるように見える?』
すぐには返事が来なかった。
アレンには、俺には見えないものが見えている。
水路も。
食卓も。
棚も。
寝床も。
そこに置かれた荷物も。
しばらくして、アレンから意味が届く。
『……そうは見えない』
『なら、それでいいだろ』
『よくない』
『何で?』
『お前は迷宮だ』
『うん』
『迷宮は生命を喰う。魔物を生み、周囲へ被害を出す。成長すれば討伐も難しくなる』
ガルドから聞いた話と似ている。
でも、言い方が違う。
ガルドにとっては知識だった。
アレンにとっては、もっと身近な常識なのだろう。
『俺、今まで何かした?』
『今後もしない保証がない』
少し考える。
『そんなの、俺にもできないよ』
『何?』
『明日何するかなんて、俺だって全部は分からない』
アレンから返事は来ない。
『だから、今まで何をしたかで見てくれない?』
沈黙。
少し長かった。
やがて、アレンから意思が届く。
『……迷宮にそんなことを言われるとは思わなかった』
『俺も元兵士と話すとは思ってなかった』
『元兵士だ』
『そこ大事なんだ』
『大事だ』
『分かった。元兵士』
ほんの少しだけ、アレンから届く硬さが弱まった。
警戒が消えたわけではない。
それでも、最初よりは違う。
『お前は何なんだ』
その問いに、すぐには答えられなかった。
迷宮。
元人間。
ユーマ。
どれも間違ってはいない。
でも、どれか一つで説明できる気もしない。
『……俺が知りたい』
『ふざけているのか』
『真面目に』
アレンが黙る。
リリアも何も言わない。
ガルドも。
ミアも。
やがて、アレンがリリアから手を離したらしい。
繋がりが切れた。
『帰る?』
俺がガルドへ聞く。
ガルドがアレンと声で話す。
短いやり取りのあと、床へ手をついた。
『いや』
『じゃあ?』
『少し話を聞かせろ、だとよ』
剣から手を離したらしい。
それでも、警戒は残っている。
当然だと思う。
俺たちも同じだ。
まだ誰も、アレンを信用していない。
アレンも、俺たちを信用していない。
それでも、話をするところまでは来た。
俺はリリアへ意識を向けた。
『もう少し、付き合ってくれる?』
リリアの手が床へ触れる。
『うん』
彼女が再びアレンへ手を伸ばした。
繋がりが戻る。
俺は、その向こうにいる元兵士へ意識を向けた。
『何から聞きたい?』




