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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第八話 優しさは呪いより厄介だ

『お前は後悔する』


 静かな声だった。

 けれど、その言葉は妙に重かった。

 夜の静寂。

 揺れる灯り。

 銀色の瞳だけが、じっとこちらを見ている。

 リリアは本を抱えたまま唇を噛んだ。


「……それでも知りたいです」


 逃げるつもりはなかった。

 ここまで来て、今さら見ないふりなんてできない。

 レオンはしばらく黙っていた。

 何かを考えるように。

 あるいは。

 迷うように。

 やがて彼は小さく息を吐いた。


「……座れ」


 低い声。

 リリアは少しだけ目を瞬かせた。

 拒絶されると思っていた。

 だが違った。

 レオンは部屋へ入り、窓際の椅子へ腰を下ろす。

 その姿は相変わらず絵になる。


 夜色の服。

 銀の髪。

 月明かり。


 まるで一枚の絵画だった。


「……そんなに見られると話しづらい」

「すみません」


 思わず謝る。

 レオンは軽く額を押さえた。


「……お前は時々、妙に素直だな」

「レオン様にだけは言われたくありません」

「俺が?」

「はい」


 即答すると、レオンは少し黙った。

 否定しない。

 最近分かってきた。

 この人は、自分に都合の悪いことを言われると静かになる。

 分かりやすい。


「……本の内容はどこまで読んだ」

「魔物化について少し」

「そうか」


 レオンは視線を窓の外へ向けた。

 王都の夜景。

 遠くに灯る街の明かり。

 静かな横顔。


「黒霧は、人を侵す」


 低い声。


「長く触れれば身体が変質する」

「……」

「俺の場合、かなり深く侵食されているらしい」


 らしい、という言い方に違和感を覚えた。

 まるで他人事みたいだ。


「自分のことなのに、随分冷静なんですね」

「実感が薄い」

「え?」


 レオンは少し考えるように沈黙した。


「痛みはある。熱も。だが、感情が薄くなる」


 リリアは息を呑む。

 やはり。


「怒りも、恐怖も、悲しみも、徐々に分からなくなる」


 静かな声。

 怖い話をしているはずなのに。

 レオン本人が淡々としているせいで、余計に恐ろしかった。


「最初は楽だった」

「……楽?」

「ああ」


 レオンはゆっくり目を伏せる。


「何も感じなければ苦しくない」


 胸が痛んだ。

 それはどれだけ孤独だったのだろう。


「だが」


 銀色の瞳がこちらを見る。


「周囲は違った」

「……」

「部下が怯えるようになった」

「使用人も」

「昔から愛想は悪かったが、それでも今ほどではなかったらしい」


 リリアは何も言えなかった。

 この屋敷の空気を思い出す。

 誰もが緊張している。

 誰もがレオンの顔色を窺っている。


「……寂しくなかったんですか」


 ぽつりと零れた。

 レオンが少しだけ目を細める。


「分からなかった」


 その答えが。

 どうしようもなく苦しかった。

 感情が薄れていく。

 孤独も恐怖も感じなくなる。

 それは楽かもしれない。

 でも、人間じゃなくなっていくということだ。


「……でも」


 リリアは静かに言う。


「今は違いますよね」


 沈黙。


「怒ったり」

「困ったり」

「苦い薬嫌がったり」

「……最後の必要か?」

「必要です」


 即答した。

 レオンが小さく息を吐く。

 ほんの少しだけ、呆れたみたいに。

 その空気が、少しだけ柔らかかった。


「昨日より表情があります」


 リリアは続ける。


「ちゃんと人間らしいです」

「……」

「だから」


 心臓が少しうるさい。

 でも、言わなきゃいけない気がした。


「まだ間に合います」


 レオンの視線が止まる。

 真っ直ぐ。

 逃げられない。


「私、諦めません」


 静かな部屋。

 二人だけ。

 灯りの音だけが響く。

 レオンは何も言わなかった。

 ただ、少しだけ。本当に少しだけ、苦しそうな顔をした。


「……優しいな」


 低い声。

 掠れている。

 リリアは思わず眉を寄せた。


「普通です」

「違う」


 レオンは静かに首を振る。


「普通なら逃げる」

「こんな面倒な男からは」

「……自覚あるんですね」

「ある」


 真顔だった。

 少しだけ可笑しくなる。

 でも笑えなかった。

 レオンの言葉には、本気でそう思っている響きがあった。

 自分は面倒だ。関わらない方がいい。

 きっとずっと、そう思い続けてきたのだ。


「……逃げません」


 小さく言う。

 レオンがこちらを見る。


「まだ怒ってますけど」

「……そうか」

「かなり怒ってます」

「分かった」

「でも」


 リリアは本を胸へ抱えた。


「見捨てるのは、もっと嫌です」


 沈黙。

 長い沈黙。

 レオンはゆっくり目を閉じた。

 まるで何かに耐えるみたいに。


「……困る」


 ぽつりと零れる。


「え?」

「そういうことを言われると」


 低い声。

 静かで。

 少しだけ苦しそう。


「手放せなくなる」


 一瞬。

 意味が分からなかった。

 けれど、理解した瞬間。

 心臓が跳ねた。


「……っ」


 顔が熱い。


「そ、それは」


 声が裏返る。

 レオンは微かに眉を寄せた。


「どうした」

「どうしたじゃありません!」


 思わず立ち上がる。

 椅子が大きな音を立てた。

 レオンが少し驚いた顔をする。


「急に変なこと言わないでください!」

「変か?」

「変です!」


 本人に自覚がないのが余計に質が悪い。

 リリアは胸を押さえる。

 心臓がうるさい。

 なんで、そんな顔で、そんな声で、そんなことを言うのか。


「……お前」


 レオンがじっとこちらを見る。


「顔が赤いぞ」

「誰のせいですか!」

「熱か?」

「違います!」


 レオンが少し黙る。

 やがて。


「……そうか」


 納得していない顔だった。

 本当にこの人、恋愛方面が壊滅的なのでは。

 リリアは額を押さえた。

 疲れる。

 その時だった。

 突然、レオンの表情が消えた。


「……レオン様?」


 違和感。

 さっきまであった空気が消える。

 静かすぎる。

 そして、次の瞬間、レオンの身体がぐらりと傾いた。


「!」


 リリアは咄嗟に駆け寄る。

 熱い。異常な熱。


「レオン様!」


 呼吸が荒い。

 額に汗。

 苦しそうに息をしている。

 首筋。

 黒い侵食。

 また広がっていた。


「……っ」


 リリアは反射的に触れる。

 瞬間、身体の奥が熱を持つ。

 淡い光。

 銀色。

 呪いが少しだけ薄れる。

 レオンが苦しそうに目を閉じた。


「……また、これ」


 リリアは息を呑む。

 自分の力。

 確かに効いている。

 でも、同時に妙な感覚があった。

 身体が重い。少しだけ疲れる。

 昼間、本で読んだ言葉が脳裏を過る。


『月華の力は使用者の生命力を代償にする』


 背筋が冷えた。

 まさか……。いや、でも……。

 もし本当なら――。


 リリアは無意識に自分の手を見つめる。

 淡い銀光。

 誰かを救う力。

 その代償が自分の命だとしたら。


 その時、熱に浮かされたままレオンが小さく呟いた。


「……行くな」


 リリアは目を見開く。


「レオン様?」


 返事はない。

 意識が曖昧なのだろう。

 それでも、彼は確かにリリアの手を掴んでいた。

 まるで、失うのを恐れるみたいに。

読んでいただきありがとうございます。

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