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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第六十四話 何度忘れても、あなたを選ぶ

 婚礼の日の朝、リリアは目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなった。


 見上げた天井は、もうすっかり見慣れた公爵邸のものだった。窓の外から聞こえてくる鳥の声も、廊下を行き交う使用人たちの足音も、普段と何ひとつ変わらない。


 それなのに、胸の鼓動だけが妙に速かった。


 寝台の上で何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭が現実に追いついた時、リリアは思わず布団を握りしめた。


「……今日なんだ」


 声に出した途端、急に実感が押し寄せてくる。


 今日、自分はレオン・ヴァルハルトと結婚する。


 王命で決められた婚約でもなければ、深淵を封じるための契約でもない。月華の力を利用するためでも、誰かを救うためでもない。


 自分が望んだから。


 そして、レオンも望んだから。


 ただそれだけの理由で、二人は夫婦になる。


 それが、今のリリアには何よりも不思議だった。


 銀狼公爵との婚約を初めて知らされた日の自分に、この未来を教えてやったらどうするだろう。


 きっと信じない。


 それどころか、全力で逃げ出そうとするに違いない。


 そんなことを考えていると、勢いよく扉が開いた。


「リリア様!」


 飛び込んできたミアの声に、リリアは思わず肩を跳ねさせた。


「起きていますね!? 寝坊していませんね!? 体調は大丈夫ですか!? 熱はありませんか!? お腹は痛くないですか!?」


「だ、大丈夫です」


「本当に?」


「本当です」


 疑うような目を向けながら、ミアはリリアの額へ手を当てた。熱がないことを確かめると、ようやく胸を撫で下ろす。


「よかった……。もし今日リリア様が熱でも出されたら、旦那様が結婚式そのものを延期しかねませんから」


「まだ旦那様ではありませんよ」


「あと数時間です!」


 間髪入れずに返され、リリアは思わず笑ってしまった。


 その後ろから、ゆっくりとマルタが入ってくる。


「朝から騒ぐんじゃないよ。花嫁を疲れさせてどうするんだい」


「でもマルタさん、今日ですよ!?」


「分かってるよ。あんたこそ昨日ほとんど寝てないんじゃないのかい」


 図星だったらしく、ミアが黙り込む。


 マルタは呆れたように息を吐き、それからリリアへ向き直った。


「まず朝飯だよ」


「食べられるかな……」


「食べるんだよ」


「はい」


「途中で倒れたら、せっかくの婚礼が台無しだろう」


 反論の余地はなかった。


 結局リリアは、消化の良いものを中心に用意された朝食をきちんと食べ、そのまま支度へと入った。


 婚礼衣装は、最後まで三着に絞って迷った末に選んだものだった。


 白を基調に、銀糸で月白花の刺繍が施されている。腰から裾へ向かって淡い藍色が流れるように重なり、それはまるで夜明け前の空をそのまま布へ映したようだった。


 光の当たり方によって、銀と藍の色合いが静かに揺れる。


 レオンを思わせる銀。


 自分の月華を表す白。


 そしてノクスの夜を思わせる藍。


 三人で歩いてきた道そのもののようだと、レオンが言ってくれた衣装だった。


「……綺麗」


 支度を終えたリリアを見て、ミアが呟いた。


 次の瞬間には、もう目に涙が浮かんでいる。


「まだ泣くには早くないですか?」


「無理です」


「式が始まったらどうするんです?」


「もっと泣きます」


「でしょうね」


 鏡の前へ座る。


 そこには、自分なのにどこか自分ではないような女性が映っていた。


 髪には銀細工と月白花の飾りが差され、首元には母が残してくれた小さな形見がある。


 そして胸元には、先日見つかった母の言葉を書き写した紙を、小さく折りたたんで忍ばせていた。


『力があるからといって、その人の人生まで国のものになるわけではありません。』


 あの言葉を知ってから、リリアは何度も考えた。


 母は、自分よりずっと前に選んでいたのだ。


 力があることと、誰かのために人生そのものを差し出すことは違うのだと。


 王宮で生きる道もあった。


 もっと大きな力を得る道もあった。


 けれど母は、それより家族と暮らす人生を選んだ。


 だから今日、リリアも自分の人生を選ぶ。


「お母さん」


 鏡の中の自分を見ながら、リリアは小さく呟いた。


「私、結婚します」


 もちろん返事はない。


 けれど、不思議と寂しくはなかった。


 きっと、言えただけでよかったのだ。


     ◇


 一方、その頃。


 庭園を挟んで反対側に設けられた控え室では、銀狼公爵が朝から非常に険しい顔をしていた。


「閣下。もう少々、肩の力を抜いてください」


 グレイが礼装の襟元を整えながら言う。


「抜いている」


「では、さらにもう少し」


「これ以上は無理だ」


「深淵との戦闘前より緊張しておられますね」


「誰が」


「閣下が、です」


 レオンは無言でグレイを睨んだが、長年仕えてきた彼にはまったく効かなかった。


 今日のレオンは濃紺を基調とした正礼装を身につけている。銀狼公爵家を象徴する銀の刺繍が施され、胸元には古い封印の紋章ではなく、新しく結ばれた契約の印――銀の狼と藍色の月が並ぶ意匠が刻まれていた。


 深淵を内に封じる器としてではない。


 ノクスと共に歩く者としての、新しい紋章だった。


 その足元では、今日の「重要人物」を自称する存在が、しきりに自分の姿を確認している。


 小さな夜色の獣――ノクスである。


 首元には藍と銀の飾り布が巻かれ、背中には指輪を載せるための小さな台座が固定されていた。


『曲がっていないか』


「曲がっておりません」


 グレイが淡々と答える。


『本当に?』


「本当です」


『指輪は』


「まだ私が預かっております」


『なぜ』


「式の直前までノクス様へ渡さぬよう、リリア様から申しつかっておりますので」


 ノクスの黄金の瞳が不満そうに細くなる。


『我を信用していない』


「以前、料理と一緒に持ち去ろうとされた前科がありますので」


『あれは事故だ』


「肉の皿と指輪箱はまったく似ておりません」


 それを聞いたレオンが鼻で笑う。


「だから言っただろう」


『お前は黙れ。今日は我にも大役がある』


「俺の結婚式だ」


『指輪がなければ結婚できぬ』


「お前がいなくても誰かが運べる」


 ノクスの目が据わる。


 嫌な空気を察したグレイが、すぐに間へ入った。


「閣下。本日の争いはお控えください」


「俺は何もしていない」


『レオンが悪い』


「双方です」


 そこで控え室の扉が叩かれた。


 入ってきたのはユリウスだった。


「そろそろ皆さん集まっていますよ。新王陛下も到着されました」


「早いな」


「御本人が、『王だから最後に行くなどと言って遅刻したら、一生リリアに恨まれる』と仰っていました」


「リリアはそんなことで恨まない」


「私もそう思います」


 ユリウスが笑う。


 その瞬間、レオンの口元もほんの僅かに緩んだ。


「今、笑いました?」


「笑っていない」


「絶対に笑いましたよね」


『笑った』


「ノクス」


『我は事実しか言っていない』


 いつものやり取り。


 いつもの人々。


 今日は人生でも特別な日なのに、その空気が普段の延長線上にあることを、レオンは少し嬉しく思っていた。


 かつての自分なら、結婚とは契約だとしか思わなかっただろう。


 家同士の利害。


 領地。


 政治。


 血統。


 義務。


 それらを結ぶためのもの。


 けれど今日、自分が結ぼうとしているものは違う。


 リリアと生きる。


 同じ家へ帰り、同じ食卓を囲み、くだらないことで言い合いをしながら年を重ねる。


 そのためだけの誓いだった。


「閣下」


 グレイの声に、レオンは顔を上げる。


「そろそろお時間です」


「ああ」


 立ち上がり、扉へ向かいかけたところで、レオンはふと足を止めた。


「グレイ」


「はい」


「今まで、ありがとう」


 突然の言葉に、グレイが珍しく目を見開く。


「何だ、その顔は」


「いえ。婚礼前に遺言めいたことを仰るとは思わなかったものですから」


「誰が死ぬ」


「では、今後もよろしくお願いいたします」


「……ああ」


 グレイは深く頭を下げた。


「こちらこそ。末永く」


     ◇


 公爵邸の庭園には、一面の月白花が咲いていた。


 かつてはレオンが一人で歩くことの多かった庭だった。


 静かで、冷たく、どこか人を拒むような雰囲気さえあった場所。


 今は、二百五十人を超える人々が集まっていた。


 北方領の代表者。


 王都で共に戦った者たち。


 白月塔の関係者。


 薬師。


 騎士。


 王国公共記録院の職員。


 第一王子だった新王。


 もちろん、誰もがここへ来たわけではない。


 黒霧事件の傷が深く、王家や公爵家に関わる催しへ足を運びたくない者もいる。


 それでよかった。


 誰にも二人を祝う義務はない。


 今日ここにいるのは、祝いたいと自分で選んだ人々だけだった。


 祭壇の前に立つレオンは、いつも通り平静を装っていた。


 少なくとも本人は、そのつもりだった。


「緊張しているな」


 隣に立つ新王が小声で言う。


「していない」


「顔が固い」


「いつもだ」


「手が少し震えている」


 レオンは黙った。


 新王が笑いを堪える。


「安心した。銀狼公爵も人間だったんだな」


「陛下」


「何だ」


「黙っていろ」


「王に向かって随分な言い草だな」


「式が終わったら謝る」


「覚えておこう」


 ちょうどその時、音楽が始まった。


 二人は同時に口を閉じた。


 庭園の入口に、まずミアが現れた。


 すでに泣いている。


 その後ろにマルタ。


 そして。


 リリアが姿を見せた。


 レオンは、ほんの一瞬、息をすることさえ忘れた。


 白と銀の衣装。


 裾へ流れる淡い藍。


 髪に咲く月白花。


 こちらへ一歩ずつ歩いてくる、その姿。


 何度も見てきた人なのに、まるで初めて見るようだった。


 怒った顔も。


 泣いた顔も。


 笑った顔も。


 苦い薬を無理やり飲ませようとする時の妙に怖い顔も。


 忘却の海で、記憶を失った自分へ手を差し伸べてくれた顔も。


 全部が重なる。


 新王が横から小声で囁いた。


「口が開いているぞ」


 レオンは無言で閉じた。


 少し離れた場所で、ユリウスが必死に笑いを堪えているのが見える。


 やがてリリアが祭壇の前まで辿り着き、二人は向かい合った。


「……どうですか?」


 リリアが小さな声で尋ねる。


 レオンは答えようとして、言葉に詰まった。


「レオン様?」


「……綺麗だ」


 ようやく、それだけ言う。


 リリアは少し意地悪そうに笑った。


「それだけですか?」


「今は、それしか出てこない」


「なら、許します」


 その笑顔を見た瞬間。


 レオンは改めて思った。


 やはり、この人しかいない。


     ◇


 式は、王国に古くから伝わる婚礼形式を基礎にしながら、二人が望む形へ大きく簡略化されていた。


 王家への忠誠を誓う言葉もない。


 家同士の結びつきを強調する宣言もない。


 ただ、二人が互いに何を約束するか。


 それだけが中心だった。


「レオン・ヴァルハルト」


「はい」


「リリア・エヴァレット」


「はい」


 司式者の穏やかな声が庭へ響く。


「あなた方は、自らの意思で、この場所へ立っていますか」


 二人はほとんど同時に答えた。


「はい」


 その一言だけで、リリアの胸が熱くなった。


 自らの意思。


 最初は違った。


 婚約も。


 関係も。


 すべて誰かの都合から始まった。


 だからこそ今、この言葉が何より重い。


「互いの喜びだけではなく、痛みも弱さも受け入れ、共に歩むことを望みますか」


「望みます」


「はい」


「では、誓いの言葉を」


 まずレオンがリリアを見つめた。


 何度も練習した。


 誓約文も何度も読み返した。


 それなのに、今この瞬間になると、用意した言葉のすべてが頭から抜け落ちそうになる。


 それを察したのか、リリアがほんの少し笑った。


「レオン様」


 その声を聞くだけで、気持ちが戻ってくる。


「大丈夫です」


「ああ」


 レオンは一度息を吸い、ゆっくり言葉を紡いだ。


「リリア。俺は、お前をずっと覚えているとは誓わない」


 列席者たちの間に、僅かなざわめきが走る。


 けれど、二人の旅を知る者たちはすぐにその意味を理解した。


「一度、俺はお前を忘れた。名前も、一緒に過ごした時間も、好きだったことも分からなくなった」


 リリアの瞳が潤む。


「それでも俺は、もう一度お前を選んだ」


 その声は静かだった。


 けれど、庭のどこにいても聞こえるほど、確かな声だった。


「だから、もしこれから先、いつかまたお前を忘れることがあっても、何度でも見つける。何度でも好きになる。迷ったら帰る。お前のところへ」


 レオンはリリアの手を強く握った。


「それを、生涯続けると誓う」


 庭が静まり返った。


 最初にすすり泣く声を漏らしたのは、やはりミアだった。


 ユリウスも目元を拭っている。


 グレイはいつもと変わらない表情に見えたが、ほんの少しだけ顔を逸らしていた。


 新王も鼻をすすっている。


 そしてノクスが、誰にも聞かれない程度の声で呟いた。


『泣いた』


「陛下が?」


 リリアが小さく尋ねる。


『レオン』


「泣いていない」


 レオンは即座に否定した。


 だが、その目元は僅かに濡れている。


 リリアは涙を浮かべたまま笑った。


「泣いています」


「風だ」


「今日はほとんど吹いていません」


「……」


 列席者の間から、小さな笑い声が広がる。


 司式者まで口元を緩めていた。


 今度は、リリアの番だった。


 両手でレオンの手を握り、正面からその顔を見る。


「レオン様。私も、あなたを絶対に忘れないとは約束しません」


 以前の自分なら、そんな誓いを口にするなど考えられなかった。


 忘れることは、失うことだと思っていた。


 記憶が消えれば、絆も、愛も、全部消えてしまうのだと。


「昔の私は、忘れることが全部を失うことだと思っていました。でも、違いました」


 一度忘れても、終わりではなかった。


「あなたが私を忘れて、それでももう一度手を取ってくれたから、分かったんです。記憶がなくても選び直せる。失っても、帰れる」


 涙が頬を伝う。


「だから、もし私があなたを忘れても、また話してください。不愛想で、薬が嫌いで、すぐに一人で全部背負おうとして――」


「最初の部分は必要か?」


 レオンが思わず口を挟む。


「大事です」


「そうか……」


 再び笑いが起きる。


 リリアも笑いながら続けた。


「でも、本当はとても優しい人だって、教えてください。きっと私は、またあなたを好きになります」


 そして、声を少しだけ強くする。


「何度忘れても、何度離れても、何度でもあなたのところへ帰ります。あなたと一緒に幸せになることを、私は誓います」


 レオンの指が、リリアの手を強く握り返した。


「俺もだ」


     ◇


「では、指輪を」


 司式者が告げた瞬間。


 誰よりも早く反応した存在がいた。


『我の出番だ』


 ノクスが堂々と歩き始める。


 藍と銀に飾られた小さな身体。


 背中には二つの指輪。


 月光を受け、静かに輝いている。


 参列者たちから温かな笑いが起こった。


 ノクスは明らかに得意そうだった。


『見るがいい』


「ノクス、早く」


 レオンが言う。


『急かすな』


「主役は俺たちだ」


『今だけは我も主役だ』


 リリアが笑う。


「ノクス」


『何だ』


「ありがとう」


 その言葉に、ノクスは少しだけ足を止めた。


 黄金の瞳が二人を見る。


『……ああ』


 そして、小さな声で付け足した。


『幸せになれ』


 リリアの胸が熱くなる。


「はい」


 レオンはいつも通りだった。


「言われなくても」


『可愛げがない』


「お前に言われたくない」


 二人は指輪を受け取り、互いの左手へはめた。


 リリアの指には、あの日レオンが正式に求婚した時に贈った指輪が収まる。


 今度こそ、本当に二人の誓いの証として。


「誓いは交わされました」


 司式者が穏やかに微笑む。


「二人の婚姻を、ここに認めます」


 そして少し間を置いた。


「どうぞ」


 リリアの顔が一気に熱くなる。


 レオンが一歩近づく。


「リリア」


「はい」


「逃げるなら、今だぞ」


 その言葉に、リリアは一瞬だけ目を丸くした。


 以前の自分なら。


 何度も逃げようとした。


 怖くて。


 傷つくのが嫌で。


 未来を失うことを想像するだけで恐ろしくて。


 けれど、今の答えは一つしかない。


「逃げません」


「そうか」


「レオン様こそ、逃げません?」


「逃げない」


 距離がゆっくりと縮まり、唇が重なった。


 柔らかく、短い口づけ。


 けれどリリアには、その一瞬にこれまでのすべてが詰まっているように思えた。


 離れた瞬間、大きな歓声と拍手が庭を包んだ。


 ミアは完全に泣き崩れている。


 ユリウスは笑いながら拍手を続け、グレイも珍しく穏やかな笑みを浮かべていた。


 マルタが、どこか満足そうに呟く。


「やっとだねぇ」


 新王も大きく手を叩いていた。


 ただ一人、ノクスだけが首を傾げる。


『終わった?』


「まだですよ」


 リリアが笑って答える。


『まだ?』


「これから祝宴です」


『肉』


 反応が速い。


 レオンが呆れる。


「お前、全部食べるなよ」


『今日は祝いだ』


「関係ない」


 また笑いが広がった。


     ◇


 祝宴が始まってしばらくした頃、リリアは一度だけ人々の輪から離れた。


 庭の奥にある小さな水盤まで歩き、そっと月華を流し込む。


 水面が淡く揺れ、向こう側に月華の庭が映った。


「メモリア」


 呼びかけると、すぐに顔が現れる。


『リリア!』


「見てました?」


『見た!』


 メモリアは嬉しそうに笑った。


『きれいだった』


「ありがとう」


『レオン、泣いた』


 リリアは思わず吹き出した。


「やっぱり」


『ノクスも』


「え?」


 その瞬間、背後から低い声が飛んできた。


『余計なことを言うな』


 振り返ると、いつの間にかノクスが来ている。


「ノクス?」


『泣いていない』


『泣いた』


『メモリア』


『目、きらきらしてた』


『月の光だ』


『庭なのに?』


『……』


 ノクスが黙り込む。


 リリアは笑いながらも、やがて少し真面目な表情になった。


「ノクス」


『何だ』


「今日まで、一緒に来てくれてありがとうございます」


 ノクスが僅かに目を見開く。


「あなたがいてくれたから、ここまで来られました」


 しばらく沈黙した後、ノクスは視線を逸らした。


『我も、礼を言う』


「ノクスが?」


『何だ、その言い方は』


「珍しいので」


『……名を呼んだことだ』


 リリアは静かに彼を見る。


『夜を嫌わなかったこと。我を器でも災厄でもなく、ノクスと呼び続けたこと』


 月華の庭が静かに揺れる。


 リリアは少し目を潤ませながら笑った。


「こちらこそ。ノクスがいてくれてよかったです」


『ああ』


 するとメモリアがすぐに声を上げる。


『我も!』


「もちろん」


 メモリアは満足そうに笑ったが、すぐに不安そうな顔をした。


『リリア』


「何?」


『結婚したら、もう来ない?』


 その問いに、リリアはすぐ首を横に振った。


「来ます」


『本当?』


「本当です。結婚しても、私は私ですから」


 母の言葉を思い出す。


 結婚とは、誰かのものになることではない。


 自分の人生を失うことでもない。


 二人で、それぞれの人生を並べて歩くことだ。


「今度はレオン様と一緒に来ます」


 すると後ろから声がする。


「勝手に予定を決めるな」


 振り向けば、レオンが立っていた。


「嫌ですか?」


「違う」


 彼は水面の向こうのメモリアを見る。


「来る」


『レオン!』


「ああ」


『またリリアを忘れない?』


 レオンは少し考えた。


 そして、誤魔化さず答える。


「分からない」


 リリアが彼を見る。


「人間だから、忘れることもある」


 そう言って、レオンはリリアの手を取った。


「でも、その時はまた教えてもらう」


 メモリアが笑う。


『我も教える』


「頼む」


『ノクスも』


『当然だ』


 水面を挟んで、三人と一人。


 リリアはその光景を見ながら思った。


 ずっと覚えている必要はないのかもしれない。


 忘れないことより。


 思い出せる場所。


 帰ることのできる人。


 名前を呼んでくれる誰か。


 それがあればいい。


     ◇


 夕暮れになる頃には、祝宴も終わりへ近づいていた。


 空はゆっくりと藍色へ変わり、庭の月白花には小さな灯りが点されている。


 最後に、新王が二人の前で杯を掲げた。


「レオン。リリア。改めて、おめでとう」


「ありがとうございます」


「ありがとう」


「王としてではなく、一人の友人として願っている」


 新王は穏やかに笑った。


「二人がこれから、つまらないことでたくさん喧嘩して、普通に年を取ることを」


 リリアは思わず笑う。


「素敵なお祝いの言葉ですね」


 レオンは少し考えるように、その言葉を繰り返した。


「普通に年を取る、か」


「ああ」


 新王の表情が少しだけ真剣になる。


「それが一番難しかっただろう?」


 二人は同時に黙った。


 確かにそうだった。


 普通に明日が来る。


 朝になれば目を覚ます。


 食事をして。


 仕事へ行き。


 夜になれば家へ帰る。


 誰かが犠牲になることもなく。


 世界の命運を背負うこともなく。


 そんな未来こそ、かつては一番遠かった。


「なら」


 レオンが杯を上げた。


「その難しいことをやってみる」


「私も」


 リリアも自分の杯を重ねる。


 小さな音が鳴った。


 それはまるで、これから始まる未来を告げる音のようだった。


     ◇


 夜。


 最後の客が帰ったあとも、リリアはすぐに部屋へ戻る気になれなかった。


 長い一日だった。


 疲れている。


 それでも、眠って今日を終わらせることが惜しいように感じた。


 月白花の庭へ出ると、先にレオンがいた。


 正確には、少し離れたところで食べ過ぎたノクスが丸くなっている。


『苦しい』


 レオンは呆れたように見る。


「だから言っただろう」


『今日は祝いだった』


「言い訳になっていない」


 リリアが笑いながら二人の方へ近づく。


「レオン様」


「何だ」


「今日から、本当に夫婦なんですね」


「ああ」


「不思議です」


「今さらか」


「だって、最初は本当に嫌だったので」


「またそれを言うのか」


「大事な思い出です」


「俺には不名誉な思い出だ」


 レオンは少し不満そうに言った。


 けれどリリアは、その肩へそっと頭を預ける。


「でも今は、あなたと結婚できてよかったです」


 レオンは一瞬黙り、それからリリアの身体を少し自分の方へ引き寄せた。


「俺もだ」


「幸せですか?」


「ああ」


「本当に?」


「何度聞く」


「今日くらいいいでしょう?」


 するとレオンは、少しだけ笑った。


「幸せだ」


 その一言を、リリアは目を閉じて聞いた。


 忘れたくない。


 でも。


 もし、いつか忘れても大丈夫。


 そう思えるようになったことこそ、今の自分たちの強さなのだろう。


「レオン様」


「何だ」


「おかえりなさい」


 突然の言葉。


 けれど、レオンにはすぐ意味が分かったらしい。


 長かった旅。


 深淵。


 王宮。


 忘却の海。


 一度は互いの記憶さえ失いかけた。


 それでも、何度も帰ってきた。


 レオンは静かに答える。


「ただいま」


 そして少し間を置いてから、今度は彼が言った。


「リリア」


「はい」


「おかえり」


 リリアは笑った。


「ただいま」


 帰ってきた。


 何度も。


 そして今日から、その帰る場所は同じになる。


 夫婦として。


 一緒に生きていく家として。


 明日から始まるのは、大きな戦いではない。


 たぶん、もっと小さな出来事ばかりだ。


 苦い薬を飲むかどうかで言い合いをする。


 レオンが仕事を抱え込みすぎれば、リリアが怒る。


 リリアが患者を優先しすぎれば、今度はレオンが怒る。


 ノクスは厨房の肉を狙い、グレイはそれをすべて見抜き、ミアは相変わらず賑やかに騒ぐ。


 時々、月華の庭へ行ってメモリアの名前を呼ぶだろう。


 王都へ行けば、新王が仕事の多さを嘆いているかもしれない。


 記録院では、セドリックが今日も誰かの名を書き残している。


 罪は消えていない。


 傷もなくなっていない。


 許されていないことも、たくさんある。


 それでも、人生は続いていく。


 誰かの痛みを忘れずに。


 それと同時に、自分たちの幸せも選びながら。


 リリアはレオンの手を握った。


 互いの指には、今日交わした指輪がある。


 月明かりを受け、二つの輪が静かに光っていた。


「レオン様」


「何だ」


「これからも、よろしくお願いします」


 レオンが少し笑う。


「ああ」


 そして、握った手を離さないまま答える。


「こちらこそ」


 月白花が夜風に揺れる。


 偽りの婚約から始まった二人は、ようやく誰にも命じられず、何者のためでもない未来を選んだ。


 それは物語の終わりではない。


 きっと、二人にとって本当の人生が始まる最初の日だった。


 何度忘れても。


 何度迷っても。


 何度でも、互いを選ぶ。


 その誓いと共に。

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