第六十四話 何度忘れても、あなたを選ぶ
婚礼の日の朝、リリアは目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなった。
見上げた天井は、もうすっかり見慣れた公爵邸のものだった。窓の外から聞こえてくる鳥の声も、廊下を行き交う使用人たちの足音も、普段と何ひとつ変わらない。
それなのに、胸の鼓動だけが妙に速かった。
寝台の上で何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭が現実に追いついた時、リリアは思わず布団を握りしめた。
「……今日なんだ」
声に出した途端、急に実感が押し寄せてくる。
今日、自分はレオン・ヴァルハルトと結婚する。
王命で決められた婚約でもなければ、深淵を封じるための契約でもない。月華の力を利用するためでも、誰かを救うためでもない。
自分が望んだから。
そして、レオンも望んだから。
ただそれだけの理由で、二人は夫婦になる。
それが、今のリリアには何よりも不思議だった。
銀狼公爵との婚約を初めて知らされた日の自分に、この未来を教えてやったらどうするだろう。
きっと信じない。
それどころか、全力で逃げ出そうとするに違いない。
そんなことを考えていると、勢いよく扉が開いた。
「リリア様!」
飛び込んできたミアの声に、リリアは思わず肩を跳ねさせた。
「起きていますね!? 寝坊していませんね!? 体調は大丈夫ですか!? 熱はありませんか!? お腹は痛くないですか!?」
「だ、大丈夫です」
「本当に?」
「本当です」
疑うような目を向けながら、ミアはリリアの額へ手を当てた。熱がないことを確かめると、ようやく胸を撫で下ろす。
「よかった……。もし今日リリア様が熱でも出されたら、旦那様が結婚式そのものを延期しかねませんから」
「まだ旦那様ではありませんよ」
「あと数時間です!」
間髪入れずに返され、リリアは思わず笑ってしまった。
その後ろから、ゆっくりとマルタが入ってくる。
「朝から騒ぐんじゃないよ。花嫁を疲れさせてどうするんだい」
「でもマルタさん、今日ですよ!?」
「分かってるよ。あんたこそ昨日ほとんど寝てないんじゃないのかい」
図星だったらしく、ミアが黙り込む。
マルタは呆れたように息を吐き、それからリリアへ向き直った。
「まず朝飯だよ」
「食べられるかな……」
「食べるんだよ」
「はい」
「途中で倒れたら、せっかくの婚礼が台無しだろう」
反論の余地はなかった。
結局リリアは、消化の良いものを中心に用意された朝食をきちんと食べ、そのまま支度へと入った。
婚礼衣装は、最後まで三着に絞って迷った末に選んだものだった。
白を基調に、銀糸で月白花の刺繍が施されている。腰から裾へ向かって淡い藍色が流れるように重なり、それはまるで夜明け前の空をそのまま布へ映したようだった。
光の当たり方によって、銀と藍の色合いが静かに揺れる。
レオンを思わせる銀。
自分の月華を表す白。
そしてノクスの夜を思わせる藍。
三人で歩いてきた道そのもののようだと、レオンが言ってくれた衣装だった。
「……綺麗」
支度を終えたリリアを見て、ミアが呟いた。
次の瞬間には、もう目に涙が浮かんでいる。
「まだ泣くには早くないですか?」
「無理です」
「式が始まったらどうするんです?」
「もっと泣きます」
「でしょうね」
鏡の前へ座る。
そこには、自分なのにどこか自分ではないような女性が映っていた。
髪には銀細工と月白花の飾りが差され、首元には母が残してくれた小さな形見がある。
そして胸元には、先日見つかった母の言葉を書き写した紙を、小さく折りたたんで忍ばせていた。
『力があるからといって、その人の人生まで国のものになるわけではありません。』
あの言葉を知ってから、リリアは何度も考えた。
母は、自分よりずっと前に選んでいたのだ。
力があることと、誰かのために人生そのものを差し出すことは違うのだと。
王宮で生きる道もあった。
もっと大きな力を得る道もあった。
けれど母は、それより家族と暮らす人生を選んだ。
だから今日、リリアも自分の人生を選ぶ。
「お母さん」
鏡の中の自分を見ながら、リリアは小さく呟いた。
「私、結婚します」
もちろん返事はない。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
きっと、言えただけでよかったのだ。
◇
一方、その頃。
庭園を挟んで反対側に設けられた控え室では、銀狼公爵が朝から非常に険しい顔をしていた。
「閣下。もう少々、肩の力を抜いてください」
グレイが礼装の襟元を整えながら言う。
「抜いている」
「では、さらにもう少し」
「これ以上は無理だ」
「深淵との戦闘前より緊張しておられますね」
「誰が」
「閣下が、です」
レオンは無言でグレイを睨んだが、長年仕えてきた彼にはまったく効かなかった。
今日のレオンは濃紺を基調とした正礼装を身につけている。銀狼公爵家を象徴する銀の刺繍が施され、胸元には古い封印の紋章ではなく、新しく結ばれた契約の印――銀の狼と藍色の月が並ぶ意匠が刻まれていた。
深淵を内に封じる器としてではない。
ノクスと共に歩く者としての、新しい紋章だった。
その足元では、今日の「重要人物」を自称する存在が、しきりに自分の姿を確認している。
小さな夜色の獣――ノクスである。
首元には藍と銀の飾り布が巻かれ、背中には指輪を載せるための小さな台座が固定されていた。
『曲がっていないか』
「曲がっておりません」
グレイが淡々と答える。
『本当に?』
「本当です」
『指輪は』
「まだ私が預かっております」
『なぜ』
「式の直前までノクス様へ渡さぬよう、リリア様から申しつかっておりますので」
ノクスの黄金の瞳が不満そうに細くなる。
『我を信用していない』
「以前、料理と一緒に持ち去ろうとされた前科がありますので」
『あれは事故だ』
「肉の皿と指輪箱はまったく似ておりません」
それを聞いたレオンが鼻で笑う。
「だから言っただろう」
『お前は黙れ。今日は我にも大役がある』
「俺の結婚式だ」
『指輪がなければ結婚できぬ』
「お前がいなくても誰かが運べる」
ノクスの目が据わる。
嫌な空気を察したグレイが、すぐに間へ入った。
「閣下。本日の争いはお控えください」
「俺は何もしていない」
『レオンが悪い』
「双方です」
そこで控え室の扉が叩かれた。
入ってきたのはユリウスだった。
「そろそろ皆さん集まっていますよ。新王陛下も到着されました」
「早いな」
「御本人が、『王だから最後に行くなどと言って遅刻したら、一生リリアに恨まれる』と仰っていました」
「リリアはそんなことで恨まない」
「私もそう思います」
ユリウスが笑う。
その瞬間、レオンの口元もほんの僅かに緩んだ。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「絶対に笑いましたよね」
『笑った』
「ノクス」
『我は事実しか言っていない』
いつものやり取り。
いつもの人々。
今日は人生でも特別な日なのに、その空気が普段の延長線上にあることを、レオンは少し嬉しく思っていた。
かつての自分なら、結婚とは契約だとしか思わなかっただろう。
家同士の利害。
領地。
政治。
血統。
義務。
それらを結ぶためのもの。
けれど今日、自分が結ぼうとしているものは違う。
リリアと生きる。
同じ家へ帰り、同じ食卓を囲み、くだらないことで言い合いをしながら年を重ねる。
そのためだけの誓いだった。
「閣下」
グレイの声に、レオンは顔を上げる。
「そろそろお時間です」
「ああ」
立ち上がり、扉へ向かいかけたところで、レオンはふと足を止めた。
「グレイ」
「はい」
「今まで、ありがとう」
突然の言葉に、グレイが珍しく目を見開く。
「何だ、その顔は」
「いえ。婚礼前に遺言めいたことを仰るとは思わなかったものですから」
「誰が死ぬ」
「では、今後もよろしくお願いいたします」
「……ああ」
グレイは深く頭を下げた。
「こちらこそ。末永く」
◇
公爵邸の庭園には、一面の月白花が咲いていた。
かつてはレオンが一人で歩くことの多かった庭だった。
静かで、冷たく、どこか人を拒むような雰囲気さえあった場所。
今は、二百五十人を超える人々が集まっていた。
北方領の代表者。
王都で共に戦った者たち。
白月塔の関係者。
薬師。
騎士。
王国公共記録院の職員。
第一王子だった新王。
もちろん、誰もがここへ来たわけではない。
黒霧事件の傷が深く、王家や公爵家に関わる催しへ足を運びたくない者もいる。
それでよかった。
誰にも二人を祝う義務はない。
今日ここにいるのは、祝いたいと自分で選んだ人々だけだった。
祭壇の前に立つレオンは、いつも通り平静を装っていた。
少なくとも本人は、そのつもりだった。
「緊張しているな」
隣に立つ新王が小声で言う。
「していない」
「顔が固い」
「いつもだ」
「手が少し震えている」
レオンは黙った。
新王が笑いを堪える。
「安心した。銀狼公爵も人間だったんだな」
「陛下」
「何だ」
「黙っていろ」
「王に向かって随分な言い草だな」
「式が終わったら謝る」
「覚えておこう」
ちょうどその時、音楽が始まった。
二人は同時に口を閉じた。
庭園の入口に、まずミアが現れた。
すでに泣いている。
その後ろにマルタ。
そして。
リリアが姿を見せた。
レオンは、ほんの一瞬、息をすることさえ忘れた。
白と銀の衣装。
裾へ流れる淡い藍。
髪に咲く月白花。
こちらへ一歩ずつ歩いてくる、その姿。
何度も見てきた人なのに、まるで初めて見るようだった。
怒った顔も。
泣いた顔も。
笑った顔も。
苦い薬を無理やり飲ませようとする時の妙に怖い顔も。
忘却の海で、記憶を失った自分へ手を差し伸べてくれた顔も。
全部が重なる。
新王が横から小声で囁いた。
「口が開いているぞ」
レオンは無言で閉じた。
少し離れた場所で、ユリウスが必死に笑いを堪えているのが見える。
やがてリリアが祭壇の前まで辿り着き、二人は向かい合った。
「……どうですか?」
リリアが小さな声で尋ねる。
レオンは答えようとして、言葉に詰まった。
「レオン様?」
「……綺麗だ」
ようやく、それだけ言う。
リリアは少し意地悪そうに笑った。
「それだけですか?」
「今は、それしか出てこない」
「なら、許します」
その笑顔を見た瞬間。
レオンは改めて思った。
やはり、この人しかいない。
◇
式は、王国に古くから伝わる婚礼形式を基礎にしながら、二人が望む形へ大きく簡略化されていた。
王家への忠誠を誓う言葉もない。
家同士の結びつきを強調する宣言もない。
ただ、二人が互いに何を約束するか。
それだけが中心だった。
「レオン・ヴァルハルト」
「はい」
「リリア・エヴァレット」
「はい」
司式者の穏やかな声が庭へ響く。
「あなた方は、自らの意思で、この場所へ立っていますか」
二人はほとんど同時に答えた。
「はい」
その一言だけで、リリアの胸が熱くなった。
自らの意思。
最初は違った。
婚約も。
関係も。
すべて誰かの都合から始まった。
だからこそ今、この言葉が何より重い。
「互いの喜びだけではなく、痛みも弱さも受け入れ、共に歩むことを望みますか」
「望みます」
「はい」
「では、誓いの言葉を」
まずレオンがリリアを見つめた。
何度も練習した。
誓約文も何度も読み返した。
それなのに、今この瞬間になると、用意した言葉のすべてが頭から抜け落ちそうになる。
それを察したのか、リリアがほんの少し笑った。
「レオン様」
その声を聞くだけで、気持ちが戻ってくる。
「大丈夫です」
「ああ」
レオンは一度息を吸い、ゆっくり言葉を紡いだ。
「リリア。俺は、お前をずっと覚えているとは誓わない」
列席者たちの間に、僅かなざわめきが走る。
けれど、二人の旅を知る者たちはすぐにその意味を理解した。
「一度、俺はお前を忘れた。名前も、一緒に過ごした時間も、好きだったことも分からなくなった」
リリアの瞳が潤む。
「それでも俺は、もう一度お前を選んだ」
その声は静かだった。
けれど、庭のどこにいても聞こえるほど、確かな声だった。
「だから、もしこれから先、いつかまたお前を忘れることがあっても、何度でも見つける。何度でも好きになる。迷ったら帰る。お前のところへ」
レオンはリリアの手を強く握った。
「それを、生涯続けると誓う」
庭が静まり返った。
最初にすすり泣く声を漏らしたのは、やはりミアだった。
ユリウスも目元を拭っている。
グレイはいつもと変わらない表情に見えたが、ほんの少しだけ顔を逸らしていた。
新王も鼻をすすっている。
そしてノクスが、誰にも聞かれない程度の声で呟いた。
『泣いた』
「陛下が?」
リリアが小さく尋ねる。
『レオン』
「泣いていない」
レオンは即座に否定した。
だが、その目元は僅かに濡れている。
リリアは涙を浮かべたまま笑った。
「泣いています」
「風だ」
「今日はほとんど吹いていません」
「……」
列席者の間から、小さな笑い声が広がる。
司式者まで口元を緩めていた。
今度は、リリアの番だった。
両手でレオンの手を握り、正面からその顔を見る。
「レオン様。私も、あなたを絶対に忘れないとは約束しません」
以前の自分なら、そんな誓いを口にするなど考えられなかった。
忘れることは、失うことだと思っていた。
記憶が消えれば、絆も、愛も、全部消えてしまうのだと。
「昔の私は、忘れることが全部を失うことだと思っていました。でも、違いました」
一度忘れても、終わりではなかった。
「あなたが私を忘れて、それでももう一度手を取ってくれたから、分かったんです。記憶がなくても選び直せる。失っても、帰れる」
涙が頬を伝う。
「だから、もし私があなたを忘れても、また話してください。不愛想で、薬が嫌いで、すぐに一人で全部背負おうとして――」
「最初の部分は必要か?」
レオンが思わず口を挟む。
「大事です」
「そうか……」
再び笑いが起きる。
リリアも笑いながら続けた。
「でも、本当はとても優しい人だって、教えてください。きっと私は、またあなたを好きになります」
そして、声を少しだけ強くする。
「何度忘れても、何度離れても、何度でもあなたのところへ帰ります。あなたと一緒に幸せになることを、私は誓います」
レオンの指が、リリアの手を強く握り返した。
「俺もだ」
◇
「では、指輪を」
司式者が告げた瞬間。
誰よりも早く反応した存在がいた。
『我の出番だ』
ノクスが堂々と歩き始める。
藍と銀に飾られた小さな身体。
背中には二つの指輪。
月光を受け、静かに輝いている。
参列者たちから温かな笑いが起こった。
ノクスは明らかに得意そうだった。
『見るがいい』
「ノクス、早く」
レオンが言う。
『急かすな』
「主役は俺たちだ」
『今だけは我も主役だ』
リリアが笑う。
「ノクス」
『何だ』
「ありがとう」
その言葉に、ノクスは少しだけ足を止めた。
黄金の瞳が二人を見る。
『……ああ』
そして、小さな声で付け足した。
『幸せになれ』
リリアの胸が熱くなる。
「はい」
レオンはいつも通りだった。
「言われなくても」
『可愛げがない』
「お前に言われたくない」
二人は指輪を受け取り、互いの左手へはめた。
リリアの指には、あの日レオンが正式に求婚した時に贈った指輪が収まる。
今度こそ、本当に二人の誓いの証として。
「誓いは交わされました」
司式者が穏やかに微笑む。
「二人の婚姻を、ここに認めます」
そして少し間を置いた。
「どうぞ」
リリアの顔が一気に熱くなる。
レオンが一歩近づく。
「リリア」
「はい」
「逃げるなら、今だぞ」
その言葉に、リリアは一瞬だけ目を丸くした。
以前の自分なら。
何度も逃げようとした。
怖くて。
傷つくのが嫌で。
未来を失うことを想像するだけで恐ろしくて。
けれど、今の答えは一つしかない。
「逃げません」
「そうか」
「レオン様こそ、逃げません?」
「逃げない」
距離がゆっくりと縮まり、唇が重なった。
柔らかく、短い口づけ。
けれどリリアには、その一瞬にこれまでのすべてが詰まっているように思えた。
離れた瞬間、大きな歓声と拍手が庭を包んだ。
ミアは完全に泣き崩れている。
ユリウスは笑いながら拍手を続け、グレイも珍しく穏やかな笑みを浮かべていた。
マルタが、どこか満足そうに呟く。
「やっとだねぇ」
新王も大きく手を叩いていた。
ただ一人、ノクスだけが首を傾げる。
『終わった?』
「まだですよ」
リリアが笑って答える。
『まだ?』
「これから祝宴です」
『肉』
反応が速い。
レオンが呆れる。
「お前、全部食べるなよ」
『今日は祝いだ』
「関係ない」
また笑いが広がった。
◇
祝宴が始まってしばらくした頃、リリアは一度だけ人々の輪から離れた。
庭の奥にある小さな水盤まで歩き、そっと月華を流し込む。
水面が淡く揺れ、向こう側に月華の庭が映った。
「メモリア」
呼びかけると、すぐに顔が現れる。
『リリア!』
「見てました?」
『見た!』
メモリアは嬉しそうに笑った。
『きれいだった』
「ありがとう」
『レオン、泣いた』
リリアは思わず吹き出した。
「やっぱり」
『ノクスも』
「え?」
その瞬間、背後から低い声が飛んできた。
『余計なことを言うな』
振り返ると、いつの間にかノクスが来ている。
「ノクス?」
『泣いていない』
『泣いた』
『メモリア』
『目、きらきらしてた』
『月の光だ』
『庭なのに?』
『……』
ノクスが黙り込む。
リリアは笑いながらも、やがて少し真面目な表情になった。
「ノクス」
『何だ』
「今日まで、一緒に来てくれてありがとうございます」
ノクスが僅かに目を見開く。
「あなたがいてくれたから、ここまで来られました」
しばらく沈黙した後、ノクスは視線を逸らした。
『我も、礼を言う』
「ノクスが?」
『何だ、その言い方は』
「珍しいので」
『……名を呼んだことだ』
リリアは静かに彼を見る。
『夜を嫌わなかったこと。我を器でも災厄でもなく、ノクスと呼び続けたこと』
月華の庭が静かに揺れる。
リリアは少し目を潤ませながら笑った。
「こちらこそ。ノクスがいてくれてよかったです」
『ああ』
するとメモリアがすぐに声を上げる。
『我も!』
「もちろん」
メモリアは満足そうに笑ったが、すぐに不安そうな顔をした。
『リリア』
「何?」
『結婚したら、もう来ない?』
その問いに、リリアはすぐ首を横に振った。
「来ます」
『本当?』
「本当です。結婚しても、私は私ですから」
母の言葉を思い出す。
結婚とは、誰かのものになることではない。
自分の人生を失うことでもない。
二人で、それぞれの人生を並べて歩くことだ。
「今度はレオン様と一緒に来ます」
すると後ろから声がする。
「勝手に予定を決めるな」
振り向けば、レオンが立っていた。
「嫌ですか?」
「違う」
彼は水面の向こうのメモリアを見る。
「来る」
『レオン!』
「ああ」
『またリリアを忘れない?』
レオンは少し考えた。
そして、誤魔化さず答える。
「分からない」
リリアが彼を見る。
「人間だから、忘れることもある」
そう言って、レオンはリリアの手を取った。
「でも、その時はまた教えてもらう」
メモリアが笑う。
『我も教える』
「頼む」
『ノクスも』
『当然だ』
水面を挟んで、三人と一人。
リリアはその光景を見ながら思った。
ずっと覚えている必要はないのかもしれない。
忘れないことより。
思い出せる場所。
帰ることのできる人。
名前を呼んでくれる誰か。
それがあればいい。
◇
夕暮れになる頃には、祝宴も終わりへ近づいていた。
空はゆっくりと藍色へ変わり、庭の月白花には小さな灯りが点されている。
最後に、新王が二人の前で杯を掲げた。
「レオン。リリア。改めて、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
「王としてではなく、一人の友人として願っている」
新王は穏やかに笑った。
「二人がこれから、つまらないことでたくさん喧嘩して、普通に年を取ることを」
リリアは思わず笑う。
「素敵なお祝いの言葉ですね」
レオンは少し考えるように、その言葉を繰り返した。
「普通に年を取る、か」
「ああ」
新王の表情が少しだけ真剣になる。
「それが一番難しかっただろう?」
二人は同時に黙った。
確かにそうだった。
普通に明日が来る。
朝になれば目を覚ます。
食事をして。
仕事へ行き。
夜になれば家へ帰る。
誰かが犠牲になることもなく。
世界の命運を背負うこともなく。
そんな未来こそ、かつては一番遠かった。
「なら」
レオンが杯を上げた。
「その難しいことをやってみる」
「私も」
リリアも自分の杯を重ねる。
小さな音が鳴った。
それはまるで、これから始まる未来を告げる音のようだった。
◇
夜。
最後の客が帰ったあとも、リリアはすぐに部屋へ戻る気になれなかった。
長い一日だった。
疲れている。
それでも、眠って今日を終わらせることが惜しいように感じた。
月白花の庭へ出ると、先にレオンがいた。
正確には、少し離れたところで食べ過ぎたノクスが丸くなっている。
『苦しい』
レオンは呆れたように見る。
「だから言っただろう」
『今日は祝いだった』
「言い訳になっていない」
リリアが笑いながら二人の方へ近づく。
「レオン様」
「何だ」
「今日から、本当に夫婦なんですね」
「ああ」
「不思議です」
「今さらか」
「だって、最初は本当に嫌だったので」
「またそれを言うのか」
「大事な思い出です」
「俺には不名誉な思い出だ」
レオンは少し不満そうに言った。
けれどリリアは、その肩へそっと頭を預ける。
「でも今は、あなたと結婚できてよかったです」
レオンは一瞬黙り、それからリリアの身体を少し自分の方へ引き寄せた。
「俺もだ」
「幸せですか?」
「ああ」
「本当に?」
「何度聞く」
「今日くらいいいでしょう?」
するとレオンは、少しだけ笑った。
「幸せだ」
その一言を、リリアは目を閉じて聞いた。
忘れたくない。
でも。
もし、いつか忘れても大丈夫。
そう思えるようになったことこそ、今の自分たちの強さなのだろう。
「レオン様」
「何だ」
「おかえりなさい」
突然の言葉。
けれど、レオンにはすぐ意味が分かったらしい。
長かった旅。
深淵。
王宮。
忘却の海。
一度は互いの記憶さえ失いかけた。
それでも、何度も帰ってきた。
レオンは静かに答える。
「ただいま」
そして少し間を置いてから、今度は彼が言った。
「リリア」
「はい」
「おかえり」
リリアは笑った。
「ただいま」
帰ってきた。
何度も。
そして今日から、その帰る場所は同じになる。
夫婦として。
一緒に生きていく家として。
明日から始まるのは、大きな戦いではない。
たぶん、もっと小さな出来事ばかりだ。
苦い薬を飲むかどうかで言い合いをする。
レオンが仕事を抱え込みすぎれば、リリアが怒る。
リリアが患者を優先しすぎれば、今度はレオンが怒る。
ノクスは厨房の肉を狙い、グレイはそれをすべて見抜き、ミアは相変わらず賑やかに騒ぐ。
時々、月華の庭へ行ってメモリアの名前を呼ぶだろう。
王都へ行けば、新王が仕事の多さを嘆いているかもしれない。
記録院では、セドリックが今日も誰かの名を書き残している。
罪は消えていない。
傷もなくなっていない。
許されていないことも、たくさんある。
それでも、人生は続いていく。
誰かの痛みを忘れずに。
それと同時に、自分たちの幸せも選びながら。
リリアはレオンの手を握った。
互いの指には、今日交わした指輪がある。
月明かりを受け、二つの輪が静かに光っていた。
「レオン様」
「何だ」
「これからも、よろしくお願いします」
レオンが少し笑う。
「ああ」
そして、握った手を離さないまま答える。
「こちらこそ」
月白花が夜風に揺れる。
偽りの婚約から始まった二人は、ようやく誰にも命じられず、何者のためでもない未来を選んだ。
それは物語の終わりではない。
きっと、二人にとって本当の人生が始まる最初の日だった。
何度忘れても。
何度迷っても。
何度でも、互いを選ぶ。
その誓いと共に。
読んでいただきありがとうございます。
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