第六十三話 王冠の先にあるもの
王国公共記録院が正式に開院してから三日後、王都はまたひとつ、大きな節目の日を迎えていた。
朝早くから大通りには王国旗が掲げられ、石造りの家々の窓辺には祝いの布が垂らされている。広場へ向かう道には花が飾られ、王宮の方角へ歩いていく人々の姿が絶えなかった。
ただ、その表情は一様に明るいわけではない。
期待している者もいれば、不安を隠せない者もいる。新しい王に希望を託す者もいれば、王家そのものをまだ信じられない者もいた。
今日、国王が退位し、第一王子が新たな王として即位する。
それは祝うべき出来事であると同時に、王国がこれまでの在り方から本当に変わるのかを、多くの民が見極める日でもあった。
「……すごい人ですね」
王宮へ向かう馬車の窓から外を眺めながら、リリアは小さく呟いた。
通りには地方からやって来たらしい人々の姿も多い。家族連れもいれば、杖をついた老人もいる。
「王が替わるからな」
隣に座るレオンが答える。
今日は彼も正式な礼装を身につけていた。濃紺の生地には銀狼公爵家を示す銀糸の刺繍が施され、胸元には古い封印の紋章ではなく、ノクスとの新しい契約を示す銀狼と藍色の月の意匠がある。
「みんな、祝うために来ているんでしょうか」
「それだけではないだろう」
レオンは窓の向こうへ視線を向けたまま言った。
「新しい王が何を言うのか、自分たちを見ているのか、それを確かめたい者もいる」
「そうですよね」
リリアは静かに頷いた。
新しい王が即位したからといって、王国の傷が消えるわけではない。
セドリックが起こした事件で家族を失った者たちはいる。
黒霧によって人生を変えられた者もいる。
銀狼公爵家が長い間背負わされてきた犠牲も、王家が隠してきた記録も、明るみに出たからといって終わるものではない。
むしろ、知ったからこそ怒る者もいるはずだ。
「陛下になるの、緊張しているでしょうね」
リリアが言うと、レオンは少しだけ眉を上げた。
「まだ陛下ではない」
「あ、そうでした」
「今日からだ」
「呼び方、慣れるまで時間がかかりそうです」
「本人の前で間違えるなよ」
レオンはそう言ったが、リリアはすぐに横目で彼を見る。
「レオン様こそ」
「俺は間違えない」
「では、婚礼の誓約文も間違えませんね?」
その瞬間、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。
リリアの口元が緩む。
「今、間がありました」
「別の話だ」
「何度も読んでいるのに?」
足元の影から、ひょこりとノクスが顔を出した。
『七回だ』
「ノクス」
レオンの声が低くなる。
『我は事実を述べただけだ』
「前は五回と言っていませんでした?」
リリアが尋ねると、ノクスは何事もなかったように答える。
『その後も読んでいた』
「……」
リリアは思わず吹き出した。
レオンは窓の外へ顔を向けたが、その耳が少し赤くなっている。
その姿を見ると、胸の奥が不思議なほど温かくなった。
最初に出会った頃の彼は、こんな顔をしなかった。
銀狼公爵。
冷酷で、何を考えているか分からず、近づくだけで息が詰まりそうだった男。
そんな人が今、自分との婚礼の誓いを何度も読み返している。
人生とは、本当に分からないものだ。
◇
王宮大礼拝堂には、王国中から多くの人々が集められていた。
王族や大貴族だけではない。
地方領主の代表。
騎士。
行政官。
宗教関係者。
王国公共記録院の職員。
さらに、黒霧事件の被害者代表や一般民から選ばれた者たちにも席が用意されていた。
これまでの戴冠式では考えられなかったことだという。
だが新王となる第一王子本人が、王が替わる場を王侯貴族だけのものにしたくないと強く望んだらしい。
リリアとレオンは前方の席へ案内され、少し離れた位置にはユリウス、グレイ、マルタの姿もある。
やがて大扉が開いた。
最初に現れたのは、退位する国王だった。
豪奢な衣をまとってはいるものの、その姿は以前よりずっと小さく見えた。歩みも遅く、杖をつきながら一歩ずつ祭壇へ向かっていく。
その後ろを、第一王子が続いていた。
まだ王冠はない。
剣も携えていない。
深い青色の礼装を身につけただけの、ひとりの男として父の後ろを歩いている。
祭壇の前へ到着すると、国王はしばらく大礼拝堂を見渡した。
「今日、私は王位を退く」
老いた声が礼拝堂へ静かに響く。
ざわめきは起こらなかった。
皆、その続きに耳を澄ませている。
「この国を治めた年月の中で、私は多くの決断をしてきた。その中には、この国を守ったと胸を張れるものもあるだろう」
そこで一度、国王は言葉を止めた。
「だが同時に、私は多くのものを見なかった」
リリアの胸がわずかに締めつけられる。
「知らなかったのではない。知る必要がないと決めたことがあった。銀狼公爵家が背負ってきたもの。王宮研究局が行ってきたこと。そして、王家にとって都合の悪い記録」
礼拝堂の空気が重くなる。
かつてなら、王がこのような言葉を公の場で口にすることなどなかっただろう。
「王であることは、知らないことへの免罪符にはならない。むしろ、知る責任を負う者であるべきだった」
国王は一度、深く息を吸った。
「私は、それを果たせなかった」
小さなどよめきが起こる。
誰かを責める言葉ではない。
自分自身へ向けた言葉。
「だから私は、今日、王位を退く」
国王が振り返る。
第一王子が一歩前へ出た。
「私が守ったものだけではない。私が残した失敗も、お前へ渡すことになる」
国王は息子を見つめた。
「それでも、受け取れるか」
それは戴冠式の決まり文句ではなかった。
父から息子への、個人的な問いだった。
第一王子はすぐに答えなかった。
父親を見つめ、大礼拝堂に集まった人々を見渡し、最後に祭壇へ置かれている王冠へ目を向ける。
そして静かに頭を下げた。
「受け取ります」
声は、はっきりしていた。
「父上が守ったものも、失敗したものも。王家が残してきた誇りも、罪も。すべて受け取ります」
顔を上げる。
「ですが、私はそれを一人では背負いません」
礼拝堂が僅かにざわついた。
国王さえ、少し意外そうな顔をする。
「私は王になります。ですが、王だからすべてを知っているとは言いません。王だから正しいとも言いません」
第一王子は、一人ひとりへ届くようにゆっくりと言葉を続けた。
「だからこそ、私が間違えた時に止める者を残します。王家にとって不都合な記録を残せる場所を守ります。私へ反対する者が、反対したという理由だけで消されない国を作ります」
リリアは、その言葉を聞きながら忘却の海を思い出していた。
兄か。
王か。
どちらかを選べと迫られた第一王子。
彼はあの時、どちらも捨てないことを選んだ。
そして今、その選択が国の形になろうとしている。
「王とは、国そのものではない」
第一王子は静かに言った。
「私は今日、そのことを忘れないために王になります」
長い沈黙のあと、国王が僅かに笑った。
「ならば、よい」
祭壇に置かれていた王冠へ手を伸ばす。
宝物庫で見た時、第一王子はそれを「怖い」と言っていた。
国王が持ち上げると、老人の腕がわずかに震えた。
重いのだ。
金属としてではない。
その向こうに積み重なった年月と、命と、決断の重さが。
王冠がゆっくりと第一王子の頭へ置かれる。
「今日より、お前がこの国の王だ」
鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
やがて王宮の外でも鐘が鳴り、王都の各地から重なる音が聞こえてくる。
第一王子だった男が、ゆっくり顔を上げた。
そこに立っていたのは、新しい国王だった。
◇
戴冠の後、新王は最初の王命を読み上げた。
王国公共記録院の独立性を改めて保障すること。
王家が単独で記録を封鎖、削除することを禁止すること。
王族が関係する事件についても、原則として他の国民と同じ司法手続きを適用する方向で法制度を整備すること。
最後の宣言には、貴族席から大きなどよめきが起こった。
王族の特権を削る改革。
それは、長い王国の歴史の中でも極めて大きな転換だった。
それでも、新王は言葉を変えなかった。
「私の弟は王子だった。だからといって、罪を軽くされるべきではなかった」
セドリックという名は出さなかった。
だが、誰もが誰のことを指しているのか理解していた。
「同じように、今後の私も、私の子孫も、王族であることだけを理由に法から逃れるべきではない」
新王は真っ直ぐに前を見る。
「これは王家を弱くするための法ではない。国が、王の間違いによって壊れないための法だ」
その言葉が終わっても、すぐには拍手は起こらなかった。
最初に立ち上がったのは、前列に座っていた老人だった。
黒霧事件で家族を失った被害者代表の一人。
老人は静かに頭を下げる。
次に記録院の職員が立った。
地方代表。
騎士。
やがて、一人、また一人と人々が立ち上がっていく。
拍手は、最後まで大きくはならなかった。
それでよかったのだと、リリアは思った。
今日の言葉が本物かどうかは、拍手の数で決まらない。
これから五年、十年、二十年と積み重なる行動によって証明されていくものだからだ。
◇
式典が終わったあと、リリアとレオンは王宮の小さな控え室へ呼ばれた。
新王となったばかりの男は、扉が閉まった瞬間、椅子へ深く腰を下ろして盛大なため息をついた。
「重い」
リリアは目を瞬いた。
「何がですか?」
「王冠だ」
「やっぱり」
「首が痛い」
レオンが無表情で言う。
「即位した王の最初の感想がそれでいいのか、陛下」
「お前まで陛下と呼ぶな」
「では何と呼べばいい」
「今まで通り……いや、それもおかしいか」
新王は本気で悩み始めた。
「呼び方一つで面倒だな、王というものは」
足元の影からノクスが顔を出す。
『なら辞めればよい』
「即位してまだ一刻も経っていないぞ」
『早い方が傷は浅い』
「お前は王権を何だと思っているんだ」
『我は神だぞ』
「自称な」
『自称ではない』
リリアは笑いを堪えながら新王を見る。
「でも、本当にお疲れ様でした」
「ああ。ありがとう」
その表情が少しだけ柔らかくなり、やがてまた静かなものへ変わる。
「セドリックにも、見せたかった」
控え室の空気が僅かに変わった。
新王はすぐに苦笑する。
「言ってから気づいた。弟を特別扱いしないと約束したばかりなのにな」
「見せたいと思うことと、法を曲げることは別ですよ」
リリアが言うと、新王は彼女を見る。
「またその分け方か」
「大事なので」
「本当に君は変わらないな」
しかし、どこか救われたように笑った。
「では、兄として見せたかった。それだけだ」
「記録映像は残ります」
レオンが言う。
「司法の許可が出れば、見ることはできる」
「そうだな」
新王は静かに頷いた。
「それでいい」
◇
同じ頃。
司法監督施設の一室で、セドリックは戴冠式の記録映像を見ていた。
もちろん、生で参加することは許されていない。
記録院が保管するための映像を、監督官の許可のもとで閲覧しているだけだった。
画面の中で、兄が王冠を受け取っている。
かつて自分が何より欲しかったもの。
兄から奪いたいと思ったもの。
そのためなら、どれほど多くの人間を犠牲にしてもいいとさえ考えたもの。
王冠。
けれど今、画面の中の兄は嬉しそうには見えなかった。
むしろ、ひどく緊張している。
「……似合わない」
セドリックは小さく呟いた。
横にいた監督官が僅かに目を向ける。
「何がですか」
「王冠」
「王に向かって随分な言い方ですね」
「昔から兄上は、派手なものが似合わないんだ」
セドリックは少しだけ笑った。
やがて新王の最初の宣言が流れる。
『私の弟は王子だった。だからといって、罪を軽くされるべきではなかった』
セドリックの表情が止まった。
責められたとは思わなかった。
その言葉は、むしろ自分が兄へ頼んだことそのものだった。
王になっても、特別扱いをしないでくれ。
兄は、それを守った。
「……よく言ったな」
誰にも聞かせるつもりのない声。
けれど、その響きには確かな誇らしさがあった。
以前なら、兄を誇らしく思うことなど耐えられなかっただろう。
羨望。
嫉妬。
劣等感。
全部が憎しみに変わった。
今も、それらが完全になくなったわけではない。
だが、感じることと、その感情を理由に誰かを傷つけることは違う。
その違いを、セドリックはようやく知った。
映像が終わる。
暗くなった画面をしばらく見つめたあと、セドリックは机へ戻った。
今日の記録。
百二十年前、「実験体四十二」とだけ記されていた少女。
先日、月華の庭との照合によって名前の一部が戻った。
『氏名 エレナ。姓調査中』
たった一つの名前。
以前の自分なら、王冠より遥かに軽いと思っただろう。
セドリックはしばらく文字を見つめ、やがて筆を取った。
「……今は、こっちの方が重いな」
◇
公爵邸へ戻った夜。
戴冠式の余韻に浸る暇もなく、リリアとレオンは婚礼準備の最終確認に捕まっていた。
「婚礼まで、あと二十四日です!」
ミアの声が部屋へ響く。
「分かっています」
「本当に分かっていますか!?」
「どういう意味です?」
「花の最終確認、料理、音楽、席次、贈り物、誓約文、それからノクス様の衣装です!」
『我の衣装』
ノクスだけが明らかに嬉しそうに反応する。
グレイが書類を開いた。
「ノクス様の衣装につきましては、最終三案まで絞っております」
『全部見せろ』
「ノクス」
レオンが呆れたように言う。
「なぜ俺より楽しみにしている」
『我は指輪を運ぶ。重要な役だ』
「運ぶだけだろう」
『結婚という契約の象徴を運ぶのだ』
「言い方を大げさにするな」
リリアは笑いながら二人を止める。
「重要な役なのは本当ですよ」
『分かっているではないか』
「ただし当日、食べ過ぎて走れなくならないようにしてくださいね」
『我を何だと思っている』
「この前、試食会で三十二品ほとんど食べた方です」
『祝いの料理だった』
「まだ祝いの前です」
グレイが無言で一枚の紙を差し出した。
「こちらが誓約文の最終案でございます」
リリアとレオンは並んで目を通す。
そこには、王国で一般的に使われる婚礼の誓いが書かれていた。
健やかな時も。
病める時も。
喜びの時も。
苦しみの時も。
互いを敬い、生涯を共に歩むこと。
美しい言葉だった。
けれど、読み終えたリリアは少しだけ考え込んだ。
「どうされました?」
ミアが尋ねる。
「もう少しだけ、私たちらしい言葉を入れてもいいでしょうか」
「もちろんです!」
ミアの目が輝く。
「どんな言葉です?」
リリアはすぐには答えなかった。
頭に浮かんだのは、忘却の海だった。
自分を忘れたレオン。
名前も、思い出も、愛していた記憶さえなくなったのに。
それでも彼は、もう一度自分の手を取った。
「忘れないことを誓うんじゃなくて……」
リリアはゆっくり口を開く。
「もし忘れても、また見つけることを誓いたいです」
部屋が静かになった。
レオンが彼女を見る。
「私たちは、記憶が絶対じゃないって知ってしまいました。でも、忘れたら全部終わりというわけじゃないことも知っています」
忘れても。
また選べる。
失っても。
また帰れる。
「だから、『永遠に忘れません』と言うよりも、私は『何度忘れても、またあなたを選びます』って言いたいです」
少し照れながらそう言うと、レオンはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「俺も、それがいい」
「本当ですか?」
「ああ」
レオンはリリアの左手を取った。
「俺はもう、一度証明しているからな」
「何をです?」
「お前を忘れても、また好きになることを」
あまりにも自然に言われ、リリアの頬が一気に熱くなる。
「そういうこと、皆さんの前でも言えるんですか?」
「言う」
「二百五十人くらいいますよ?」
「関係ない」
「陛下もいます」
「関係ない」
「私、たぶん泣きますよ」
「知っている」
「レオン様も泣くかもしれません」
「それはない」
『泣く』
ノクスが即座に言った。
「ノクス」
『我は予言した』
「お前は予言の神ではない」
『神ではある』
ミアは、まだ式当日でもないというのにすでに涙ぐんでいた。
「素敵です……」
「ミア、まだ早いです」
「絶対に泣きます!」
「それは知っています」
グレイはいつも通り無表情だったが、その口元がほんの少しだけ緩んでいる。
「では、誓約文へ反映いたします」
「お願いします」
◇
その夜。
寝室へ戻ったリリアは、机の奥にしまっていた古い封筒を取り出した。
忘却の海へ入る前。
もし自分が大切な人を忘れてしまった時のために、マルタから書いておくように言われた「記憶の錨」。
封を開き、昔の自分の文字を読む。
『レオン・ヴァルハルトは、とても不愛想です。薬が嫌いで、特に苦い薬を飲ませると本気で嫌な顔をします。』
最初からそれなのか。
リリアは思わず笑ってしまった。
続きを読む。
『でも、本当はとても優しい人です。自分のことより、誰かを守ることを先に考えてしまいます。だから、もしこの手紙を読んでいる私がレオン様を知らないなら、たぶん彼はまた無茶をしています。止めてあげてください。』
さらに下。
『私は、この人を愛しています。もし今のあなたが、その気持ちを覚えていなくても大丈夫です。きっと、もう一度ちゃんと話せば、また好きになると思います。』
文字が少し滲んで見えた。
あの頃の自分は、不安だった。
怖かった。
それでも、どこかで信じていたのだろう。
忘れたとしても、この人ならまた好きになると。
その時、扉が静かに叩かれた。
「リリア」
「はい」
入ってきたレオンの手にも、古い紙があった。
それを見た瞬間、リリアは気づく。
「まさか」
「ああ」
「レオン様も?」
「見つけた」
彼が持っているのも、同じ時に書いた記憶の錨だった。
「読んでもいいですか?」
「駄目だ」
「え?」
「恥ずかしい」
「私のは読ませますよ?」
「なら交換する」
「交換ですか?」
「ああ」
二人は少しだけ迷い、それから同時に紙を差し出した。
リリアはレオンの字を読む。
『リリア・エヴァレット。薬師。月華の使い手。頑固。無茶をする。危険だと言っても一人で行こうとする。』
「ひどい」
「事実だ」
「今は黙ってください」
文句を言いながら、続きを読む。
『よく笑う。怒る。泣く。俺に遠慮しない。俺の屋敷を家にした。』
その一文で、リリアの声が止まった。
さらに下。
『もし俺がこの女を忘れたなら、たぶん自分が一番大切なものを忘れている。』
視界が滲む。
『だから疑うな。もう一度話せ。きっとまた好きになる。』
最後まで読み終えたリリアは、紙を胸へ抱いた。
「同じこと、書いてたんですね」
「ああ」
「私たち」
「忘れる前から、知っていたらしい」
レオンが少し笑う。
リリアも笑った。
「なら、誓いの言葉は決まりですね」
「ああ」
レオンが手を伸ばす。
リリアはその手を取った。
「忘れても、また選ぶ」
「迷っても、帰る」
「何度でも」
「あなたのもとへ」
二人の声が静かな部屋で重なった。
まだ誰にも聞かれていない。
婚礼の誓いとしては、ただの予行演習にすぎない。
けれどリリアには、これ以上二人らしい言葉はないように思えた。
ずっと覚えていることを約束するのではなく。
忘れた時にも、もう一度出会うことを約束する。
それなら、自分たちはきっと守れる。
◇
窓の外では、月白花が夜風に揺れていた。
新しい王が生まれた。
王国には、少しずつ新しい仕組みが作られ始めている。
記録院では、今日も失われた名前が探されている。
セドリックは自由を失ったまま、自分が消そうとした記録と向き合っている。
月華の庭では、メモリアが帰る場所を失った記憶を待ち続けている。
ノクスは、その庭と人の世界を行き来しながら、自分の夜を自分の意思で使っている。
そして、リリアとレオンは婚礼まで残された日々を過ごしていた。
世界を救うためではない。
王国を変えるためでもない。
誰かの期待に応えるためでもない。
ただ二人で生きるための準備をしている。
それが、リリアには何より嬉しかった。
「あと二十四日ですね」
リリアが呟く。
「長い」
レオンが答える。
「待ち遠しいですか?」
「今すぐでもいい」
「準備が終わってません」
「必要なものだけでいい」
「ミアが怒りますよ」
「グレイもだろうな」
「ノクスも」
「なぜあいつまで」
「衣装がありますから」
「……面倒だ」
そう言いながらも、レオンの顔はどこか穏やかだった。
リリアは思わず笑う。
長い旅の先に待っていたものは、もっと劇的な未来だと思っていた。
けれど、本当に欲しかったものは、こんな時間だったのかもしれない。
好きな人と同じ部屋で、結婚式の準備について話す。
くだらないことで笑う。
明日の予定を考える。
それだけの夜。
以前の二人には、何より遠かったもの。
「レオン様」
「何だ」
「幸せですね」
レオンは少しだけ驚いたように彼女を見る。
それから、静かに答えた。
「ああ」
短い言葉だった。
けれど、今はそれだけで十分だった。
婚礼まで、あと二十四日。
その先に待つのは物語の終わりではない。
二人が、自分たちの意思だけで始める人生の入口だった。
読んでいただきありがとうございます。
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