第六十二話 残された名前と、託す言葉
王国公共記録院の開院日、王都にはまだ朝霧が残っていた。
白い石造りの建物は、王宮から少し離れた場所に建てられている。あえて王宮の敷地内ではなく、市井に近い位置が選ばれたのは、この施設が王家の所有物ではないことを形として示すためだった。
正面には王国の紋章ではなく、開かれた本と小さな灯火を組み合わせた新しい記章が掲げられている。
忘れられたものを探し、残されたものを守り、必要とする誰かがもう一度辿り着けるようにする。
そのための場所だった。
朝早くから多くの人々が集まっている。記録官や研究者だけではない。黒霧事件の被害者やその家族、行方不明になった者を探す人々、王家が公開した過去の記録を確かめたい者たちの姿もあった。
リリアは建物の前に立ちながら、静かに息を吐いた。
「本当に、できたんですね」
「ああ」
隣に立つレオンが答える。
「随分と騒がしい場所になりそうだがな」
「記録院ですから、それくらいの方がいいと思います」
「静かすぎる記録院よりはましだ」
レオンの言葉に、リリアは少し笑った。
以前なら、記録というものは閉ざされた場所にあるイメージだった。
王宮の地下。
研究局。
許可された者しか入れない書庫。
王族にとって都合が悪ければ消され、人に知られなければ存在しなかったことにされる。
けれど、ここは違う。
少なくとも、違う場所にしようとしている。
「リリアさん!」
背後から聞き慣れた声がして振り返ると、ユリウスがこちらへ駆けてきた。
髪は少し乱れ、目の下には明らかな隈がある。
「おはようございます」
「おはようございます……」
リリアは少し心配そうに顔を覗き込んだ。
「寝ました?」
「二時間ほど」
「寝たうちに入りません」
「でも大丈夫です! 今日だけは!」
「今日だけと言って、昨日も寝ていませんでしたよね?」
「昨日は三時間です」
「増えてません」
レオンが呆れたように息を吐いた。
「倒れる前にグレイへ引き渡すぞ」
「それだけはやめてください。絶対に休まされます」
「休むべきです」
リリアが即座に言うと、ユリウスは目を逸らした。
その少し後ろでは、ノクスが小さな夜色の獣の姿で石畳へ座り、建物を見上げている。
『人間は、こういうものを作るのが好きだな』
「嫌ですか?」
リリアが尋ねる。
『いや』
ノクスはしばらく考えた後、静かに答えた。
『残す場所があるのは、悪くない』
それは彼にとっても大きな意味を持つ言葉だった。
名前を失い。
歴史からも消され。
ただ「深淵」と呼ばれ続けた存在。
ノクスにとって、記録とは単なる情報ではない。
自分が確かにいたと証明するものでもある。
「今日はメモリアも楽しみにしていますよ」
リリアが言う。
『楽しみにしすぎていた』
「何かありました?」
『昨日から何度も「明日?」と聞いてきた』
「かわいいですね」
『うるさい』
「でも毎回答えたんでしょう?」
ノクスは黙った。
それだけで答えは十分だった。
◇
開院式が始まると、建物前の広場は静まり返った。
演台に立った第一王子――数日後には正式に新王となる男は、集まった人々をゆっくりと見渡した。
その背後には、王国公共記録院の新しい紋章が掲げられている。
「今日、この場所が開かれることを、私は王家の功績だとは思っていません」
最初の一言で、広場に小さなどよめきが起こった。
「むしろ逆です」
第一王子は続ける。
「この場所は、王家が記録を正しく守れなかったからこそ生まれました。都合の悪い事実を隠し、残すべき名前を消し、誰かの苦しみを存在しなかったことにしてきた。その失敗を繰り返さないために作られた場所です」
王族としては、あまりにも率直な言葉だった。
けれど、それこそ彼がこの施設に込めた意思なのだろう。
「記録とは、王のためにあるものではありません。国に生きた人間のためにあるべきものです」
第一王子の声が広場に響く。
「ここには、英雄の名前だけを残すつもりはありません。敗者も、罪人も、犠牲になった者も、名を奪われた者も、同じように記録されます」
リリアはその言葉を聞きながら、忘却の海で聞いた無数の声を思い出していた。
名も知られないまま死んだ兵士。
流行病の中で記録されなかった人々。
王宮の地下で番号だけを与えられた実験体。
誰にも思い出されなかった記憶。
「私たちの目的は、誰も忘れない国を作ることではありません」
第一王子は少しだけ言葉を止めた。
「人は忘れます。それを責めることはできません。だからこそ、忘れても、思い出せる国を作ります」
その瞬間、リリアの胸が熱くなった。
以前、みんなで考えた言葉。
それが今、人々の前で国の方針として語られている。
「忘れないためではない。忘れても、思い出せるために」
第一王子は最後にそう言い、深く頭を下げた。
すぐに大きな拍手が起こることはなかった。
けれど、一人。
また一人と。
手を叩く者が増えていった。
その中に、リリアは見覚えのある女性を見つけた。
アンナ・モートン。
セドリックの裁判で証言した女性。
エドガー・ハインツの妻。
その隣には少年が立っている。
アンナの息子だった。
開院式が終わった後、二人は記録院の正面玄関へ向かった。
最初に公開された記録。
被害記録第一号。
王家の成立史でもない。
歴代王の功績でもない。
黒霧事件や王宮研究局によって人生を奪われた者たち、行方不明になった者たち、記憶に障害を負った者たちを記録した一覧。
そこには、エドガー・ハインツの名前もあった。
少年はその文字を見つけると、母親の袖を引いた。
「母さん」
「何?」
「父さん、いる」
その一言に、アンナは声を出せなかった。
ただ、息子の頭へ手を置く。
「……ええ」
「ここに、いる」
「そうね」
リリアは少し離れた場所からその様子を見ていた。
記録というものは、死者を生き返らせることはできない。
失った時間を戻すこともできない。
けれど。
確かに存在した。
そのことを、誰かへ伝えることはできる。
◇
午後。
記録院地下に設けられた特別室へ、リリアたちは集まっていた。
一般の閲覧区域とは完全に分けられた場所。
中央には円形の台座があり、その上に銀と白の魔法陣が刻まれている。
リリア。
レオン。
ノクス。
ユリウス。
第一王子。
そして、記録院から選ばれた数名の専門官。
今日行われるのは、月華の庭と記録院を繋ぐ初めての公式な記憶照会だった。
ただし、自由に記憶を覗くことはできない。
対象となるのは、すでに記録院へ相談が持ち込まれ、本人または遺族から許可が出ている案件に限られる。
ノクスが強く主張したためだった。
『記憶は情報ではない』
準備中にも彼は何度も念を押した。
『人間そのものだ。好き勝手に開くな』
「分かっています」
ユリウスが頷く。
「照会対象も、目的も、範囲も事前に記録しています。月華の庭から得られた内容も、そのまま事実として扱うのではなく、既存資料との照合が必要です」
『それならよい』
「あと、本人の同意が得られる場合は必ず本人優先です」
『当然だ』
「ですが、百年前の方に本人同意を求めるのは難しいので……」
『その場合は、必要以上に掘るな』
「了解です」
やり取りを聞きながら、リリアは少し笑った。
以前のノクスなら、人間がどう記録を扱おうと興味を示さなかったかもしれない。
今は違う。
守ろうとしている。
人間の記憶を。
名前を。
「では、始めましょう」
第一王子の言葉で、全員が位置についた。
今回の照会対象は、一人の女性だった。
百二十年前の王宮研究記録。
『実験体四十二』
それだけ。
推定年齢、十六から十八。
月華系統への反応。
銀狼との共鳴実験。
深淵耐性試験。
記憶抽出。
記録は残っているのに、名前だけがない。
まるで最初から人間ではなく、番号だったかのように。
リリアは台座へ手を置いた。
「メモリア」
静かに呼びかける。
月華が広がる。
白い光が魔法陣を走り、その周囲をノクスの夜が包み込む。
空間が揺らぐ。
水面のような光の向こうに。
花の庭が見えた。
『リリア!』
メモリアの声。
「こんにちは」
『今日!』
「今日です」
『人間いっぱい?』
「たくさんいますよ」
メモリアは少し緊張したように周囲を見る。
『みんな、我の名前知ってる?』
リリアは笑った。
「ここにいる人たちは知っています」
『メモリア』
ノクスが呼ぶ。
メモリアの顔が一気に明るくなる。
『もう一回』
『嫌だ』
『ノクス』
『……メモリア』
『もう一回』
『何回言わせる』
場の緊張が少しだけ和らいだ。
その時、メモリアが第一王子へ目を向けた。
『白い駒の人』
第一王子が目を見開く。
「覚えているのか」
『うん』
「そうか」
第一王子は少しだけ笑った。
メモリアは首を傾げる。
『青い駒の人もいる』
第一王子の表情が僅かに固まる。
「……セドリックか」
『名前、ある』
「庭に?」
『うん。でも、今は泣いてない』
第一王子は何も言わなかった。
ただ、一度だけ深く息を吐いた。
「そうか」
それだけで十分だった。
「メモリア」
リリアが本題へ戻す。
「今日、探してほしい記憶があります」
『誰?』
専門官が実験体四十二の記録を読み上げる。
年齢。
身体的特徴。
研究局の時代。
月華への反応。
残っている断片。
メモリアは目を閉じた。
庭の花がざわめく。
少し離れた場所で、ひとつの小さな灯りが浮かび上がった。
『いる』
リリアの胸が高鳴る。
「名前、分かりますか?」
メモリアが灯りへ触れる。
『……エレナ』
全員の動きが止まった。
「エレナ?」
『うん』
専門官が急いで記録する。
「姓は?」
誰かが尋ねた瞬間、ノクスが低く唸った。
『急かすな』
「すみません」
メモリアはしばらく黙っていた。
『フィ……』
「フィ?」
『それより先、まだ暗い』
リリアはすぐに頷いた。
「十分です」
専門官が確認する。
「では、氏名欄は『エレナ。姓不詳、フィから始まる可能性あり』として暫定記録します」
『全部分からなくてもいい?』
メモリアが不安そうに尋ねる。
「いいんです」
リリアは笑った。
「分からないところを、分かったことにしない方が大事ですから」
実験体四十二。
その文字が、今日。
エレナという名前に変わった。
姓はまだない。
過去も全部は戻っていない。
けれど。
もう、番号だけではない。
◇
記憶照会が終わった後。
リリアとレオンは、司法監督区域にある面会室へ向かった。
セドリックから届いていた手紙。
判決後。
婚礼前に、一度だけ会いたい。
伝えたいことがある。
その願いは、正式な手続きを経て許可されていた。
面会室へ入ると、セドリックはすでに座って待っていた。
王族の服ではない。
記録院の作業着。
装飾もない。
手首には魔術封印の紋が刻まれている。
リリアは向かいに座った。
レオンも隣へ腰を下ろす。
「久しぶりですね」
リリアが言う。
「そうだな」
セドリックは少しだけ笑った。
以前のような挑発的な笑みではない。
「忙しいところ、悪かった」
「今日は開院日ですから、ついでです」
「それは助かる」
しばらく沈黙が続く。
やがてセドリックが一冊の古い記録を机の上へ置いた。
「まず、リリア」
「はい」
「君の母親についてだ」
リリアの表情が変わる。
「母?」
「エレノア・エヴァレット」
懐かしい名前。
胸の奥がざわつく。
「王宮研究局の旧記録を整理していて見つけた」
セドリックが資料を開く。
「君の母親には、弱い月華系統の反応があったらしい」
「母に?」
「ああ。ただし、君ほど明確なものではない。治癒反応、植物との共鳴、記憶安定への影響。おそらく本人も月華だとは理解していなかった」
リリアは言葉を失った。
「研究局は君の母方の血筋を何世代か追跡していた」
「……そんな」
「だが、君の母親は研究施設へ入らなかった」
セドリックは一枚の古い紙を取り出した。
「王宮から、薬草研究機関への招請があった。断った記録が残っている」
「なぜ?」
「理由は簡単にしか書かれていない」
紙をリリアの前へ置く。
そこには、母の筆跡が残っていた。
リリアには分かる。
昔、薬草の名前を書いてくれた時と同じ字。
『力があるからといって、その人の人生まで国のものになるわけではありません。私は、自分の家族と、自分が必要とされる場所で生きます。』
文字が滲んで見えた。
リリアは何度も瞬きをする。
「……お母さん」
声が震えた。
母は知っていた。
全部ではなくても。
自分の中に少し特別な何かがあることを。
それでも。
力ではなく、自分の人生を選んだ。
リリアは紙へ触れる。
「私、ずっと」
言葉を探す。
「月華があるから、何かしなきゃいけないと思っていました」
王国を救う。
レオンを救う。
ノクスを救う。
誰かの記憶を戻す。
何かを背負う。
「力があるなら、使わないといけないって」
でも母は違った。
『人生まで国のものになるわけではない』
リリアは唇を噛み、それでも涙を止められなかった。
「……ありがとうございます」
セドリックは少し目を伏せた。
「礼を言われる資格はない」
「許したわけじゃありません」
リリアはすぐに言った。
セドリックが顔を上げる。
「これは、別です」
リリアは涙を拭った。
「あなたがしたことを許すのと、この記録を見つけてくれたことへ感謝するのは、別です」
セドリックはしばらく黙っていた。
「……そうか」
「はい」
「なら、受け取っておく」
今度はレオンの方を見る。
「もう一つある」
「俺に?」
「ああ」
別の古い資料。
封印されていた王家の契約書。
「銀狼公爵家と、深淵についての旧協定だ」
レオンの顔から感情が消える。
セドリックは淡々と読み上げた。
「深淵が制御不能となった場合、王家、教会、旧騎士団の承認により、ヴァルハルト家の血統を完全に断つ」
リリアが息を呑んだ。
「それって……」
「銀狼公爵家を一人残らず消す、という意味だ」
レオンは何も言わなかった。
ただ、資料を見つめている。
「誰が署名した」
「当時の王。大司教。騎士団長。そして、君の先祖」
セドリックが答える。
「君の先祖は選べる立場ではなかった可能性が高い」
レオンは資料を手に取る。
しばらく読んだあと、低い声で言った。
「便利だったんだろうな」
リリアはレオンを見る。
「深淵を銀狼に押しつけ、駄目になれば一族ごと消す」
怒り。
静かな。
しかし確かな怒り。
「よくできた仕組みだ」
「レオン様……」
「大丈夫だ」
レオンは一度息を吐く。
「これは過去の王たちがしたことだ」
そしてセドリックを見る。
「お前がしたこととは別だ」
セドリックの目が僅かに動く。
「だからといって、お前が俺たちを利用したことを許すつもりはない」
「分かっている」
「混ぜない」
レオンは資料を置いた。
「それだけだ」
セドリックは静かに頷く。
「この資料も記録院へ移した」
「王宮には?」
「原本は記録院。王宮には複製だけだ」
「それでいい」
少し沈黙が続いた。
やがてセドリックが二人を見る。
「婚礼は、もうすぐか」
「二十七日後です」
リリアが答える。
「そうか」
「来たいですか?」
少し意地悪な質問だったかもしれない。
セドリックは苦笑した。
「行けるわけがない」
「ですね」
「それに」
声が少し静かになる。
「行く資格があるとも思わない」
リリアは何も言わなかった。
「でも、一つだけ」
セドリックはレオンを見る。
「リリアを幸せにしろ」
レオンの眉が僅かに動く。
「お前に言われなくても」
「そう言うと思った」
今度はリリアを見る。
「君も、レオンを幸せにしろ」
「はい?」
「結婚は、一人がもう一人を幸せにするものじゃないらしい」
セドリックは少しだけ笑った。
「二人で幸せになるものなんだろう」
リリアはその言葉を聞きながら、少し驚いていた。
「誰に教わったんです?」
「君たちを見ていただけだ」
自嘲するように目を伏せる。
「私はずっと、誰かを自分のために使うことしか知らなかった。相手に選ばせるということを、ほとんど考えたことがなかった」
少し間を置く。
「だから、君たちが羨ましかった」
「羨ましい?」
「ああ」
「互いに選んでいたから」
セドリックの声には、もう以前のような執着はなかった。
ただ、過去を見つめる人間の苦さがある。
「兄にも。君たちにも。私は、自由に選べる人間が嫌いだった」
その告白に、レオンはしばらく黙っていた。
やがて低い声で言う。
「セドリック」
「何だ」
「適当に生きるなよ」
セドリックが眉を上げる。
「今のお前には、まだ失えるものがある」
「私に?」
「ああ」
レオンは指を折るように言った。
「記録。仕事。少しずつ積み上げる信用。兄と話せる時間」
セドリックの表情が止まる。
「王子じゃなくなったから、失うものがなくなったと思うな」
レオンは真っ直ぐに彼を見る。
「これから作るものは、全部失える」
長い沈黙。
セドリックは、やがて小さく息を吐いた。
「……厳しいな」
「当然だ」
「でも」
少しだけ笑う。
「覚えておく」
面会時間の終了を告げる鐘が鳴った。
リリアは立ち上がる。
「では」
そう言いかけて、少し迷う。
以前なら。
「セドリック殿下」
そう呼んでいた。
もう。
殿下ではない。
「セドリック」
彼が僅かに目を見開く。
「何だ」
「母の記録、本当にありがとうございました」
「ああ」
「それと」
「何だ」
「私は幸せになります」
セドリックは少し黙った。
そして。
「そうしろ」
リリアはレオンを見る。
「二人で」
「ああ」
レオンが答える。
セドリックは二人を見つめ、最後に静かに言った。
「幸せになれ」
それは許しを求める言葉ではなかった。
未来へ踏み込もうとする言葉でもない。
ただ。
二人へ送られた言葉。
「なります」
リリアはそう答え、部屋を出た。
◇
その夜。
ノクスは一人で月華の庭へ入っていた。
『メモリア』
『ノクス!』
すぐに返事が来る。
『もう一回』
『さっき言った』
『もう一回』
『メモリア』
『もう一回』
『……メモリア』
満足したように笑う。
『今日、人間の名前、戻ったね』
『ああ』
『エレナ』
『そうだ』
『帰れる?』
ノクスは花の向こうを見る。
『分からぬ』
『分からない?』
『全部が帰れるとは限らない』
メモリアが少し寂しそうな顔をする。
『でも』
ノクスは続ける。
『待つことはできる』
『我が?』
『ああ』
『ずっと?』
『必要なだけ』
メモリアは少し考え、それから笑った。
『じゃあ待つ』
『そうしろ』
『ノクスも来る?』
『来る』
『明日も?』
『たぶん』
『明後日も?』
『……できるだけ』
『名前も呼ぶ?』
ノクスはため息をついた。
『呼ぶ』
メモリアが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ノクスもほんの少しだけ口元を緩める。
名前を呼ぶ。
ただそれだけ。
けれど。
かつて名前を失った二人にとっては。
それが何より大きな約束だった。
◇
公爵邸へ戻った夜。
リリアは母の手紙を胸元へ置きながら、窓辺に立っていた。
外では月白花が静かに揺れている。
レオンが後ろから声をかける。
「まだ読んでいるのか」
「はい」
「何度目だ」
「分かりません」
リリアは笑う。
「でも、もう少しだけ読んでいたくて」
「そうか」
レオンが隣へ立つ。
「レオン様」
「何だ」
「私、ずっと勘違いしていた気がします」
「何を」
「力があるなら、その力のために生きなきゃいけないって」
母の文字を見つめる。
「でも、お母さんは違った」
「ああ」
「月華があっても、薬師でいることを選んだ。家族と暮らすことを選んだ」
リリアはレオンを見る。
「私も、選んでいいんですよね」
「当然だ」
即答だった。
「月華があっても?」
「あっても」
「王国に必要とされても?」
「必要とされても」
「みんなに助けを求められても?」
レオンは少しだけ眉を寄せる。
「助けたいなら助ければいい」
そして続ける。
「でも、お前の人生まで渡す必要はない」
母と同じ言葉。
リリアは目を細めた。
「はい」
その時。
扉の向こうから慌ただしい足音。
「リリア様!」
ミア。
「婚礼まで二十七日です!」
扉が勢いよく開く。
「明日は花飾りの最終確認です! その後、料理! 引き出物! 席次! レオン様の礼装!」
レオンが露骨に嫌そうな顔をした。
「まだあるのか」
「あります!」
後ろからグレイも現れる。
「なお、北方領へ逃亡された場合の婚礼準備も完了しております」
レオンが止まる。
「なぜ」
「以前、逃げる可能性を口にされましたので」
リリアは笑いを堪えきれなかった。
「レオン様、逃げられませんね」
「お前も一緒に逃げると言っただろう」
「冗談です」
「俺もだ」
「本当に?」
「……」
そこへノクスまで戻ってくる。
『北へ行くのか』
「行きません」
『我の衣装は』
「こちらで用意されています」
『ならよい』
レオンがため息をつく。
「俺よりお前の方が婚礼を楽しみにしていないか」
『当然だ』
「なぜ当然なんだ」
『重要な役がある』
「指輪を運ぶだけだろう」
『重要な役だ』
いつものような言い合い。
いつものような夜。
リリアは、そんな光景を見ながら胸元の手紙へそっと触れた。
力があるからといって。
その人の人生まで国のものになるわけではない。
なら。
この人生は。
自分のもの。
誰かを救うためだけでもない。
王国のためだけでもない。
月華のためでもない。
大切な人と生きるために使っていい。
レオンと。
ノクスと。
仲間たちと。
笑って。
怒って。
時々泣いて。
それでも最後には、幸せだったと言えるような人生に。
「リリア?」
レオンが呼ぶ。
リリアは顔を上げる。
「何でもありません」
そして笑った。
「婚礼準備、頑張りましょう」
「……逃げるか」
「グレイさんが北にも準備していますよ」
「なら西だ」
「西にも手配済みです」
グレイが即座に答える。
レオンが完全に黙り込む。
リリアは声を上げて笑った。
その笑い声が、公爵邸の夜へ柔らかく広がっていく。
王国は変わり始めている。
失われた名前も、少しずつ戻り始めている。
罪は消えず、傷も残ったまま。
それでも、人は新しい明日を選べる。
そしてリリアもまた、自分のために未来を選ぶ。
婚礼まで、あと二十七日。
長い旅の先に待っていたものは、さらなる犠牲でも、新しい戦いでもなかった。
ただ。
自分で選んだ人と、自分で選んだ人生を歩き始めること。
それこそが、リリアがようやく手に入れた自由だった。
読んでいただきありがとうございます。
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