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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第六十一話 生きて償うという判決

 王都中央司法庁の大法廷は、朝早くから重苦しい静寂に包まれていた。


 傍聴席にはほとんど空席がなく、王族や貴族、騎士、行政官、王国公共記録院の設立準備に携わる者たちだけでなく、黒霧事件や王宮研究局による実験の被害者、その遺族たちも数多く集まっていた。誰もが同じ気持ちでこの日を迎えているわけではない。判決によって少しでも区切りをつけたい者もいれば、どのような刑が下されても失ったものは戻らないと知っている者もいる。中には、被告がまだ生きているという事実そのものを受け入れられない者もいるだろう。


 今日、裁かれるのは、かつてこの国の第二王子だった男――セドリック・アルベルトだった。


 起訴された罪状は三十七件。違法な人体実験、誘拐、監禁、記憶操作、魔術による殺傷、黒鴉会を利用した犯罪行為、王宮研究局の不正への関与、そして最終的には、王都そのものを巻き込む大規模な儀式を行い、多くの人間を犠牲にしようとした。


 そのどれを取っても、決して軽い罪ではない。


 リリアは傍聴席に座り、法廷中央に設けられた被告席を見つめていた。隣にはレオン、その足元には小さな夜色の獣の姿をしたノクスがいる。少し離れた席には第一王子の姿もあった。彼は王族のために用意された特別席ではなく、事件の関係者として一般の席に座っている。


 弟だから特別な場所から裁判を見守るつもりはない――そう本人が申し出たのだと聞いていた。


 リリアは膝の上で組んだ手に、無意識のうちに力を込めていた。


「緊張しているのか」


 小さな声で尋ねたのはレオンだった。


 リリアは少しだけ驚いて横を見る。


「分かります?」


「手が白くなるほど握っている」


 言われて初めて気づき、リリアはゆっくり指を緩めた。


「レオン様は平気なんですか?」


「平気ではない」


 あまりにも素直な答えだったので、今度はリリアの方が目を瞬く。


「意外そうな顔をするな」


「少しだけ」


「俺だって人間だ」


 足元からノクスの低い声が聞こえた。


『その主張は時々怪しいがな』


「ノクス」


『冗談だ』


「お前の冗談は分かりにくい」


 ほんの一瞬だけ緊張が緩んだものの、すぐに法廷の空気が二人を現実へ引き戻した。


 ノクスはしばらく周囲を見回していたが、やがて静かに口を開いた。


『人間というものは、誰かを裁こうとする時ほど、自分が正しいと思い込みやすい』


 リリアは彼を見下ろす。


「ノクスは、今日の判決をどう思います?」


『まだ出ていないものを聞くな』


「では、裁くことについては?」


 ノクスはすぐには答えなかった。黄金の瞳が、傍聴席にいる被害者たちへ向けられる。


『難しいと思う』


「神様でも?」


『神だから何でも分かると思うな。特に人間の作った仕組みは面倒だ』


 いかにもノクスらしい言い方だったが、声音は真剣だった。


『憎いから苦しませたいのか、二度と同じことをさせないために閉じ込めるのか、誰かがしたことに責任を取らせるためなのか。それとも、傷ついた者の怒りを少しでも鎮めるためなのか。全部似ているようで、全部違う』


 リリアは何も言えなかった。


 自分だってセドリックを許していない。


 思い出すだけで胸が冷たくなる出来事はいくつもある。彼に閉じ込められたことも、月華を利用されかけたことも、レオンを奪われそうになったことも、今でも夢に見る夜がある。


 だから、彼を憎む者の気持ちは分かる。


 それでも、今のリリアには「死ねばそれでいい」と言い切ることもできなかった。


「裁きって、何なんでしょうね」


 ぽつりと呟くと、ノクスは少し考えた末に答えた。


『境界なのかもしれぬな』


「境界?」


『ここまではしてはならない、と人間が皆で引く線だ。それを越えた者に対して、何を奪い、何を残すかを決める。それが裁きなのではないか』


 リリアはその言葉を胸の内で反芻した。


 その時、大法廷の扉が開いた。


 ざわめきが一斉に消える。


 立会官に伴われて入ってきたセドリックは、以前のような王族の礼装を身につけていなかった。簡素な灰色の衣服に、両手には魔術封印具。以前よりやつれたようには見えるものの、足取りは想像していたほど弱々しくはなかった。


 彼は法廷中央まで進むと、一度だけ傍聴席へ視線を向けた。


 その目がリリアに止まり、次にレオンへ移り、最後に第一王子を見る。


 しかし、何も言わなかった。


 第一王子も弟を呼ばなかった。


 ただ、互いの存在を確認しただけだった。


 やがて裁判官たちが入廷し、全員が起立する。


 長かった裁判の、最後の日が始まった。


     ◇


「被告人、セドリック・アルベルト」


「はい」


 裁判長の呼びかけに、セドリックは静かに答えた。


「当法廷は、被告人に対して起訴された全三十七件について、被害者および関係者の証言、王宮ならびに研究局に残された記録、魔術痕跡、黒鴉会から押収された資料、被告人自身の供述、その他提出された証拠を精査した」


 裁判長は一度、手元の書類へ目を落とす。


「その結果、全三十七罪状について、有罪と認定する」


 大法廷の空気がわずかに揺れた。


 リリアは息を止める。


 予想していた言葉だった。


 むしろ、これ以外の結論になる方がおかしい。


 それでも正式に「有罪」と宣告されると、その二文字が持つ重さは想像以上だった。


 セドリックは俯かなかった。ただ一度だけ目を閉じ、再び前を向いた。


「被告人の王族としての身分、第二王子としての称号、王位継承権、王家財産に対する一切の権利を永久に剥奪する」


 その言葉に、第一王子の表情がわずかに強張った。


 王子ではなくなる。


 弟であることまでは消えなくても、公的には王家から切り離される。


「被告人が個人名義で所有する財産については、生存に必要と認められる最低限の生活保障分を除き、被害者補償基金へ移管する」


 裁判長は淡々と続ける。


「また被告人は、生涯にわたり、公職、軍務、国家行政、司法、教育、魔術研究その他、他者に対して制度的権限を有する一切の役職へ就くことを禁止する」


 セドリックがかつて求めたものは権力だった。


 兄より上に立つこと。


 誰にも命じられず、むしろ誰かを従わせること。


 そのすべてが、生涯にわたって奪われる。


「被告人の魔術能力については、治療上やむを得ない場合を除き、恒久的に封印する」


 セドリックの指がほんの僅かに動いた。


 魔術もまた、彼にとって大きな力だった。


 人を従わせ、傷つけ、奪うためにも使ってきた力。


 それを二度と自由に使うことはできない。


 しかし、裁判長の言葉はそこで終わらなかった。


「さらに、被告人を生涯にわたり司法監督下へ置く」


 傍聴席から低いざわめきが起こる。


「居住地、移動、面会、文書通信、魔術設備への接触、重要記録への接触については、すべて司法監督官の管理下に置く。刑期は終身とし、被告人が自由身分へ復帰することは生涯認めない」


 その言葉を聞いた瞬間、リリアは胸の奥が少しだけ強く締めつけられるのを感じた。


 死刑ではない。


 けれど、いつか自由になるための刑でもない。


 死ぬまで管理下に置かれる。


 その意味を理解した者たちの間から、今度は明確な声が上がった。


「それだけなのか」


 男の声だった。


「人を殺しておいて、生きられるのか」


「なぜ死刑じゃない!」


 さらに別の声が続く。


 誰かが泣きながら、「家族は帰ってこない」と叫んだ。


 法廷官が静粛を求めようとしたが、裁判長が片手を上げて止めた。


 しばらく、声を上げる人々をそのままにする。


 怒りを法廷から排除するのではなく、その怒りもまた判決の一部として受け止めるようだった。


 やがてざわめきが収まるのを待ってから、裁判長は再び口を開いた。


「本法廷は、被告人の生命を奪うことが、被害を回復させる唯一の方法であるとは判断しなかった」


 冷静な声だった。


「また、被告人を苦しめることそのものを、刑罰の目的ともしない」


 その言葉に、再び空気が緊張する。


「刑の目的は、社会および被害者の安全を確保し、被告人が二度と同種の犯罪を行えない状態を維持すること。そして、行った犯罪を公的に確定し、可能な限り失われた事実を回復することにある」


 リリアはノクスの言葉を思い出した。


 境界。


 ここから先は越えてはならないと、皆で決める線。


「そのため、被告人には終身司法監督に加えて、王国公共記録院の被害記録部門における終身作業従事を命じる」


 今度は先ほどとは違う種類のざわめきが広がった。


 リリアも思わずレオンを見る。


 彼も僅かに眉を寄せている。


「ただし、管理権限、人事権限、記録の公開判断権限、研究権限は一切与えない。被告人が行うことを認められるのは、監督下における資料整理、供述、既存資料との照合、行方不明者の特定補助、被害記録の欠損部分に関する事実確認に限る」


 裁判長はそこで初めて、書類から視線を上げた。


 セドリックを真っ直ぐに見る。


「あなたが壊した記録を、あなた自身の知識を用いて、可能な限り戻しなさい」


 セドリックの瞳が揺れる。


「あなたが番号で呼んだ人々の名前を探しなさい。あなたが存在を消した人間がいたことを、記録へ戻しなさい」


 静寂の中、その言葉だけが響く。


「ただし、覚えておきなさい。それによって罪が消えるわけではありません」


 セドリックは唇を僅かに噛んだ。


「あなたが一人の名前を見つけたとしても、一人を殺した罪が帳消しになることはない。何十年働いたとしても、あなたを許さない人間はいるでしょう。あなた自身がそれを変える権利もありません」


「……はい」


 初めて、セドリックの声が掠れた。


「それでも、命令された作業を続ける意思がありますか」


「あります」


「なぜです」


 裁判長の問いに、セドリックはすぐには答えなかった。


 目を伏せることもなく、ただ静かに考える。


 そして、やがて口を開いた。


「私が消したからです」


 言い訳は続かなかった。


「私が名前を奪い、記録を歪めました。戻せるものがあるなら、戻します」


 それだけだった。


 裁判長は僅かに頷く。


「以上をもって、被告人セドリック・アルベルトに対する刑を確定する」


 法廷全体が息を呑む。


「刑期は、生涯」


 木槌の音が響いた。


 その音が消えた後も、誰もすぐには動かなかった。


 歓声も拍手も起こらない。


 当たり前だった。


 これは誰かが勝った日ではない。


 失われた命が戻った日でもない。


 ただ、一人の人間がしたことに対して、国が責任の形を示した日だった。


     ◇


 閉廷の宣言がなされる直前、裁判長はもう一度セドリックへ視線を向けた。


「被告人には控訴の権利があります」


「放棄します」


 セドリックは即答した。


 第一王子の指先が僅かに震える。


「理解しているのですね。これは終身刑です。今後、自由な市民として社会へ戻ることはありません」


「理解しています」


「王族としての身分も二度と戻らない」


「はい」


 裁判長は少し間を置いた。


「今後、あなたの兄が国王となった場合であっても、王権による特別な減刑や恩赦を求める意思はありませんか」


 その瞬間、法廷中の視線が第一王子へ向けられた。


 第一王子は動かなかった。


 セドリックは一度だけ兄を見る。


 長い時間ではなかった。


 けれど、その一瞬の中には、幼い頃から今に至るまでのすべてが詰まっているようにリリアには見えた。


「求めません」


 セドリックは静かに答えた。


「兄にも、それをしないでほしいと思っています」


 第一王子の目が僅かに揺れた。


 それでも、何も言わなかった。


「分かりました」


 裁判長が木槌を置く。


「これをもって閉廷します」


 長かった裁判は終わった。


 しかし、セドリックにとっては今日が終わりではない。


 むしろ、判決を背負って生きる時間が、ここから始まる。


     ◇


 法廷から人々が出ていくまでには、かなりの時間がかかった。


 席を立てずに泣き続ける者もいれば、怒りを隠せず足早に出ていく者もいる。「死刑にすべきだった」と言い続ける者もいた。


 リリアは、そのどれも否定できないと思った。


 もし自分の大切な人を殺されたなら。


 今日の判決を受け入れられるかどうか、分からない。


 しばらく座ったままでいると、レオンが静かに尋ねた。


「どうだった」


「……分かりません」


 リリアは正直に答えた。


「死刑じゃなくてよかったって思っている自分がいます。でも、その気持ちを被害者の人たちに理解してほしいとは思いません」


「ああ」


「セドリックには生きてほしい。でも、だからって許したわけじゃない」


「それでいい」


 レオンは迷わず言った。


「同じ判決を見たからといって、全員が同じ気持ちになる必要はない」


 リリアは少しだけ頷き、それから隣の男を見る。


「レオン様は?」


「俺か」


 レオンはしばらく答えなかった。


 かつてセドリックが立っていた被告席へ目を向ける。


「少し前の俺なら、自分の手で殺していたかもしれない」


 静かな言葉だった。


 リリアは驚かなかった。


 セドリックはレオンの人生を利用し、深淵の力を奪おうとし、リリアまで道具として扱おうとした。


 彼が憎かったとしても当然だ。


「今は?」


「殺して終わらせたいとは思わない」


 レオンはゆっくり息を吐いた。


「むしろ、生きて見ろと思う」


「何をです?」


「あいつが壊した後を」


 リリアは黙って続きを待った。


「被害者がどう生きていくのか。許さないまま幸せになる者がいることも、怒りを抱えたまま年を取る者がいることも、失った名前が戻って泣く家族がいることも、自分が何十年記録を整理しても感謝されないことも、全部見ればいい」


 その言い方は厳しかった。


 しかし、それは単なる憎しみではなかった。


「それが償いなんでしょうか」


「分からない」


 レオンは正直に答えた。


「償いなんて、した側が勝手に決めることじゃないだろう」


「……そうですね」


「ただ、生きているなら、したことから目を逸らさずにいろ。それくらいは思う」


 リリアは胸の中で、その言葉をゆっくり受け止めた。


 罰とは終わるためにあるものだと思っていた。


 判決が出れば、ひとつの物語に区切りがつくのだと。


 けれど、そうではないのかもしれない。


 判決があっても、被害者の人生は続く。


 罪を犯した者の人生も続く。


 そして、許さないという気持ちすら、その後も残り続ける。


「終わらせないための判決なのかもしれませんね」


 リリアが呟くと、レオンがこちらを見た。


「何を」


「セドリックがしたことを、昔の事件として終わらせないための」


 レオンは少し考え、やがて小さく頷いた。


「ああ。そうかもしれない」


     ◇


 大法廷を出た先の長い回廊で、リリアたちは第一王子を見つけた。


 護衛は少し離れた場所に立っているが、彼自身は窓のそばで一人、王都の街並みを眺めていた。


「殿下」


 リリアが声をかけると、第一王子はゆっくり振り返った。


「終わったな」


「はい」


 その顔には疲労が色濃く浮かんでいる。


 リリアは少し迷ってから尋ねた。


「どう思いました?」


「難しいことを聞くな」


 第一王子は苦笑した。


「王になる者として答えるか、兄として答えるかでまったく違う」


「では、両方聞いてもいいですか」


「君は時々容赦がないな」


 そう言いながらも、不快そうではなかった。


 しばらく沈黙した後、彼は静かに答える。


「次の王としては、必要な判決だと思う」


 視線を窓の外へ向ける。


「王族だから罪が軽くなる前例を残すわけにはいかない。ましてや、これだけのことをした人間だ」


「はい」


「兄としては」


 そこで言葉が止まる。


 第一王子は少し目を伏せた。


「つらい」


 それだけだった。


 けれど、その短い一言の中に十分すぎるほどの感情が込められていた。


「一生、自由にならない」


「ああ」


「あなたが王になっても」


「変えない」


 第一王子はリリアが言い終える前に答えた。


「今日、あいつもそう言った。俺も、そのつもりだ」


 拳を握る。


「弟だから助けたいと思うことは、たぶんこの先もある。でも、それを理由に王として法を曲げたら、あいつのためにもならない」


 声に迷いはあった。


 それでも、決意は揺れていなかった。


「ただ」


 第一王子は少しだけ困ったように笑った。


「兄として会いに行くくらいは、許されるだろうか」


 その問いに、リリアはすぐには答えず、レオンを見る。


 レオンは肩をすくめた。


「司法が認める範囲なら、誰も止めないだろう」


「特別扱いではなく?」


「面会規則を守るなら」


 第一王子は少しだけ表情を緩めた。


「そうか」


「兄でいることまで、判決で剥奪されたわけじゃありません」


 リリアがそう言うと、彼は一瞬目を見開き、それから小さく笑った。


「ああ。そうだな」


     ◇


 その日の午後、セドリックは王宮へ戻されなかった。


 判決確定と同時に、王国公共記録院に併設された司法監督棟へ移送されたのだ。


 まだ正式開院前の建物の一角には、司法監督下に置かれる者のための区画が設けられている。セドリックに与えられたのは、寝台と机、本棚があるだけの簡素な一室だった。窓には魔術封鎖が施され、扉の外には常に監督官がいる。


 豪奢な王子の部屋とは比べるまでもない。


 けれど、地下牢でもなかった。


 刑罰の目的は苦痛を与えることではない――判決の言葉通りの部屋だった。


「最初の作業資料です」


 記録官が一冊の薄いファイルを机の上へ置いた。


 セドリックは表紙を見た瞬間、動きを止めた。


『エドガー・ハインツ』


 裁判で証言したアンナ・モートンの夫。


 かつて、被験者番号一一二と呼ばれていた男。


 自分が殺した人間。


「今日から、こちらの記録確認をお願いします」


 記録官の声は事務的だった。


「残存する研究記録と当時の施設資料を照合し、収容期間、実験内容、死亡時期、遺体処理記録の有無を確認してください」


「分かった」


「分からない箇所は、不明と記載してください」


「ああ」


「記憶だけを根拠に推測で埋めないでください。必ず資料と照合を」


「理解している」


 記録官はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。


 扉が閉じる。


 一人になったセドリックは、すぐには椅子へ座らなかった。


 長い間、表紙の名前を見つめ続ける。


「エドガー・ハインツ」


 やがて、声に出した。


 番号ではない。


 実験体でもない。


 一人の人間の名前。


「エドガー・ハインツ……」


 もう一度呼ぶと、頭の奥から断片的な記憶が蘇ってきた。


 研究室の冷たい光。


 拘束具。


 反応値を報告する部下の声。


 適合しない。


 次へ回せ。


 失敗。


 処理。


 あの頃の自分は、そういう言葉で人間を見ていた。


 名前を覚える必要などないと思っていた。


 誰かの夫であることも。


 誰かの父親であることも。


 その人自身が何を望み、何を恐れていたのかも。


 何ひとつ知ろうとしなかった。


 セドリックはゆっくり椅子へ座ると、震える指で筆を取った。


 最初の確認欄に文字を書く。


『存在確認』


 そこで一度、手が止まった。


 少し時間を置いて、その下へもう一つ書き加える。


『記録継続』


 たったそれだけの文字を書くのに、ひどく長い時間がかかった。


 だが、これから彼が行う仕事は、その繰り返しなのだろう。


 一人ずつ。


 一つずつ。


 戻せるものだけを戻す。


 それで許されるわけでも、罪が減るわけでもないまま。


     ◇


 夜になり、正式な許可を受けた面会者が司法監督棟を訪れた。


 第一王子だった。


 面会室には透明な魔術結界が設けられ、二人の間を隔てている。直接触れることはできず、会話も記録される。


 セドリックは椅子に座ったまま、結界の向こうにいる兄を見た。


「来たのか」


「ああ」


「判決の日から来るなんて、ずいぶん熱心だな」


「面会許可が出たからな」


 第一王子は向かい側の椅子へ腰を下ろした。


「作業は?」


「始めた」


「何の記録だ?」


「エドガー・ハインツ」


 その名前を聞いた瞬間、第一王子の表情が僅かに曇る。


「そうか」


「ああ」


 二人の間に短い沈黙が落ちた。


 やがて第一王子が口を開く。


「本当に控訴しないのか」


「しない」


「もう少し考えても」


「兄上」


 セドリックが静かに遮る。


「王になった後も、私の刑を変えるな」


 第一王子が黙る。


「恩赦も、特赦も、減刑もいらない」


「まだ何も言っていない」


「言おうとしただろう」


 セドリックが少しだけ笑う。


「兄上は昔から顔に出る」


「お前にだけは言われたくない」


「私は昔から顔に出さない方だった」


「だから面倒だった」


 二人とも、ほんの僅かに笑った。


 けれど、すぐにセドリックの表情が真剣なものへ戻る。


「もし兄上が王になって、弟だからという理由で私の刑を変えたら、それは王として間違いになる」


「……分かっている」


「なら、しないでくれ」


 第一王子はしばらく俯いていた。


 やがて顔を上げる。


「ああ。しない」


「約束する?」


「する」


 それを聞き、セドリックは小さく息を吐いた。


「ありがとう」


 第一王子の顔が少し歪んだ。


「そんなことを言うな」


「では、何と言えばいい」


「知らない」


「王になるなら考えろ」


「まだ即位していない」


「もうすぐだ」


「人使いが荒いな」


「使ってはいない」


 昔なら、同じ部屋でこんな会話をすることすら難しかった。


 兄は弟の嫉妬に気づかず。


 弟は兄の優しささえ憎んだ。


 何も言わないまま、互いに遠ざかった。


「兄上」


「何だ」


「一つだけ頼んでもいいか」


 第一王子が少し身を乗り出す。


「刑を変えろ以外なら」


「そんなことは言わない」


 セドリックは結界越しに兄を見る。


「たまに来てくれ」


 第一王子の目が大きくなる。


「面会許可が出る時だけでいい。仕事の話でも、王宮のくだらない話でもいい」


「……それだけか」


「ああ」


 セドリックは少し困ったように笑った。


「昔、もっとそうしていればよかったと思っただけだ」


 兄の目が僅かに赤くなる。


 けれど、泣かなかった。


「ああ」


 静かに頷く。


「来る」


「無理はするな。王になるんだから忙しいだろう」


「お前が頼んだんだろう」


「そうだった」


 二人の間に沈黙が落ちた。


 以前の沈黙は、互いを拒絶するためのものだった。


 今は違う。


 言葉がなくても、そこにいていいと思える時間だった。


     ◇


 その夜、リリアは公爵邸へ戻ると、すぐには部屋へ戻らず庭へ出た。


 月白花が夜風に揺れ、淡い光を受けて白く浮かび上がっている。


 少し遅れて、レオンも隣へ来た。


 ノクスは二人から少し離れた芝生の上で丸くなっている。


「長い一日でしたね」


「ああ」


 リリアは花を眺めながら、昼間の法廷を思い出していた。


 泣いていた人。


 怒っていた人。


 判決を聞いても表情を変えなかった人。


 それぞれが、それぞれの傷を抱えている。


「レオン様」


「何だ」


 リリアは少し迷った。


「私たち、幸せになってもいいんでしょうか」


 その言葉を聞いたレオンが、ゆっくりこちらを見る。


「なぜ今さらそんなことを聞く」


「今日、被害者の人たちを見ていたら……」


 リリアは自分の言葉を探した。


「私たちはこれから結婚して、普通に暮らそうとしています。きっと笑うし、楽しいこともたくさんあると思う。でも、今日あそこにいた人たちの中には、これからもずっと苦しい人がいる」


 レオンは黙って聞いていた。


「私はセドリックに殺されたわけじゃない。取り戻せたものもたくさんある。それなのに私だけ幸せになっていいのかなって、少し思ってしまって」


 その瞬間、レオンがリリアの手を取った。


「誰かが苦しんでいるから、お前まで苦しめばその人が救われるのか」


 優しい言い方ではなかった。


 けれど、それがレオンなりの真剣さだとリリアには分かる。


「いいえ」


「お前が笑わないことで、失った人間が戻るのか」


「戻りません」


「なら、幸せになれ」


 迷いのない言葉だった。


「被害者がセドリックを許さないことと、お前が幸せになることは別だ。誰かの怒りを尊重するために、お前まで自分の人生を捨てる必要はない」


 その言葉に、リリアは以前セドリックへ言ったことを思い出した。


 感謝することと、許すことは別。


 ひとつの感情が、すべてを決める必要はない。


「それに」


 レオンが続ける。


「俺はお前と幸せになるつもりだ」


 あまりにも当然のように言われて、リリアは一瞬言葉を失った。


「……私の意見は?」


「お前もそう言っていただろう」


「そうですけど」


「なら問題ない」


 少し離れた場所からノクスの声が飛んできた。


『結論が雑だな』


「お前は黙っていろ」


『我は客観的な意見を述べただけだ』


 リリアは思わず笑った。


 ノクスがこちらを見て目を細める。


『笑ったな』


「はい」


『ならよい』


 その一言に、今度はリリアが少し驚いた。


「ノクスも、私に幸せになってほしいんですか?」


『当然だろう』


「意外です」


『なぜだ』


「人間は面倒だって、いつも言ってるので」


『面倒なのと、不幸になれと思うのは別だ』


 リリアは目を丸くしたあと、静かに笑った。


「そうですね」


『それに、お前が暗い顔をしているとレオンまで機嫌が悪くなる。非常に面倒だ』


「結局そこですか」


「俺を巻き込むな」


 三人の会話が、静かな庭へ自然に溶けていく。


 今日、一つの判決が出た。


 けれど、それですべてが終わったわけではない。


 被害者の痛みも。


 セドリックの罪も。


 第一王子が抱える兄としての苦しみも。


 何ひとつ簡単に消えはしない。


 それでも、明日は来る。


 人は生き続ける。


 そして、生きる以上は、自分の未来を選ばなければならない。


「レオン様」


「何だ」


「婚礼、楽しみですか?」


 レオンは一度、怪訝そうな顔をした。


「今、その話をするのか」


「重い話ばかりだったので」


「そうか」


 リリアは少しだけ笑う。


「私は楽しみです」


「ああ」


「レオン様は?」


 レオンはしばらく黙っていたが、やがてリリアの手を握ったまま答えた。


「早く結婚したい」


 不意打ちだった。


 リリアの頬が一気に熱くなる。


「どうして、そういうことを急に言うんですか」


「聞いたのはお前だ」


「もっと普通に『楽しみだ』とかでいいじゃないですか」


「同じ意味だろう」


「違います」


 ノクスが呆れたようにため息をついた。


『人間は本当に面倒だ』


「ノクスには分かりません」


『分からなくてよい』


 そう言いながら、ノクスは立ち上がって二人の方へ歩いてくる。


『ところで婚礼の我の役は決まったのか』


「まだ正式には」


『遅い』


「そんなに楽しみなんですか?」


『重要な役を寄越せ』


 レオンが眉を寄せる。


「なぜお前が一番張り切っている」


『当然だ。我もここまで一緒に来たのだからな』


 その言葉に、リリアは少しだけ胸が温かくなった。


「では、ちゃんと重要な役を考えます」


『約束だぞ』


「はい」


 リリアはレオンとノクスを見ながら、ふと家の方へ視線を向けた。


 公爵邸の窓には温かな灯りが並んでいる。


 初めてこの屋敷を訪れた頃、あの灯りを自分の帰る場所だと思う日が来るなど想像もしなかった。


 けれど今は違う。


「戻りましょうか」


 リリアが言う。


「ああ」


 三人で屋敷へ向かって歩き出す。


 玄関へ近づいたところで、リリアは何となくレオンを見上げた。


「おかえりなさい」


 深く考えて言ったわけではなかった。


 ただ、自然に出た言葉だった。


 レオンは一瞬だけ目を見開いた。


 それから、静かに表情を緩める。


「ただいま」


 その返事を聞いた時、リリアは胸の奥にあった重いものが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。


 罪は消えない。


 傷も消えない。


 許されないものもある。


 それでも、人は帰れる場所を作ることができる。


 誰かを忘れないためだけではなく、何度迷っても、また戻ってくるための場所を。


 セドリックの判決は、この日確定した。


 彼の罪に終わりはない。


 生涯、自由へ戻ることもない。


 そして被害者たちに、彼を許す義務など決してない。


 それでも彼は生きて、自分が奪った名前と向き合い続ける。


 第一王子は、その事実を抱えたまま王になる。


 リリアとレオンもまた、過去を忘れず、それでも自分たちの幸せを選んでいく。


 誰もがそれぞれ違う未来へ進み始める。


 終わらないものを抱えながら。


 それでも、明日へ向かって。

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