第六十話 王冠を受け取る覚悟
朝の光が公爵邸の食堂へ差し込む頃、リリアは湯気の立つスープを前にしながら、向かいに座るレオンの顔を何度目か分からないほど見つめていた。
窓の外では、春の終わりを告げるような淡い風が庭木を揺らし、その合間を縫うように月白花の花びらが舞っている。いつもと変わらない朝だった。焼きたてのパンがあり、卵料理があり、使用人たちの静かな足音が廊下から聞こえてくる。その穏やかさとは裏腹に、リリアの胸の内には朝から薄い緊張が張りつめていた。
「いよいよ、明日ですね」
リリアが口にすると、レオンは手にしていたカップを静かに置いた。
「ああ」
それだけの返事だったが、彼もまた同じことを考えていたのだろう。
明日、セドリック・アルベルトに対する最終判決が言い渡される。
長く続いた裁判では、黒霧事件をはじめ、王宮研究局で行われた人体実験、誘拐や監禁、記憶操作、魔術を利用した殺傷、そして王都全体を巻き込もうとした大規模な儀式について、多くの証言と記録が提出された。被害者や遺族だけでなく、当時研究局に所属していた者、黒鴉会に関わっていた者、王宮内部の関係者までもが証言台に立った。
何より、セドリック自身がほぼすべての罪を認めていた。
もはや、彼が罪を犯したか否かが争われているわけではない。
問われているのは、その罪に対してどのような刑が下されるのかということだった。
「眠れましたか?」
リリアが尋ねると、レオンは僅かに眉を上げた。
「なぜ俺に聞く」
「何となくです。昨日、いつもより遅くまで起きていたでしょう?」
「書類を読んでいただけだ」
「本当に?」
「お前こそどうなんだ」
「私は……」
そこで言葉に詰まった。
レオンがすぐに気づく。
「眠れなかったのか」
「全然というほどではありません。でも、何度か起きました」
昨夜、目を閉じるたびに裁判で聞いた言葉が蘇った。
セドリックが自分の罪を認めた時の声。
アンナ・モートンが夫の名前を口にした時の表情。
傍聴席で泣いていた人々。
そして、自分の中にある、どうしても一つにはまとめられない感情。
「リリア」
「はい」
「明日の判決について、お前は何を望んでいる」
思いがけないほど真っ直ぐな問いだった。
リリアは少し俯いた。
すぐに答えられなかった。
死んでほしくない。
けれど、自由になってほしいとも思わない。
許してはいない。
それでも、すべてを奪い去って終わりにしてほしいとも思えない。
「……分かりません」
しばらくして、リリアはようやくそう答えた。
「正直に言うと、死刑になってほしいとは思っていません。でも、もし数年後に普通の生活へ戻れると言われたら、それも違うと思います」
声にしたことで、自分の中の複雑な感情が少しだけ形を持った。
「私、怖いんです」
「セドリックがか?」
「それも少しあります。でも、それだけじゃなくて……」
リリアは自分の指先を見た。
「簡単に終わるのが怖いんだと思います」
レオンは何も言わず、続きを待っていた。
「私たちに起きたことも、亡くなった人たちのことも、傷ついた人たちの人生も、数年経って彼が外へ戻ったら、全部昔のことみたいになる気がして」
そこまで言ってから、リリアは困ったように笑った。
「変ですよね。死んでほしいわけじゃないのに、自由にもなってほしくないなんて」
「別に変ではない」
レオンは即座に答えた。
リリアが顔を上げる。
「感情に、一つだけの正しい形があると思うか」
「……思いません」
「なら、それでいい」
レオンは静かに続けた。
「俺もセドリックを許していない。お前を利用したことも、俺を器として扱ったことも、ノクスを奪おうとしたことも、他の人間を犠牲にしたことも忘れていない」
その声には、抑えられてはいるものの確かな怒りが残っていた。
「だからといって、俺が必ずあいつの死を望まなければならないわけでもない」
「レオン様は……もし法廷がなかったら、どうしていました?」
何気なく尋ねたつもりだったが、レオンは少しだけ考えた。
「以前の俺なら、殺していたかもしれない」
「やっぱり」
「驚かないのか」
「少しは。でも、昔のレオン様ならそうしそうです」
「ひどい評価だな」
「褒めていません」
リリアが小さく笑うと、レオンの表情も僅かに緩んだ。
「今は違うんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「俺一人で決めることじゃないと分かったからだ」
その答えに、リリアは少し驚いた。
レオンは続ける。
「被害者がいる。遺族がいる。この国の法がある。俺が個人的に憎いからといって、それだけで相手の命を決めていいわけじゃない」
以前の彼なら考えなかったことだろう。
自分一人ですべてを背負い、自分一人で敵を倒し、自分一人で責任を取ろうとしていた男が、今は誰かと共に決めるということを受け入れている。
リリアはそんな変化を嬉しく思った。
「レオン様、変わりましたね」
「最近よく言われる」
「嫌ですか?」
「別に」
「いい意味ですよ」
「分かっている」
その時、食堂の扉が開いた。
『朝から随分と重い話をしているな』
小さな夜色の獣の姿をしたノクスが、当然のような顔で入ってくる。そのまま椅子へ飛び乗ると、テーブルの上を見回して不満そうに目を細めた。
『肉がない』
「朝から肉は出ません」
『なぜだ』
「胃に重いからです」
『神に胃の心配をするな』
「この前、食べ過ぎて苦しいって言っていたのは誰ですか?」
ノクスは黙った。
レオンが鼻で笑う。
「子供か」
『お前に言われたくない』
「何がだ」
『薬』
今度はレオンが黙る番だった。
リリアはぴくりと眉を動かした。
「レオン様」
「何だ」
「昨日の薬、飲みました?」
「飲んだ」
『半分残した』
「ノクス」
『事実だ』
リリアは深く息を吸った。
「後でちゃんと飲んでくださいね」
「分かった」
「本当に?」
「分かったと言っている」
ノクスが小さく呟く。
『信用がないな』
「お前は黙って食べていろ」
『肉がない』
「パンを食べろ」
『嫌だ』
朝食の席に、いつものやり取りが戻ってくる。
リリアはその光景を眺めながら、ふと胸が温かくなるのを感じた。
ほんの少し前まで、こんな日常は想像もできなかった。
深淵と呼ばれた神が同じテーブルで食事をし、銀狼公爵が苦い薬を嫌がり、自分がそれを叱っている。
世界の命運を左右するような出来事ではない。
けれど今のリリアには、こういう時間こそ守りたいものだった。
だからこそ、明日の判決がどんなものになったとしても、その先を生きていかなければならないのだと思った。
◇
同じ朝。
王宮の執務室では、第一王子が机に広げられた二つの書類をじっと見つめていた。
一つは、翌日に開かれるセドリックの最終公判に関する通知。
もう一つは、王位継承の正式な手続きに関する書類だった。
弟の判決と、自分の即位。
まるで示し合わせたかのように、二つの大きな出来事がほぼ同時に迫っている。
「……随分と重なるものだな」
小さく呟いてみたものの、返事をする者はいない。
第一王子は椅子の背へ身体を預けた。
かつて、王になることに疑問を抱いたことはなかった。
第一王子として生まれた。
ならば、いつか父の後を継いで国王になる。
それは自分で選ぶものではなく、最初から決められている未来だと思っていた。
だから、弟がそれをどれほど羨み、どれほど欲しがっていたのかも気づかなかった。
自分には当たり前だったものが、セドリックには決して届かないものだった。
だからといって、弟が行ったことを正当化できるわけではない。
そのことも、今でははっきり分かっている。
忘却の海で何度も突きつけられた問いを思い出す。
兄でいるのか。
王になるのか。
どちらかを選べ。
どちらかを捨てろ。
あの時、彼は初めてその問いそのものを拒んだ。
兄であることを捨てず、王になる道も捨てない。
その代わり、両方を背負う。
それが自分で選んだ答えだった。
執務室の扉が叩かれた。
「入れ」
側近が姿を見せる。
「殿下、午前の評議会の準備が整いました」
「ああ」
「それから、国王陛下が午後にお時間を取りたいとのことです」
「父上が?」
「王位継承について、直接お話しされたいそうです」
第一王子は机の上の書類へ一度目を向けた。
「分かった。予定を空けてくれ」
「承知いたしました」
側近が退室した後、第一王子は静かに息を吐いた。
王になる。
その言葉は、以前よりずっと重く感じる。
けれど、それは悪いことではないのかもしれない。
怖さを知らないまま王冠をかぶる方が、よほど危険なのだろう。
◇
午後。
第一王子が国王の私室へ入ると、父は王衣を身につけず、窓辺に立っていた。
年齢のせいだけではない。
ここ最近、国王は急に老け込んだように見える。
公の場では決して見せない疲れが、今は肩や背中にそのまま表れていた。
「来たか」
「はい」
「座れ」
第一王子は向かいの椅子へ腰を下ろす。
親子二人きりになること自体が、思えば珍しかった。
幼い頃から、父は父であるより国王だった。
自分も息子である前に第一王子であることを求められてきた。
「明日だな」
国王が口を開く。
「セドリックの判決」
「はい」
「怖いか」
第一王子は一瞬、質問の意味を測りかねた。
「判決がですか?」
「ああ」
少し迷ってから、正直に答える。
「怖いです」
「そうか」
「軽すぎても、重すぎても……きっと私は何かを思うでしょうから」
国王は小さく頷いた。
「私もだ」
その言葉に、第一王子は思わず父を見る。
「父上も?」
「息子だからな」
遅すぎる言葉だった。
けれど、嘘には聞こえなかった。
「私は長い間、王であることを理由に、父親であることを後回しにしてきた」
国王はゆっくりと話し始めた。
「お前にも、セドリックにも、それが正しいと思っていた。王の子である以上、王族として育つべきで、弱さを見せるべきではないと」
苦い笑みを浮かべる。
「結果として、私は二人とも見ていなかった」
第一王子は何も言えなかった。
父の言葉を聞きながら、幼い頃のセドリックを思い出していた。
何かと自分を張り合う弟。
勝てば得意そうに笑い、負ければ不機嫌になる弟。
自分はそれを、子供らしい競争心だとしか思っていなかった。
本当はもっと深いものがあったのだろう。
「お前が王になれば」
国王が言う。
「同じ間違いをするかもしれない」
第一王子は顔を上げた。
「それでも、王になるか」
命令ではなかった。
確認でもない。
父親が息子へ尋ねる問いだった。
第一王子はすぐには答えなかった。
怖い。
その気持ちは確かにある。
国を間違った方向へ導くことも。
誰かを傷つけることも。
王である自分が正しいと思い込み、父と同じ失敗をすることも怖い。
「……なります」
やがて、静かに答えた。
「なぜだ」
「私が選んだからです」
その言葉に、国王の表情がわずかに変わる。
「第一王子だからではありません。父上の息子だからでもない。今のこの国に、責任を引き受ける人間が必要だと思った。そして、自分がそれをすると決めました」
一度、自分の手を見る。
「怖くないわけではありません。むしろ、昔よりずっと怖いです」
「それでもか」
「はい」
第一王子は父を見た。
「怖いからこそ、自分一人を正しいと思わない王になりたいです」
国王はしばらく息子を見つめていた。
やがて、少しだけ笑う。
「そうか」
「はい」
「なら、私よりましな王になれるかもしれんな」
第一王子も、ほんの僅かに笑った。
「努力します」
「努力だけでは困る」
「では、必ず」
「それも危ういな」
珍しく父の方から冗談めいた言葉が返ってきて、第一王子は少し驚いた。
こんなふうに話せたのなら。
もっと早く。
そう思った。
けれど、過去は変えられない。
ならば、今できることをするしかない。
◇
夕方になる頃、リリアとレオンは王都でも有名な婚礼衣装店を訪れていた。
「これで何着目ですか?」
試着室から顔を出しながらリリアが尋ねると、ミアは満面の笑みを浮かべた。
「あと三着です!」
「まだ三着もあるんですか?」
「最終候補ですから!」
「さっきも最終候補って聞きました」
「さっきは十二着の最終候補です!」
「それを最終候補とは言わないと思います」
リリアが力なく言うと、少し離れた長椅子に座っていたレオンが口を開いた。
「もう帰ればいい」
「駄目です!」
ミアが即座に振り返る。
「レオン様も選んでください!」
「全部似合っている」
「それが一番困る答えです!」
レオンは明らかに納得していない顔をした。
その足元には、なぜかノクスまでいる。
『我は先ほどの藍色が入ったものがよい』
リリアは試着室から顔を出したまま、ノクスを見る。
「ちゃんと見ていたんですか?」
『当然だ』
「どうしてあれがいいんです?」
『我の色が入っている』
「やっぱりそこですか」
レオンが呆れたように言う。
「白でいいだろう」
「全部白が基本です」
ミアの返答に、レオンが僅かに眉を寄せる。
リリアは思わず笑った。
次に試した衣装は、白を基調に銀糸の刺繍が入ったものだった。上半身は控えめな意匠だが、腰から裾にかけて淡い藍色が薄く重なり、歩くたびに夜空のような色が僅かに見える。
さらに、裾には月白花の刺繍が施されていた。
リリアが試着室の幕を開ける。
「どうでしょう」
返事がなかった。
ミアは目を輝かせている。
ノクスも珍しく黙っている。
そしてレオンは、ただリリアを見つめていた。
「レオン様?」
呼びかけても、すぐには返事がない。
『気に入ったのだろう』
ノクスが先に言った。
「黙れ」
『図星か』
レオンはノクスを睨んだ後、改めてリリアを見る。
「それがいい」
「本当ですか?」
「ああ」
「理由も聞いていいです?」
少し意地悪な気持ちで尋ねる。
また「全部」と答えるかと思った。
けれど、レオンは少し考えてから口を開いた。
「白も銀も藍も入っているからだ」
「色ですか?」
「違う」
レオンは視線を逸らさない。
「白はお前の月華だ。銀は俺。藍はノクスを思い出す」
リリアは言葉を失った。
「全部あって、それでも衣装に負けずにお前に見える」
その言葉が、ゆっくり胸の奥へ染み込んでくる。
ミアは後ろで完全に涙ぐんでいた。
『我もこれがよい』
ノクスも頷く。
「ありがとうございます」
『我の色が入っているからな』
「そこはもう分かっています」
リリアは笑いながら、鏡に映る自分を見つめた。
白。
銀。
藍。
まるで自分たちが歩いてきた道を重ねたような色。
ここへたどり着くまで、たくさんのものを失った。
傷ついた。
何度も諦めかけた。
それでも今、自分は結婚衣装を選んでいる。
誰かに命じられたからではない。
自分が、この人と結婚したいから。
「これにします」
リリアは鏡の中の自分へ、そう言い聞かせるように決めた。
◇
夜。
公爵邸へ戻った後、リリアとレオンは食後の散歩に庭へ出ていた。
昼間より冷たい風が吹いているが、空はよく晴れている。
月白花の間を歩きながら、リリアは自然と明日のことを考えていた。
「明日、判決が出ますね」
「ああ」
「その後は、殿下の即位もあります」
「そうだな」
「記録院も正式に動き出して、婚礼も近づいて……」
口にしてみると、本当に多くのものが動いていることが分かる。
「なんだか、急に未来が来るみたいです」
レオンが少しだけ眉を上げた。
「未来はいつも来ているだろう」
「そうなんですけど」
リリアは空を見上げた。
「前は、明日があるかどうかも分からないことが多かったから」
深淵。
王宮の地下。
黒霧。
忘却の海。
何度も命を失うかもしれないと思った。
「今は、先のことを考えられるでしょう? 婚礼の後どうするかとか、来年どうしているかとか」
「ああ」
「それが少し怖いんです」
「怖い?」
レオンが足を止める。
「幸せになるのが」
リリアは自分でも少しおかしなことを言っていると思った。
「幸せになればなるほど、失うのが怖くなる気がして」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「俺も同じだ」
「レオン様も?」
「ああ」
意外だった。
「昔は、何を失っても構わないと思っていた。自分も、公爵家も、深淵も。役目が終われば、それでいいと」
レオンは月白花へ視線を落とす。
「今は違う」
リリアを見る。
「お前がいる。ノクスもいる。グレイたちもいる。この屋敷も、以前より失いたくない」
声は穏やかだった。
「だから怖い」
それは弱さの告白だった。
けれどリリアには、弱い言葉には聞こえなかった。
「私もです」
リリアはそっと手を伸ばし、レオンの手を握った。
「怖いけど、それでも幸せになりたいです」
「ああ」
「レオン様と」
「他に誰がいる」
「そういうところです」
思わず笑ってしまう。
そして、少しだけ勇気を出す。
「私、早く結婚したいです」
レオンの足が止まった。
「……何です、その顔」
「いや」
「嫌なんですか?」
「違う」
レオンはリリアの手を握り直す。
「俺も早く結婚したいと思っていた」
今度はリリアが黙る番だった。
自分から言ったくせに、返されると恥ずかしい。
「そんなに真顔で言わないでください」
「どう言えばいい」
「もっとこう……」
「分からない」
「ですよね」
リリアは照れ隠しに笑った。
少し後ろを歩いていたノクスが呆れた声を出す。
『人間は幸せになるだけでも随分と面倒なのだな』
「ノクスには分かりません」
『分からなくてよい』
「婚礼には来てくださいね」
『当然だ』
「まだ役目は決めていませんけど」
『重要な役にしろ』
「そんなに参加したいんですか?」
『ここまで一緒に来たのだから当然だろう』
その言葉に、リリアは少しだけ胸が温かくなった。
「では、ちゃんと考えます」
『約束だぞ』
「はい」
レオンがため息をつく。
「なぜこいつが一番張り切っている」
『お前が張り切らなさすぎるのだ』
「俺は必要なことをしている」
『誓約文を何度も読み直していることか』
「ノクス」
レオンの声が低くなる。
リリアはすぐに反応した。
「何度も?」
「余計なことを言うな」
『事実だ』
「レオン様」
「違う」
「まだ何も言ってません」
結局、リリアは笑いながら屋敷へ戻ることになった。
◇
その頃。
王宮の拘禁区では、セドリックが一人、机に向かっていた。
手元には何枚もの紙がある。
裁判が始まって以来、彼が繰り返し読み続けてきたもの。
被害者の名前。
行方不明者の名前。
亡くなった者の名前。
かつて自分が番号でしか呼ばなかった人間たち。
その一枚で、指が止まる。
『エドガー・ハインツ』
アンナ・モートンの夫。
裁判で自分が殺したと認めた男。
被験者番号一一二。
セドリックはしばらく、その名前を見つめた。
明日、判決が出る。
死刑かもしれない。
終身刑かもしれない。
あるいは、自分が想像していない別の形かもしれない。
以前の自分なら、どうにかして逃げようとしただろう。
王族としての立場を利用したかもしれない。
誰かを脅し、記録を消し、邪魔な証人を黙らせようとしたかもしれない。
けれど今は、その考えが浮かばなかった。
机の端には、小さな青い木の駒が置かれている。
忘却の海へ入る時に用意した、記憶の錨。
兄は白。
自分は青。
セドリックはそれを手に取った。
「兄上」
誰もいない部屋で呟く。
兄はもうすぐ王になる。
昔の自分なら、それを考えるだけで胸の中が憎しみで満たされていただろう。
なぜ兄なのか。
なぜ自分ではないのか。
同じ王の子なのに。
そう思い続けた。
「……似合わないだろうな」
少しだけ笑う。
兄は昔から派手なものが似合わない。
王冠もきっと似合わない。
けれど。
「私よりは、ずっとましだ」
それを口にできた自分に、セドリックは少し驚いた。
認めるまで随分と長い時間がかかった。
あの王冠は、奪うべきものではなかった。
兄から取り上げれば自分が満たされるものでもなかった。
そもそも、自分が欲しかったのは王冠そのものではなく。
誰かに認められることだったのかもしれない。
だが、そのために多くのものを壊した。
今さら、それを過去へ戻すことはできない。
「王になれよ、兄上」
静かな声で言う。
それは譲る言葉ではない。
元から自分のものではなかった。
ただ、ようやく兄が選んだ道を認めただけだった。
セドリックは青い駒を机へ戻すと、再び被害者名簿を開いた。
「私は、私のことをする」
何ができるかは分からない。
明日、どのような刑が下されるかも分からない。
それでも生きることを許されるなら、自分が壊したものから目を逸らさない。
それしか、今の自分には選べなかった。
◇
夜更け。
第一王子もまた、王宮の執務室に一人残っていた。
机の上には王位継承の書類。
窓の向こうには、無数の王都の灯りが見える。
あれほどたくさんの人々の人生に関わる立場へ、自分はもうすぐ就く。
そう考えるだけで胸が重くなる。
「怖いな」
誰もいないからこそ、素直に口にできた。
父が退位する。
自分が王になる。
そして弟は明日、罪人として判決を受ける。
もしセドリックに極めて重い刑が下ったとしても、王になった自分がそれを覆してはならない。
兄としては助けたいと思うかもしれない。
それでも王として法を曲げてはいけない。
そんな未来を思うだけで苦しい。
しかし、それでも逃げないと決めた。
第一王子は窓を開けた。
夜風が執務室へ入り込む。
眼下に広がる王都を見ながら、忘却の海で自分が選んだ答えを改めて思い出した。
王とは国そのものではない。
国に生きる人間を所有する者でもない。
ならば、自分がすべきことは、すべてを一人で決めることではないのだろう。
「やるしかないか」
小さく呟く。
そして、ふと弟の顔を思い出した。
「セドリック」
遠く離れた拘禁区にいる弟へ届くはずもない。
それでも、名前を呼んだ。
「明日だな」
それ以上は言えなかった。
◇
同じ頃、公爵邸の寝室では、リリアが窓を閉めようとしていた。
月が明るい。
明日の朝が来れば、セドリックの判決の日になる。
その先には新しい王の即位があり、記録院の開院があり、そして自分たちの婚礼が待っている。
未来は止まらない。
誰かが罰を受けても。
誰かが王になっても。
誰かが傷を抱えたままでも。
時間は進んでいく。
「まだ寝ないのか」
後ろから声がして振り返ると、レオンがいた。
「今、寝ます」
「明日は早い」
「分かっています」
窓を閉じてから、リリアは少しだけその場に立ち止まった。
「レオン様」
「何だ」
「明日、どんな判決になっても」
言葉を選ぶ。
「一緒にいてください」
レオンは一瞬も迷わなかった。
「いる」
その返事を聞くだけで、胸の中の緊張が少し和らいだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うことか?」
「言いたかったんです」
「そうか」
リリアは微笑んだ。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
自分一人ではない。
そのことが、以前よりずっと大きな意味を持つようになっていた。
過去に何があったとしても、それを消すことはできない。
けれど、その先をどう生きるかは選べる。
セドリックは、自分の罪と向き合う未来を選ぼうとしている。
第一王子は、弟を愛したまま王になることを選んだ。
レオンは一人で背負う生き方をやめ、誰かと共に生きることを選んだ。
そしてリリアもまた、誰かを救うためだけではなく、自分自身が幸せになる未来を選ぼうとしている。
窓の外では、月白花が夜風に静かに揺れていた。
明日、ひとつの判決が下る。
それは何かを完全に終わらせるためのものではないのかもしれない。
その後を、それぞれがどう生きるのか。
新しい選択の始まりになるのだろう。
王都の夜は静かに更けていった。
そして、長かった裁判に一つの答えが示される朝が、すぐそこまで近づいていた。
読んでいただきありがとうございます。
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